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駆逐艦五月雨、ハンサ湾への輸送船護衛任務 [駆逐艦秋月]

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 1943年3月6日に、五月雨は6隻の輸送船を
護衛する艦隊に所属して、パラオを出撃しました。
行先は、メダンからハンサ湾に変更されていました。

 この作戦は、11日の昼から日没まで敵機に発見
されなければ成功するだろうという、ビスマルク海
海戦の反省もないといえるような、行き当たりばっ
たりの出撃でした。

 五月雨から、信号兵が一人輸送船に派遣される
ことになり、この信号兵が須藤氏のところに挨拶に
来ました。攻撃目標になりやすい輸送船への派遣
ということでしょげかえっていました。

 須藤氏も、他の艦に乗るのは嫌なものだと感じて
いました。仮に、大和に派遣されたとしても、単なる
便乗者にすぎないので、戦闘時は、対空戦闘時の
雷撃科の兵員と同じで、身を潜めているしかありま
せんでした。

 身をひそめるより、目前に敵を見ながら機銃を撃って
いる方が、恐怖を感じないので、便乗者は心細くなり
ます。

 須藤氏は、戦闘となると、真っ先に艦橋に駆け上がり、
自分の戦闘配置に一刻でも早く着くようにしていました。
これは、死ぬなら戦闘配置でという本能的な作用による
ものでした。

 3月7日に、コロンバンガラ島に輸送を行っていた、
峰雲と五月雨僚艦の村雨が、敵艦隊と遭遇し撃沈
するという報告が来ました。

 須藤氏は、峰雲と村雨は、横須賀から出てきたところ
なので、緊張度が欠けていたと聞かされました。一発も
敵に報いることなく撃沈したのは残念だったと記録して
います。

(追記)
 村雨が沈んだのは、ビラ・スタンモーア夜戦とよばれる
海戦です。須藤氏は、上記のような記録をしていますが、
この海戦は、アメリカ軍のレーダーによる射撃による奇襲
により、発見前に被弾したというのが実態です。

 敗戦理由を、緊張度が欠けていたとして、戦訓を引き出す
ということをしていないようでは、同じ失敗を繰り返すのは
当然と言えます。


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