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駆逐艦五月雨、ハンサ湾への輸送船護衛任務 [駆逐艦秋月]

 1943年3月6日に、五月雨は6隻の輸送船を
護衛する艦隊に所属して、パラオを出撃しました。
行先は、メダンからハンサ湾に変更されていました。

 この作戦は、11日の昼から日没まで敵機に発見
されなければ成功するだろうという、ビスマルク海
海戦の反省もないといえるような、行き当たりばっ
たりの出撃でした。

 五月雨から、信号兵が一人輸送船に派遣される
ことになり、この信号兵が須藤氏のところに挨拶に
来ました。攻撃目標になりやすい輸送船への派遣
ということでしょげかえっていました。

 須藤氏も、他の艦に乗るのは嫌なものだと感じて
いました。仮に、大和に派遣されたとしても、単なる
便乗者にすぎないので、戦闘時は、対空戦闘時の
雷撃科の兵員と同じで、身を潜めているしかありま
せんでした。

 身をひそめるより、目前に敵を見ながら機銃を撃って
いる方が、恐怖を感じないので、便乗者は心細くなり
ます。

 須藤氏は、戦闘となると、真っ先に艦橋に駆け上がり、
自分の戦闘配置に一刻でも早く着くようにしていました。
これは、死ぬなら戦闘配置でという本能的な作用による
ものでした。

 3月7日に、コロンバンガラ島に輸送を行っていた、
峰雲と五月雨僚艦の村雨が、敵艦隊と遭遇し撃沈
するという報告が来ました。

 須藤氏は、峰雲と村雨は、横須賀から出てきたところ
なので、緊張度が欠けていたと聞かされました。一発も
敵に報いることなく撃沈したのは残念だったと記録して
います。

(追記)
 村雨が沈んだのは、ビラ・スタンモーア夜戦とよばれる
海戦です。須藤氏は、上記のような記録をしていますが、
この海戦は、アメリカ軍のレーダーによる射撃による奇襲
により、発見前に被弾したというのが実態です。

 敗戦理由を、緊張度が欠けていたとして、戦訓を引き出す
ということをしていないようでは、同じ失敗を繰り返すのは
当然と言えます。

長井分校での玉音放送 [駆逐艦秋月]

 1945年8月14日に、明日重大発表があるので
全員集合の指示が出されました。ラジオの特設台
の前に教職員一同が整列しました。

 8月15日の正午、玉音が流れてきました。最初は
聞こえなかったものの、放送が進むと敗戦宣言で
あることがわかりました。山本氏は、負け戦ばかり
の2年間が、脳裏によぎりました。

 玉音放送の後、校長から、徹底抗戦の構えを見せて
いる部隊があるので、生徒が軽はずみな真似をしない
よう、教官は生徒と一緒に寝るようにという指示が出され
ました。

 しかし、この命令に従ったのは山本氏だけでした。
生徒達は、不穏な行動はおろか、物音一つ聞こえない
沈黙の世界でした。

 翌日、長井分校の終戦処理は、郷里に戻るということ
でした。商船学校の出身者は、本来なら元の学校に送還
すべきでしたが、交通事情で不可能でした。

 山本氏ら教官は、生徒を戻すことはできない旨のお侘びの
挨拶を、各商船学校にしてくるように命じられ、実施しています。

 挨拶が終わり長井分校に戻ると、生徒がいなくなった
学校は閑散としており、最後の生徒を、戦場に送らなくて
すんでほっとているように見えたと記しています。山本氏は、
8月下旬郷里に帰ることになりました。

(追記)
 山本氏は、海軍を去るとき奉職履歴を手渡されており、
「註 履歴書副本は大切に保存し、次回招集の際、携帯し
得らるる様なし置くこと」という判が押してありました。

 山本氏は、2度目の秋月の体験をしないで済むように
祈りますと締めています。

 山本氏は、この後、大阪商船に復帰し、海王丸や巡視船の
機関長を勤めています。

相模湾での戦闘 [駆逐艦秋月]

 1945年7月末に、長井分校校長が、全生徒を号令台の
前に整列させ、規律違反による懲罰申し渡しの儀式を行い
ました。

 校長は、号令台に立って、当該生徒を呼び出し、懲罰文を
厳かに読み上げるという、現在の学校でやったら新聞沙汰
になりそうな儀式でした。

 山本氏は、この日は当直士官だったため儀式には参加
していませんでした。式が始まる頃、B29が、学校近くの
相模湾の海面すれすれを飛んでいるという報告が
ありました。山本氏は、練兵所の端にある長井
分校の大砲まで向かいました。

 見ると、撃墜された搭乗員を救助するためにB29と
潜水艦が進行していました。山本氏は、こんな至近
距離なら攻撃すべきと考え、儀式は取りやめて
砲撃しろと伝令を飛ばしました。

 すると、砲術専門の教官がやってきて、この大砲は
撃つようになっておらず、弾もないとのことでした。

 山本氏は呆れましたが、そんな時、味方の旧式飛行機が
飛んできて、B29に向かって行きました。勇敢な行動ですが、
旧式機ではB29には対抗できず、撃墜されました。

 山本氏は、この様子の一部始終を見ていましたが、勇敢な
行動に心を打たれたと同時に、悲しい短編映画を見ている
ようだったと記しています。

 同時に、至近で味方が戦闘している時に、懲罰文を読み上げる
ような儀式を平気でやっている校長に、情けない思いをしていました。

(追記)
 長井分校の山側にある練兵場を隔てたところに桐の林が
あります。その林に一本の直線道路が伸びており、この
道路上を轟音を発しながら物体が疾走するのを見たと
いう話が教官の間で囁かれていました。

 新規の特攻兵器ではないかと噂されていましたが、分からず
じまいでした。

 戦後、山本氏は、これが日本最初のジェットエンジンを航空機
橘花(きっか)の試験していたものではないかと記しています。
橘花は、一部ドイツからの情報はあったものの、ほとんどが
国産開発だったジェット機です。

 終戦の頃は、航空機の技術的には遅れていたといわれますが、
ジェット機を開発する技術力はあったということを示しています。

長井分校の嫌われ校長 [駆逐艦秋月]

 山本氏が勤務している長井分校から200mくらいの
ところに、江田島の海軍兵学校の校長だった井上成美
(いのうえ  しげよし)大将が居を構えていました。

 長井分校の校長は、井上大将の薫陶を受けたのか、
真似をしていました。しかし、山本氏からみると井上大将
とは器量に差があり、教官の大半から嫌われていました。

 嫌われていた最も大きな原因は、空襲時の対応でした。
長井分校は、陸戦隊も兼務していますので、校長は、
陸戦隊の分隊長になり、教官が指揮に当たることに
なります。

 ところが、この校長は、空襲警報がなると防空壕にいち
早く逃げ込み、解除されるまで出てこないということでした。
典型的な敵前逃亡です。

 さらに、この人物は、1942年末から終戦まで、学校の
教官を勤めていますが、山本氏からすれば、海軍が敗戦
を重ねている時に、この学校に、「居座る」神経を疑っていま
した。

 このような人物のお諭しは、教官に届くはずもなく、
山本氏はおかしいと申し上げたら、「若いくせに生意気だ」
という返事が来ただけで、話にならないと判断しています。

 この後、山本氏をさらに呆れさせることを行っています。

(追記)
 井上成美大将は、海軍最後の大将といわれ、潔癖な人物
だったようで、海軍の軍人としては立派な人と言えます。
このせいで、海軍では嫌われることも多かったようです。

 一方で、名将かというと、疑問が出る人物です。新軍備
計画という戦略を立案していますが、主力艦同士の決戦は
起きないや陸上基航空地を優先するなど、戦略として破綻
しているといえます。

 上記の間違いは、珊瑚海海戦で司令官を勤めた時点で分かる
ことでしたが、その後も変更した形跡はありませんでした。

駆逐艦秋月で得た教訓 [駆逐艦秋月]

 山本氏は、戦傷の跡が生々しい顔をしていたこともあり、
戦訓の担当を命じられました。戦訓で教えるのは、実体験
に基づいた内容でした。山本氏は、駆逐艦秋月で得た教訓
として、罐室での出来事を、3点伝えています。

(1)人間の外気に触れている部分は皮膚だけではなく、
体の奥深くにある肺も外気に触れている箇所である。
熱気にさらされると、外気の影響を最も受けるのは
肺である。

 山本氏は、顔や手が剥離する熱さは記憶にないが、
肺が火事だということは感じていました。

(2)懐中電灯は、蒸気の中では役に立たない。このことは、
実際の場で初めて知り得ており、書物にも教育内容にも
なかった。蒸気密度と、光の到達距離との関係について
は研究すべである。

(3)肺が熱くなって呼吸できなくなり、床の上にあぐらをかいたら、
呼吸が楽になった。蒸気で充満すると空気は下に行くので、
足元の鉄板に顔をつけたらもっと楽になるのではないか。

(3つとも、ビル火災などに遭遇した時に、役立ちそうな教訓です)。

 横須賀にあった機関学校では、コンクリートの特別室を作って、
防毒マスクをつけて中に入れ、蒸気を噴出させて、熱くなったら
飛び出すという実験を行っていました。

 山本氏にとって、駆逐艦秋月の罐室から上甲板まで逃げる
数十秒の苦労は、その後、病院につくまでの数日の苦労に
匹敵すると評しています。

(追記)
 教育現場に身をおいているとはいえ、山本氏が着任した
当時は敵機の襲撃を受けるような時期でした。敵機の機銃で、
生徒の一人が負傷するということが発生しています。

 この頃は、艦の操船より、陸戦の訓練が重視されていました。
その際、戦車に近づきすぎて踏みつけられ死亡するという事故
も起こしています。

 山本氏が、長井分校に着任してから終戦までの4ヶ月で、3人が
死亡、1人負傷でした。教育の場では、今ほど安全が重視されて
いなかったといえます。

横須賀の長井分校での教官任務 [駆逐艦秋月]

 1945年4月5日頃、山本氏は、横須賀の長井分校に
着任しました。担当は、機械科の第十分隊でした。
山本氏と同じ商船学校出身者4人で、後輩生徒の
教育訓練にあたることになりました。

 ここでも、商船学校出身者と兵学校出身者の違いが
出てきました。商船学校出身者は、手紙に軍機を書いて
出してしまうという問題が発生していました。

 学校の生徒が知り得る程度内容は、重要性は高くない
ものの、検閲が一般的でない商船学校の生徒は違反者が、
多かったようです。

 しかも、規律違反者は、授業を受けさせずに反省室に
入れられた上に、規律違反は担当教官が悪いという理屈
で、山本氏も反省室に入れられるハメになりました。結局、
規律違反者が出るたびに、山本氏が、生徒の弁護をする
ことになりました。


 1945年7月ごろになると、敵軍が相模湾か九十九里浜に
上陸するという噂が流れ緊張が増してきました。山本氏は、
教官であると同時に、戦闘部隊にも所属しており、生徒を
招集して対応することになりました。

 この時は、誤報ということですぐに解散となりましたが、生徒
を招集して戦闘行為に付かせることは、戦後になって問題視
されていました。

(追記)
 ひどい規律違反の場合、教官が懲罰文を起案しなければ
なりませんでした。このようなものを書くのは大変ですが、
歴代の懲罰文を集めた事例集が発行されていました。

 その中には、酔って門限に遅れたといった内容に対し、
「酩酊その極みに達し静止すれども聞かず」といった文章が
あり、山本氏もユーモラスがあると評しています。

 このような事例集があるということから、先輩方は、規律違反を
犯した人たちが相当数いたことを示しています。しかしながら、
山本氏がいた頃は、余裕もなくなってきたのか、懲罰を与えな
ければならないような生徒は教育などせずに、前線に送って
やれと主張する人が出てきていました。

横須賀海軍砲術学校教官に配属 [駆逐艦秋月]

 山本氏が、訓練艦八雲で勤務していると、予備学生の
少尉が、問題発生のたびに、繰り言を言うようになって
きました。

 山本氏以外の尉官は、兵学校出身者で、第一線の前線に
は出ていない者たちばかりでした。しかし、プライドだけは高い
という有様でした。

 この者たちは、予備士官に対し、些細なことで殴るといった
行為をしており、商船学校出身の山本氏を、駆け込み寺の
ようにしていたということです。山本氏も、困ったものだと
思っていたものの、何かできるわけではありませんでした。

 1945年3月17日に、八雲が敵機の襲撃を受けた時、
兵学校出身者も予備士官も行動に大差なく、予備
士官生は溜飲を下げていました。弾丸の下では、
体が覚えていることをやるので、知識より経験
でした。

 山本氏は、繰り言を聞かされていたものの、山本氏が
知らない法律や演劇、絵画、音楽といったバラエティに
富んだ出身者がいたので、話をすることは楽しんでいま
した。


 山本氏は、3月20日付けで、横須賀海軍砲術学校教官
に配属されました。しかし、呉の一帯は、米軍機によって
磁気機雷を敷設されていたため、船が運休してしまい、
本土に戻るの術を探す必要がありました。

 4月2日頃、転勤者や公用使を運ぶ木造帆船が出港する
ので、これに便乗して本土に向かいました。辞令を受けて
から10日以上無為に過ごしてしまいました。

(追記)
 山本氏は、3月17日と記録していますが、“雪風、回天の
標的艦を勤める”でも紹介しています通り、呉の空襲は
3月19日です。しかし、八雲が襲われたのが、この時
という確証はとれないので、山本氏の間違いとは
いいきれませんでした。

 3月19日の空襲時は、日本軍も反撃しており、アメリカの
空母1隻を大破させ、特攻により、何隻かの艦艇に損害を
与えています。

兵学校教育の魔性 [駆逐艦秋月]

 訓練船八雲では、乗艦実習として、出入港前日に艦内の
大教室で研究が行われました。入港先が決定すると、入港
に伴う問題を生徒に調査させて、発表させるものです。

 山本氏は、この時の授業の様子を見て、兵学校の出身者と
商船学校の出身者の違いを感じていました。兵学校出身者は、
教官が課題を与えると、自分に発表させてもらいたいという
思いが強く、全員が挙手する積極性を示していました。

 対して、山本氏の後輩でもある商船学校出身者は、消極的で、
山本氏自身がもどかしさを感じたと評しています。とはいえ、
山本氏は兵学校出身者の積極性も、奇異の感じを持って
いました。度が外れた不自然さがありました。

 冷静になると、商船学校出身者の方が自然ではないかととも
評しています。同時に、商船学校出身者の山本氏から見ると、
兵学校の卒業生を温存し、商船学校出身者が危険地帯に
回されたように感じていました。ノブレス・オブリージュ
(特権には義務が伴う)の教育が不十分ではないか
としています。

 これは、イギリスの貴族に伝わる義務で、第二次世界大戦では、
多くの貴族の子弟が戦死していることと対比できます。兵学校の
出身者は、大半は貴族ではありませんが、特権集団ではあったと
言えます。

(追記)
 山本氏が、兵学校で学んでいた弟と終戦後再会した時、
弟は兵学校で使っていた数学の教科書を世界一だと
言っていました。山本氏は、そんなことあるかと反論
すると、教官が言うので間違いないと言っていました。

 山本氏は、この言葉であきれと同時、信頼を通り越した
信仰に近い教育をする兵学校に、魔性を感じていました。
弟には、山本氏が商船学校で使用していたノートと市販の
参考書を見せ、目を覚まさせています。

練習艦八雲の生活 [駆逐艦秋月]

 練習艦八雲に配属になったものの、この当時は日本の
近海でも潜水艦が活動しており、瀬戸内海のみが練習
できる唯一の場所でした。

 朝3時半に起きて出港準備をした後、朝方出港し夕方に
どこかの港に投錨する。翌朝も、同じ手順で出港するの
繰り返しでした。

 山本氏は、機関長附として石炭を積む仕事の采配もする
必要がありました。石炭は、長さ25cm、幅15cm、厚さ10cm
のレンガのような形になっており、これを艦長以外の総員で行い
ます。月1回か2回石炭を積んだ石炭船数隻が、八雲に横付け
されると行われます。

 作業方法は、最初に総員を数班に分け、石炭船から八雲の
練炭置き場まで、一列に並びます。あとは、バケツリレーの要領
で、石炭を、手渡しで運んでいきます。山本氏は、列に加わらず、
八雲の、練炭置き場のどこに置くかを各列に指示して回るという
役割でした。

 練炭積みの作業は、総出でやっているので、休憩があるまで、
休むことが許されない仕事でした。列に加わっていない山本氏に
しても、順次コンベアのように送られてくる石炭の進行を各列ごとに
見ながら、どこまで積むかを指示する必要があるため、忙しさは変わり
ませんでした。

 この作業をすると、露出部は真っ黒になります。この点について、
山本氏は、黒い顔をしていたので、石炭積みによる汚れは、目立たな
かったと記しています。

(追記)
 八雲と同時期に就航した艦は、同じように練習艦として
利用されていました。八雲以外では、浅間、常磐(ときわ)、
磐手(いわて)、出雲の各艦がありました。

 この内、浅間は座礁と老朽化により校舎として使用し、
常磐は敷設艦に改造されたので、残りの3隻が練習艦と
なっています。

 上記の石炭積みの作業は、これらの艦は行っていました。
練習艦3隻のうち八雲のみ、終戦まで稼働できる状態で生き
残り、終戦後の兵員輸送に従事しています。

練習艦八雲に乗艦 [駆逐艦秋月]

 山本氏は、帰省して2,3日後、40度近い高熱が
出てきました。母親は、帰宅した時には気にもとめて
いないと思われた戦傷に対し、高熱には必死の看護を
してくれました。

 母親は、戦争で死ぬのは国のためだが、病気で
死なせては申し分けないと考えていたようです。
国鉄の魚沼線の線路が外され、2mの雪の中を
4kmもかけて、往診してもらうことになりました。

 この時の高熱は、マラリアに近いものだったよう
ですが、1週間ほどで平熱に戻り、体調は回復しま
した。そして、思いもかけず、家族で年越しをする
ことができました。


 1945年1月早々に呉に出頭せよの命令が来ました。
配属先は、訓練艦八雲(やくも)でした。負傷兵の仲間
入りをしたので、教育に立つことになりました。配属は、
機関長附兼機械分隊士でした。

 ハ雲は、石炭で動く罐を使用しており、艦を動かす
のに3時間は必要でした。そのため、朝の7時に出港
するときは、3時30分には起きて、準備しなければ
なりませんでした。

 この機関の担当は山本氏しかいなかったので、
毎朝この時間に起こされることになりました。

(追記)
 練習艦八雲は、1900年6月にドイツで作られた
装甲巡洋艦で、艦これには未登録です。ドイツから
購入した大型艦は、八雲だけです(戦利品や、
小型艦では存在します)。

 最初の活躍は、日露戦争で、日本海海戦の時に、
旗艦三笠と一緒にバルチック艦隊相手に砲撃戦を
行っています。

 日露戦争後は、八雲は、当初海防艦に機種変更
となりましたが、士官の養成に対応するため、練習艦
として使用されました。

 開戦後は、瀬戸内海を範囲とした練習艦として
任務をこなしています。
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