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巡洋艦大淀 再び歩いて故郷へ [巡洋艦大淀]

 無言だった角田上水に、「そろそろ 行ってみましょう。」とうながされ、我に 返って歩き出しました。風が出て寒く なった上野の山には、人影もありません でした。  小淵氏は、「早く暖かくなってくれると いいのになあ。」と、つぶやくと、角田上水は、 「もう3月になったのだから、もっと暖かく なっていいはずですがね。」と、低い声で 応じてきました。  ホームに入って暫く待つと、ようやく 汽車が入ってきました。乗り込むと、乗客は あまりいませんでした。  車窓から眺める関東平野は、まだ春の 息吹は感じられませんでした。聞き慣れた 駅をいくつか過ぎ、やがて高崎につきました。  雄大な赤城山も中腹から上は、雲に 隠れていました。白衣観音も敵機の 目標になるとかで、解体の噂があり ましたが、巨大な像は残っていました。  やがて、渋川につき、角田上水と、帰りの 時間を打ち合わせて、下車しました。急いで 駅前のバス停に行ってみましたが、今度も バスはありませんでした。小淵氏は、 ためらいもなく歩いていくことにしました。  駅前の大通りを街の中心に向かっていくと、 榛名おろしが土埃を巻き上げて吹きつけて きました。やがて、町の中心部に入り、四角を 右に曲がって歩いていくと、見覚えのある大きな 木橋が見えました。  前は、運良くトラックに乗せてもらえたので、 今回も通りがからないかと期待しましたが、 自動車はおろか、自転車一台来ませんでした。 小淵氏は、自分を叱るようにして歩き出しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 家なき子らのうつろな目 [巡洋艦大淀]

 少年二人に見つめられた角田上水は、 見かねて食べ始めたばかりの弁当を 一人に渡しました。  すると、その少年は、どうしようかというように、 仲間の顔色をうかがっていました。小淵氏も 見かねて食べかけの弁当を一人に渡すと、 立ち去ってしまいました。  小淵氏は、「あの子供たちはどうしたの だろう?」と角田上水に聞いてみました。 角田上水は、「空襲で焼け出された 子供たちではないでしょうか。」と答えて きました。  小淵氏は、冷水を浴びせかけられたように、 ハッとなりました。そして、小淵氏は、駆けていき 少年たちを呼び止めると、艦で配給された米と 少量の砂糖を渡してやりました。  角田上水も同じように渡し、「ご飯を炊く ことはできるか。」と聞くと、うなずいてきました。 「誰か炊いている人がいるのか。」と聞くと、 泣き出しそうな顔で、「おばあさんがいる。」と、 答えてきました。  少年が指差した方向を見ると、板切れなどで 囲った小屋がいくつか見えました。小淵氏には、 人間の住むところとは思えない粗末なものだと 感じました。  さらに聞いてみましたが、おばあさんと いうのは肉親ではなく、子供たちも兄弟では ないようでした。同じ境遇の者が、ひっそりと 肩を寄せあって暮らしているようでした。  立ち去っていく子供たちの後ろ姿は、 夢遊病者のようでした。そして、少年たちの 顔には、ついぞ、喜びの表情などは見かけ られませんでした。  角田入水も小淵氏も、強烈な衝撃に 打たれて、無言でした。戦闘の悲惨さには 不感症になっている小淵氏らも、内地の 惨状の一端を見せつけられては、言葉も ありませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 配達されない電報 [巡洋艦大淀]

 角田上水の、「東京についた」という声で、 うつらうつらしていた小淵氏は、ハッとして 窓の外を見ました。  東京は、B29の空襲で一面焼け野原になって しまったという噂を聞いていたので気になって いましたが、焼け跡らしきものは、視野に ありませんでした。角田上水も、「噂ほどでは ないようです。」と答えていました。  上野に着いたのは、昼少し前でした。乗り換えの 上越線は、出るまで二時間近くありました。そこで、 亀戸と浅草にいる姉に一緒に帰郷しようと思い、 電報を打ちました。  駅備え付けの電報用紙に記入し、掲示してある 料金の切手を貼り、受付に差し出しました。すぐに 届くだろうと胸をときめかせていると、係員から、 受付けられませんと突き返されました。  小淵氏は、なぜなのか尋ねると、近距離だから 配達しないということでした。小淵氏は、近くだから すぐに届くと思っていたのが、近場だから配達 しないと言われるとは、夢にも思いませんでした。  帰りの汽車を確認していた角田入水が戻って きたので、西郷さんの像の前で弁当を食べることに しました。休暇組の者には、4食分の弁当が配給 されていました。経木に包んだ麦飯弁当でした。  しかし、外食はできないので、これが唯一の 頼みでした。この弁当を広げると、みすぼらしい 姿をした12~13歳くらいの少年が二人近づいて 来て、小淵氏らをじっと見つめていました。  東京は、乞食が多いと聞いていましたが、こんな 子供までがと、小淵氏は不思議い思いました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 東海道線 [巡洋艦大淀]

 休暇が許可され、小淵氏は、3月7日に 出発しました。  朝食を済ませ、前甲板に集合した休暇組は、 持ち物の点検を受けました。みな、シンガポール からの土産物を持っていたので、税関吏の検査が ありました。しかし、高価なものは持っていないので、 何事もなく済みました。  呉駅のホームは、物凄い混雑でしたが、広島で 乗り換えた東海道線は空いており、小淵氏は、 角田上水と一緒の席に座れました。角田上水は 利根郡の岩本なので、渋川まで一緒でした。  各駅停車の東海道線は、いやにゆっくりと 走っていました。それが、何とも無駄な時間を かけているように思えました。空は鉛色になり、 社内も寒が身にしみてきました。  外套はシンガポールで陸揚げしており、 雨具を着ているせいと感じました。日没になると、 窓には暗幕が引かれ、車外をのぞいても灯火 管制で明かりが見えませんでした。  時々、汽笛が悲鳴のように響き、半眠りの 朦朧とした目を開けてみても、まだ故郷は 遠いようでした。やがて夜が明けましたが、 ここでは総員起こしはかかりませんでした。  暗幕を引いて見る空は晴れているものの、 いやに寒い日でした。汽車はどこかわからない ものの、海岸沿いを走っていました。  見るともなく眺めていると、海岸に打ち寄せる 波が砕け散って、ますます寒さを誘うようでした。 仕方なく目を閉じてうつらうつらと、何時間かして いると、角田上水の、「東京についた」という声が しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 特攻隊勇士と子犬 [巡洋艦大淀]

 小淵氏の想像は続きました。  「暗黒の洋上にようやく敵艦の艦影が 現れました。ホッとして子犬を抱き上げ、 それを潜望鏡で見せてやる。子犬は、 敵艦などには見向きもせず、盛んに 顔をなめはじめました。  この子犬を抱きしめて、勇士は一直線に 敵艦の横腹目掛けて全速で突進するしか ない。しかし、回天はの速度はあまりにも遅く、 1秒が1分、いや10分にも20分にも感じる。  その間、無限の忍耐と勇気克己が要求 されます。そんな極限の孤独感を救って くれるのは、たとえ1匹の駄犬であろうとも、 生あるものではないだろうか。」  そのようなことを想像しながら、出撃する 潜水艦を祈るように見送りました。子犬を 抱いて艦内に消えた特攻隊員は、再び 艦外に姿を見せることはなく、ただ、 南無八幡大菩薩と大書きした菊水の 幟だけがなびいていました。  見送るものはまばらで、あまりにも静かな 出撃風景でした。基地では毎度のことであり、 もうことさら見送りなどはしなくなったというので あろうかとしています。  「沖縄では、激しい攻防戦が展開され、 日本本土の各都市はB29や敵の艦載機 などの空襲が相次ぎ、主要都市は焼け 野原になってしまった。」という衝撃的な 情報が囁かれました。  そのような戦況下の時に、誰もがあき らめていた休暇が許可されました。 乗組員にとって褒賞二度目の休暇 でした。3月2日に人員割が発表され、 乗組員の4分の1づつが交代で帰郷と なりました。小淵氏は第二陣となりました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 特殊潜航艇回天 [巡洋艦大淀]

 小淵氏が、艦外作業の時に見たのは、 特殊潜航艇回天を2隻搭載した潜水艦 でした。司令塔には、南無八幡大菩薩の 幟がひるがえっていました。  その潜水艦に、鉢巻を締めた若い人が、 子犬を抱いて乗り込んでいきました。 飛行服のような服装なので階級は わからないものの、21か22歳の 予科練の勇士か、兵学校出の 若い士官のようでした。  大事に抱いている子犬はどこかで 拾ってきたのか、生まれて1ヶ月くらいの、 どこでも見かけるような駄犬でした。この 潜水艦は、沖縄近海に集結している 敵艦隊の襲撃に向かうようでした。  その洋上で、回天は切り離され、 敵艦に体当たりするまで暗黒の中の 孤独を、この子犬がどんなに勇士を 慰めてくれるのだろかと考え、小淵氏は、 その状況を想像しました。  「潜水艦から切り離された回天は、 暗黒の海中を突進していく、スクリューの 響きが重苦しく伝わり、鼓膜も敗れるほど 艇内の気圧が高い。ずいぶん長いこと 突進したものの、敵艦は、見えない。  変だと思っても、回天は一旦発進したら、 戻る可能性はありませんでした。この時、 艇内の子犬が、親を恋しがってクンクン 鳴き出す。その鳴き声で張り詰めていた 気分がほぐれ、若い勇士は足でミルクの 皿を子犬の鼻面に押しやる。  子犬は、それをピチャピチャとなめ 始める。潜水艦から発進するときは、 間違いなく敵艦の方位に発進したの だからと、なおも突進していきました。」 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 鰹節 [巡洋艦大淀]

 忙しい日課明け暮れでしたが、小淵氏は 一つ楽しみがありました。  シンガポールで購入したバナナを、発令所の 入り口にダクト上に隠しておいていました。そこ にはスチームのパイプが通っているので、うまい 乾燥バナナができると考えていました。  その目論見通り、乾燥バナナとなっており、 航海中少しずつ食べていました。そこには、 鰹節も隠していました。  それは、筥崎丸でトラック島に向かうときに、 「艦が沈没しても鰹節一本あれば、3日は 生きられる。これをかじりながら3日間浮いて、 救助された者がいた。  艦に乗ったら、鰹節かスルメを、肌身はなさず 持っていることだ。」という助言をもらったから でした。残っている鰹節も、今では小さい物となり、 とても二日と生きられそうにありませんでした。  早速、上陸の時にでも買って補充しなければと 思いましたが、この頃は、食糧事情が悪く、 なかなか手に入らなくなってしまいました。  呉軍港は、入港以来、平穏な日々が続いて いました。時々、駆逐艦などの出入りがありま したが、巡洋艦以上は動く気配がありません でした。  小淵氏は、横須賀に帰ったため、姿が 見えない長門がいないことに気になり ました。  この頃、横須賀にいた空母信濃が 撃沈したという話を聞きました。武蔵が 沈んだというのも、小淵氏にはデマとしか 思えませんでした。  2月26日、小淵氏は艦外作業員として、 軍需部の倉庫に医薬品などを取りに 行った時、出撃いていく特殊な船を 見ました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 北号輸送作戦完了 [巡洋艦大淀]

 積み荷の積み下ろしがほとんど終わった日の 午後、作業を打ち切って、総員の洗濯が ありました。  内地の水は、指先がしびれるほど冷たい ものでしたが、長い航海で汚れ物が 溜まっていたので、みんな待ち かねていた洗濯でした。  洗濯が終わると、そのすすぎ水で、今度は 艦内の大掃除が行われました。一航海すると、 洗濯があり、大掃除が行われるのは、どの 艦も同じでした。  夕食後、入湯上陸が許可されたので、 小淵氏は、3人の仲間と一緒に市内の 旅館に行きました。そこで久しぶりに 入浴して、畳の上の布団に潜り込みました。  一緒の仲間は、「やはり布団は寝心地が 良いなあ。」と言いながら眠りにつきましたが、 小淵氏は、汽車の汽笛がいやに耳につき、 背筋がゾクゾクと寒くなっていたので、 なかなか寝られませんでした。  翌朝起きると、外は銀世界でした。かなりの 積雪で、呉市では、近来にない大雪という ことでした。艦に戻ると、雪はきれいに片付け られていました。その日も、残った物資の 積み下ろしが行われました。  一日中かかってやっと全部の積荷を 降ろし、これで、任務が完了ということに なりました。重要物資の陸揚げを完了した 大淀は、港内のブイに繋留して艦内の 整備作業を行いました。  甲板上のリノリュームの補修や、長い 航海で錆の出た外舷の塗装など、作戦 行動中に手入れのできなかった箇所が、 次々と補修されました。  この後、大淀は碇泊中の日課に戻り、 いつものように甲板掃除が行われました。 若い兵士は、元気に甲板を這い回って いました。古参兵の号令に合わせ、 掛け声も高らかに威勢よく行って いました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 呉軍港に無事帰還 [巡洋艦大淀]

 2月20日早朝、艦隊は、無事に呉軍港に 入港しました。それも、全艦無事に帰投 しました。  入港用意の号令を聞くまでもなく、 非番の者は、上甲板に出て、久しぶりに 接する内地の光景をあかずに眺めて いました。  軍港内には、去年の11月にブルネイで 別れた大和の勇姿がありました。戦艦榛名も 無事に帰還していました。他に、重巡洋艦 利根と青葉、軽巡洋艦矢矧などが 停泊していました。  港内に堂々と入港した北号輸送作戦の 艦隊は、所定の位置に投錨すると、すぐ 内火艇やランチが降ろされ、便乗してきた 人達が上陸していきました。  間もなく、伊勢、日向、大淀に物資の 受け取りの舟艇が集まってきたので、 小淵氏らは、陸地をゆっくり眺めている ことはできなくなりました。  寒風の中で、作業が始められ、甲板上に 山と積まれたドラム缶が次々に降ろされて いきました。  せわしなく動き回る乗組員の顔は、 底抜けに明るいものでした。その陽焼け した顔をなでる寒風も気にならないのは、 内地に帰りつけたことによる喜びのせい だと感じました。  日没には物資の陸揚げ作業も打ち切られ、 帰還祝いが許可されました。その騒ぎたるや、 1万余tの艦も揺さぶられるほどでした。  翌日も、重要物資の陸揚げが続けられました。 積み込むときは、一個ずつ担いで運んだ水銀や スズも、甲板上に広げられたモッコの中に運び 込むと、デリックに吊り上げられ、いっぺんに ダルマ舟に移されていきました。  こうして甲板上の積み荷はほとんど片付きました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 上海で仮泊 [巡洋艦大淀]

 筥崎丸に出会ったのは、上海の東方海域でした。  何の防御も持たない老朽船の筥崎丸が、今まで 無事でいたことは奇跡というべきでした。小淵氏は、 やはり運の強い船というのはあるものだと感じて いました。(筥崎丸は、3月19日に、雷撃を受け、 沈没しています)。  この頃、嵐を避けていた敵機動部隊が、にわかに 活動を開始しはじめました。この通報を受けた艦隊は、 内地までの直線距離は最短の位置まで来ていましたが、 敵機の襲撃を避ける必要がありました。  そこで、日本本土から上海に向かう艦隊のように 見せかけるため、艦隊は反転し、一旦通り過ぎた 上海に向かいました。  午後9時頃、上海の下流に仮泊しました。陸地 からは、20kmも離れており、艦上から遠くにかすかに 中国大陸が眺望でき、街の灯火がほのかに見受けられ ました。  翌日10時頃出港した艦隊は、黄色く濁った海を 北上しました。この時、B29が1機、艦隊上空を通過し、 大陸の方に飛び去りました。それは、日本本土を 空襲し、対空砲火で損傷したので、緊急着陸するの だろうと、観測しました。  翌日も黄海を航行していました。黄色い海面が、 果てしなく続いていました。日没に近い頃、第三 配備法(戦闘配置の当直を解除する司令)が、 伝達されました。  艦隊は、黄海を横切り、朝鮮半島の南西部に 沿って、航行していました。空は、久々に晴れ、 すがすがしい青空が広がっていました。  左手には、陸地を近々と眺めながら、点在する 大小の島々を縫うようにして航行していきました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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