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巡洋艦大淀 筥崎丸と再会 [巡洋艦大淀]

 日没後、艦内スピーカーから、「福州に 仮泊して、駆逐艦に重油の補給をする。」 という通達がありました。  いつの間にか、台湾海峡を通過して、 中支南岸を進んでいたようでした。福州の 港外に停泊した艦隊は、駆逐艦に重油を 補給して、翌朝出港しました。  この頃には、大淀に止まっていた、 「金のトビ」は、どこかへ飛んでいった らしく、姿がありませんでした。  午後、小淵氏は見張りに上がると、厚い 雲に覆われていた空も、大分明るくなって いました。しかい、青空は覗いていません でした。  海の空も灰色の重苦しい眺めで、何となく 寒々しく、濁った洋上の波を、風がさっと 運んでしぶきつけていました。  当直に立ってから1時間ほどした頃、 艦首を見張っていた見張員が、「輸送船 らしいマストが向かってきます。」と 報告しました。  見れば、水平線の彼方から、次第に 船体が現れ、向かってくるのは、3隻の 大型輸送船と護衛の海防艦4隻でした。  小淵氏は、中央の大型輸送船には 見覚えがある感じがしたので、煙突を 凝視しました。そして、筥崎丸である ことを確認しました。  小淵氏は、まだ健在で活躍している ことに、背筋に電流でも通されたような 衝撃を受け、瞼が熱くなりました。  「この船くらい運の強い船はありませんよ。」 と、自慢していた船員の顔が目に浮かび ました。あれから、何度も雷撃を受けたの だろうと思いました。  しかし、今こうしてみると、筥崎丸は、 切り抜けてきたことは間違いありません でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 嵐と一緒に北上 [巡洋艦大淀]

 2月24日の爆撃の最中、戦艦伊勢は 敵潜水艦からの雷撃を受けました。伊勢は、 これを機銃で射撃して爆破させました。  昼頃、駆逐艦神風と野風が、香港から 艦隊の護衛として加わりました。敵潜水艦 からの雷撃が頻繁なので、駆逐艦の数が 多いほど心強くなりました。  洋上は、本格的な嵐になり、その中を 艦隊は激浪にもまれながら、航行して いました。これまでに何度も荒れた 海は体験しましたが、これほど物凄い 暴風雨は始めてでした。  2月25日も嵐が続きました。というより、 艦隊は、嵐の中にすっぽりと包まれて 北上しているようでした。物凄い激浪が 艦を叩き続けていました。同時に、 急激に気温が低下し、寒さが身に しみてきました。  小淵氏は、見張り当直になり、下着から 冬物に着替え、その上に雨具をつけて 見張台に立ちましたが、寒くて震え上がる ほどでした。  嵐は、午後から次第におさまり、日没 近くには、静かになりました。艦隊は、 海水が黄色くなった中を進んでいました。  その艦隊の先頭として進んでいる大淀の 後部マストに、一羽の鳥がとまり、身動ぎも せず、翼を休めていました。まだ、かなりの 強風でしたが、どこから飛んできたのかと 不思議になりました。  いつ止まったのかも気づきませんでしたが、 一向に飛び立とうとしませんでした。普段は 縁起を担ぐことのない乗員も、この鳥を、 「金のトビ」として、鳥を驚かさないように、 そっとしておきました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 運の強い星の持ち主 [巡洋艦大淀]

 2月23日早朝から、敵機の爆音が上空に 轟き渡りました。大型機の来襲でした。  しかし、雨雲が低く垂れ込め、機影は 現れませんでした。爆音は遠ざかったり、 近づいたりしていました。敵機が、艦隊を つけ狙い始めたようでした。  やがて、不気味な爆音が高まって きました。「配置につけ」の号令がなされ、 砲撃準備を整えました。  しかし、雲の上の見えない敵機を砲撃 する事はできませんでした。時々、雲間から 爆弾が降り注いできました。  敵機は、上空からレーダー爆撃をして いるようでした。しかし、強風が爆弾を 吹き流しているようで、艦隊からは 大部それて水柱を林立させるだけ でした。  しかし、いつそれが艦隊の真上から 降り注ぎ、直撃するかしれませんでした。 敵機は、一日中艦隊をつけ狙って いましたが、日没とともに引き揚げ、 上空は静かになりました。  薄暗い空から大粒の雨が横なぐりに 降りつけ、嵐がやってきました。その波を 飛び跳ねながら、突進して来た魔物が、 大淀の左舷1kmの所で自爆しました。  海が荒れていると、波頭が白く砕ける ので、雷跡の発見は困難ですが、その 波が魚雷を自爆させ、大淀は、危なく 難を逃れました。大淀は、運の強い星の 持ち主でした。  2月24日も朝から爆音が聞こえ、時々 爆弾が降ってきましたが、風はますます 強まり、洋上は激しく荒れ狂いました。  そのためか、執拗につけ狙ってきた 敵機も、あきらめたのか、爆音も聞こえなく なりました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 地獄街道を北上 [巡洋艦大淀]

 洋上は、闇に包まれ、低く垂れ込めた 雨雲は、風を呼び波も高まってきました。  この夜、北号輸送作戦と名付けられた 艦隊は、敵潜水艦からの雷撃を2度 受けましたが、全艦無事でした。  この北号輸送作戦は、軍令部の予想は、 半分帰還できれば上出来で、悪くすれば 全滅すると予測していました。  この頃、敵の機動部隊や多くの水上 艦隊が沖縄攻略のために、その周辺に 集結中であったからでした。  すでにフィリピン島にも、B29の基地が 出来上がり、制空圏はずっと拡大されて おり、艦隊が内地を目指したとしても、 敵の制空圏内を数日航行しなければ なりませんでした。  また、この艦隊が、台湾海峡を通過 しようとすれば、沖縄に集結中の敵艦隊が 進路上に進出して、待ち伏せするのも 容易でした。  敵機動部隊が沖縄近海にいるとすれば、 台湾海峡を無事に通過したとしても、 内地まで追撃されることになりました。  北号輸送作戦の艦隊は、地獄街道を 北上するに似た、危険極まりないもの でした。  袋のネズミ同様の、南西方面艦隊を 放置しておくよりも、内地で逼迫している 航空燃料や、重要物資を満載して内地 帰投を命じて、1隻でも帰り着けば というのが、この作戦の発令でした。  北号輸送作戦の艦隊は、甲板上にガソリンを 満載していました。敵機の銃弾1発が命中 しても、爆発炎上し、艦を焼き尽くすのに 充分な量でした。  誰が考えても、「全艦無事内地に帰投する ことなど、到底できまい。」と、思っていたのは 当然でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 輸送作戦始まり [巡洋艦大淀]

 2月10日午後5時、出港ラッパを 鳴り響かせながら、各艦は行動を 起こしました。  港内にさざ波の波紋が広がって いきました。背後には、ジョホール市が かすんで遠ざかりました。  狭い海峡を出はずれ、洋上を 進んでいく艦隊を夕闇が包みはじめ ました。  上空はいつしか雲が湧き、星影も まばらでした。海原は、雲に覆われ どんよりとしていました。マレー半島を 北上し、仏印の南岸を進んでいく艦隊は、 まだ敵に発見されていませんでした。  2月12日、日没にはかなり間がある 洋上でしたが、曇天のために薄暗くなり、 風も強まって波が立ち、騒ぎ出して いました。  その時、突然、「配置につけ」のラッパが、 けたたましく鳴り響きました。伊勢が艦隊の 右前方に水上艦隊らしきマストを発見 したようでした。  そのマストはすぐに見えなくなりましたが、 「敵との交戦は、極力避け、物資の輸送を 目的とせよ。」という命令なので、艦隊は 進路を変更して航行しました。  その少し前、南膨島の水中聴音所より、 「今朝方、敵の大艦隊が、台湾の西方 海域に向かった。」という無電もあり、 艦隊の首脳部は、極度に緊迫している 様子でした。  そこで、大淀は、航路上の偵察に、水偵を 発進させ、先刻の水上艦艇らしきマストを 確認させました。しかし、その近辺には何も 見当たらず、マストは、浮上中の敵潜水艦 ではないかということになりました。  大淀の水偵は、艦隊の進路上を偵察 しながら、台湾の水上機地に飛んで いきました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 女は乗せない巡洋艦 [巡洋艦大淀]

 積み込まれた水銀やスズ等の小物は、 艦内の居住区に積み込み、大型の物資は、 甲板上に山と積まれました。  航空用のガソリンのまわりには、生ゴムの 固まりが積み上げられ、銃撃の防護用と されました。  上甲板に満載された物資はシートで 覆い、ロープで厳重に結束されました。 その作業をしていたところへ、今まで 見張りに立っていた兵長が交替で 戻ってきました。  「伊勢と日向には、女の人なども乗り 込んでいたぞ。」と言っていました。内地に 引き上げる軍属の家族のようですが、 大淀には女性は乗ってきませんでした。  そこで、兵曹が、「女は乗せない巡洋艦」と 歌い出したので、皆笑いながら、再び作業に 取り掛かりました。  午前中で搭載作業が終わると、引き続いて、 臨戦準備が命じられました。その後、総員集合が かけられ、艦長の訓示がありました。  「このたびの作戦は、重要物資の内地輸送が 最大目的で、戦闘は極力避ける。しかし、 航行は決して容易ではない。敵潜水艦が 待ち受けているだろうし、敵機は、艦隊が 出港すれば、すぐにも来襲することだろう。  それに、敵の水上艦隊や機動艦隊も立ち はだかる公算が大である。あくまで物資輸送が 目的であるが、前途に立ちはだかる敵は、 撃破して進まなければならない。  内地にも敵機が来襲しているということから、 この物資が完全に陸揚げされるまで、任務を 果たしたことにはならない。  この作戦の目的は戦闘ではないが、戦闘 以上に重要な任務であると、肝に銘じて行動 してもらいたい。」というものでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 重要物資輸送命令 [巡洋艦大淀]

 泊地に戻った大淀は、毎日激しい訓練が 続けられました。  すでに、フィリピン島の至るところに敵が 上陸しており、各地の守備隊が苦戦して いました。  間もなく突入作戦が行われるだろうという噂が 艦内で広がりました。乗員は、訓練は飽き飽き しており、「早く戦闘に出て、ひとあばれしたい ものだ。」と、語っていました。  2月5日の夜、「明朝9時に出港し、セレターに 向かう。」という通達がありました。ついに作戦 命令が出ました。  参加するのは、伊勢、日向、大淀、朝霜、霞、杉、 樫、榧で、足柄は、数日前に別の作戦命令を 受けて、どこかへ出撃していました。  2月6日、セレターに入港した艦隊は、翌日から 物資を積み込み始めました。この時、作戦命令は、 「内地で不足している重要物資を満載して内地に 帰投せよ。」ということであると、分かりました。  乗員は、内地に帰れると大喜びしていましたが、 小淵氏は、この艦隊が引き揚げてしまったら、 後はどうなるのだろうかと考え、寂しいような 気持ちになりました。  翌日も、ガソリンやドイツの潜水艦が運んできた 水銀などの積み込みを行いました。水銀は、鉄製の 容器に入っていて、60kgくらいの重量があり、 大変な貴重品だということでした。  2月9日には、駆逐艦がペナン島から運んで きたスズの積み込みをしました。他に、艦内の 備品などが陸揚げされ、第二軍装(夏服)や 外套なども集められ、陸揚げされました。  少しでも多くの重要物資を、内地に運ぶため でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 アブドラ少年 [巡洋艦大淀]

 木陰で休んでいた小淵氏の耳に、ついてきた 少年の、透き通るような声の歌が聞こえてきました。  小淵氏らが知っているような歌はみんな 知っていました。小淵氏は、改めて少年の 名前をたずねると、アブドラと名乗りました。  眼のパッチリしたまつげの長いアブドラ少年は 13歳だと答えてくれました。ジャワ島の生まれで、 父親がセレター軍港で働いているので、ここに 来たということでした。  イギリス軍につれてこられたとか、母親は戦争で 行方不明だとか、色々語ってくれました。やがて 帰還の時刻となり、再開を約束して別れました。  ジョホールからセレターまでは、かなりの道のりが あり、砂利道を急ぐ足は重く感じました。空襲で 駆け抜けなくてよいのが、幸いでした。  2日後、半舷上陸が許されたので、小淵氏は、 アブドラ少年と約束したところに行ってみましたが、 いませんでした。父親の手伝いをしているという ことなので、セレター軍港に行っているかも しれないと考えました。  大淀の機関の修理は大分かかるようで、さらに 2日後、3回目の半舷上陸が許されました。角田 上水と一緒に再開を約束した場所に行って みましたが、いませんでした。  小淵氏らは、その場で話し込んでいた時、背後に アブドラ少年が、微笑みながら立っていました。 小淵氏らは、アブドラ少年を中心にして、合唱 しました。彼はいい声の持ち主だったとしています。  機関の修理が終わり、大淀がセレター軍港を 出発したのは、1月31日でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 ジョホール市までの半舷上陸 [巡洋艦大淀]

 1月9日、大淀は、リンガ泊地に向かい ました。そこには、再度の突入作戦の 猛訓練が待ち構えているということ でした。  夕刻になり、リンガ泊地に着いた大淀では、 早速猛訓練がはじめられました。この泊地に いるのは、伊勢、日向、足柄、大淀、朝霜、 霞、杉、樫、榧の9隻でどの艦も、激しい 闘志を燃やして猛訓練に励んでいました。  夜になると、駆逐艦隊は、伊勢、日向、 足柄、大淀を、敵艦隊と想定し、て襲撃 してきました。この駆逐艦隊を、敵高速 魚雷艇軍とみなして、4隻は、突入戦の 技を練りました。  この合同猛訓練が続いていた22日夜に、 大淀は、機関部に故障が起きて、セレター 軍港の回航となりました。  セレター軍港は、B29が頻繁に来襲 するとかで、高雄はマレー半島寄りの 岸辺に隠れるように碇泊していました。  高雄は、甲板上に椰子の葉をかぶせ、 艦隊もまだらに塗り分けてカモフラージュ していました。名物の浮きドックも撃沈 されたらしく、その姿は見えませんでした。  大淀は、岸壁に係留され、早速機関部の 修理に取りかかりました。この修理中 ジョホール市までの半舷上陸が許可 され、角田上水と一緒に市内見物して 歩きました。  街角で、一人の少年が人なつこく微笑み かけてきました。小淵氏が誘うと、ついて きました。インドネシアの少年で、日本語も 達者でした。  小淵氏らは、大きな熱帯樹の木陰に行って、 腰を下ろしました。ここは、高台となっており、 赤道直下の暑さも忘れさせるような涼しい風が 吹いていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 シンガポールのもう一つの顔 [巡洋艦大淀]

 上陸をした翌日、昨日艦に残っていた 人達が上陸していったので、当直舷の 小淵氏らは、艦内整備作業と、各種の 当直に当たりました。  午後、処理された不発弾が艦内の大淀神社に 飾られました。高さが1.2m、直径30cm ほどの巨大なもので、黒光りする不気味な 鉄の塊でした。この爆弾であけられた穴は、 溶接で完全にふさがれました。  1月6日、再びシンガポール市への半舷上陸が 許可され、小淵氏は再びシンガポールに行きました。 小淵氏は、この街では、自分が買うばかりでなく、 持っている物を売ることもありました。  物を欲しがるのは、現地の12,3歳の子供たちで、 タバコはかなりいい値で売れました。大通りに面した 建物は、立派な鉄筋コンクリート造りでしたが、一歩 裏通り足を踏み入れると、みすぼらしい木造家屋が 立て込んでいました。  その裏通りにも華僑の少年たちがいて、見境なく 小淵氏らを引き止めました。  市内から海岸通りに出ると、岸壁にドイツの 潜水艦が係留されていました。司令塔に 像の絵が描かれていました。それを眺めて いると、大男のインド人が来て、握手を 求めました。  胸のバッチには、「印度独立の志士」と描かれて いました。道路端には、サソリを体に這わせて 客寄せしている者や、手品などをしている者等が いましたが、全てインド人でした。  やがて、帰還時刻になり、駅に向かうと、少年が、 「兵隊さん。バナナ安いよ。」といってバナナを 売っていました。  他の子達は、マスターと呼んでいるのに、この 子だけは兵隊さんと呼んだことが珍しく、 小淵氏は、この子からバナナを一房 買いました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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