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源田実参謀 第二次攻撃完了 [源田実航空作戦参謀]

 攻撃を終えた第一次攻撃隊は、午前6時
ごろまでに、「やったぞ」という
雄姿で、母艦に帰ってきました。

 姿を見せなかった未帰還機は、加賀の
雷撃機5機と零戦2機、翔鶴の爆撃機1機、
赤城の零戦1機の9機でした。

 第二次攻撃隊は、午前4時35分に、
攻撃を開始しました。赤城の進藤大尉が
指揮する制空隊は、第一次攻撃隊の制空権を
引き継ぎ、アメリカ戦闘機数機を撃墜し、
ついで、飛行場の地上機と、飛行場施設
にも攻撃を加えました。

 嶋崎総指揮官が指揮する水平爆撃隊は、
飛行場に爆撃し、地上の飛行場と飛行場
施設を粉砕しました。

 蒼龍の江草少佐が指揮する急降下爆撃隊は、
アメリカの対空砲弾を逆にたどって、真珠湾の
艦船群に、急降下爆撃しました。

 第二次攻撃隊は、午前9時22分ごろまでに、
ほとんどが大小の損傷を受けて、母艦に帰って
きました。合計20機が未帰還となりました。
アメリカ軍が戦闘配置につくと、日本軍の
損害も大きくなったことを示しています。

 第一次、第二次攻撃隊の未帰還機の
合計は29機で、搭乗員の数は、55人
でした。

(追記)
 真珠湾攻撃による戦死者は上記以外にも、
過去に何度か紹介している特殊潜航艇による
攻撃によるものも存在します。

 5隻の潜水艦に運ばれた特殊潜航艇は、
各艇に2名づつ乗り込み、航空機の攻撃に
呼応して真珠湾内に潜入を試みました。しかし、
特殊潜航艇の攻撃は、全て失敗に終わり、
捕虜になった1名を除き、全員戦死しています。

 これが、「特別攻撃隊の9軍神」とされ、
この後の日本に大きな影響を与える事に
なります。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 零戦の活躍 [源田実航空作戦参謀]

 村田少佐は、雷撃隊の先頭で、戦艦
ウエストバージニアに突入し、838kgの
91式魚雷改二を発射し、上空スレスレに
飛び越えた瞬間、振り返りました。

 轟然と爆発がおき、巨大な水柱が空中に
盛り上がりました。村田少佐は、後部の
偵察員と電信員に、「当たったぞ。」と
怒鳴りました。乗員は、「隊長、
命中です。」と返事してきました。

 途端に、敵の弾が飛んできました。村田
少佐は、「こんなことはしていられない。」と、
スロットルを全開にして、離脱にかかりました。

 総指揮官の淵田中佐が指揮する80kg
爆弾を抱えた水平爆撃機49機は、高度
3000mで、戦艦群に対する中隊ごとの
編隊爆撃を行い、49弾中13弾を命中させ、
戦艦4隻とその他1隻を撃沈破しました。

 赤城の板谷少佐が指揮する制空隊は、
邀撃してきたアメリカ戦闘機4機をたちまち
撃破し、午前3時30分には、空中に
アメリカ軍機は一機もいなくなりました。

 その後、6つに分かれ、飛行場の地上機を
破壊しました。

(追記)
 板谷少佐は、真珠湾に向けて東進している時に、
源田参謀に、アメリカ軍戦闘機に対する、
零戦の成算を問いただされています。

 その時、板谷少佐は、「大陸の戦闘経験と、
アメリカ軍の戦闘機性能から推測すると、
わが軍1機で、3機は相手にできると
思います。」と返答しています。

 零戦に積まれた20mm機銃の威力や
運動性能は、真珠湾における零戦の
優位性を証明しており、板谷少佐の
ホラではないことを裏付けて
います。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 雷撃成功 [源田実航空作戦参謀]

 予定より8分早く、「トラトラトラ」が
入ってきました。

 翔鶴の高橋少佐指揮する250kg爆弾
搭載の急降下爆撃隊51機は、航空兵力を
制圧するために、複数ある飛行場を次々に
爆撃して、飛行機と飛行場施設に壊滅的な
打撃を与えました。

 赤城の村田少佐が指揮する雷撃機40機は、
戦艦群に攻撃を集中し、36本もの魚雷を
見事に命中させ、戦艦5隻、巡洋艦1隻を
撃沈破しました。沈没した魚雷は1本だけ
でした。

 じりじり待つ赤城艦橋の機動部隊司令部に、
「我敵主力を雷撃す。効果甚大。」という、
村田少佐が発信した電報が、いの一番に
電信室からスピーカーで伝えられた。

 南雲長官をはじめ、各幕僚、赤城の長谷川
艦長、以下の幹部が、全員ニコッと
笑いました。

 真珠湾の攻撃の主力として期待され、
7ヶ月以上、苦心惨憺の研究訓練を
続けてきた雷撃が、見事期待通り
成功しました。

 源田参謀は、雷撃機の村田少佐を偲び、
「やはり真珠湾攻撃は、やってよかった。」と
喜びを噛み締めました。

(追記)
 源田参謀の言葉から、真珠湾成功は、
「真珠湾に攻撃できれば成功。」としている
ことが窺われます。

 しかしながら、戦争である以上、戦闘を
するのであれば、戦争目的を明確にした上で、
戦果を判断しなければならないといえます。

 例として、武田信玄と上杉謙信の川中島の
合戦をとると、引き分けとされていますが、
侵略している武田と、それ防ぐ上杉という
目的があり、目的を達したのは武田側
ですので、武田信玄の勝利となります。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 トラトラトラ [源田実航空作戦参謀]

 赤城から発艦した零戦9機、水平爆撃機
15機、雷撃機12機の合計36機が
飛び立ちました。各空母からも飛び立ち、
第一次攻撃隊は183機となりました。

 上空で手際よく編隊を組み、指揮官機の
淵田中佐に率いられ、機動部隊上空で
旋回すると、赤城上空で両翼を上下させる
バンクを行い、190海里先の真珠湾を
目指して飛んでいきました。

 見送る機動部隊の乗員は、赤穂浪士の
討ち入りを思い、胸迫りながら、帽子を
振りました。機動部隊司令部は、各空母から
上空警戒の零戦を飛ばすと、源田参謀の
進言を入れ、さらに296kmまで
近づきました。

 午前2時45分、第二次攻撃隊が発艦を
始めました。第二次攻撃隊は167機で、
島崎少佐に率いられ、真珠湾を目指し
ました。第二次攻撃隊に参加した赤城の
艦載機は、零戦9機、急降下爆撃機
18機の、合計27機でした。

 ホノルルのラジオ放送は、音楽放送を
流し続け、アメリカ軍の通信も何の変化も
ないことから、成功率1割以下とされていた
奇襲攻撃が、確実になると判断されるように
なりました。

 午前3時、マウイ島のラハイナ泊地を
偵察していた利根の偵察機から、艦隊
不在という電報が届きました。

 3時8分に、真珠湾を偵察していた筑摩から
飛び立った偵察機は、敵艦隊ありの報告が
来ました。

 直後の3時15分淵田中佐から、「突撃準備隊
形制(つく)れ」の報が届きました。続いて、
「トトトトト(全軍突撃せよ)」が入って
きました。

 午前3時22分には、「トラトラトラ
(我奇襲成功せり)」が入ってきました。


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著者:生出 寿
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源田実参謀 ハワイ攻撃開始 [源田実航空作戦参謀]

 大抵の者が不安に駆られた状態のまま、
真珠湾に近づくと、源田参謀は、
突然、南雲長官に、
「350kmまで近づきます。」
と断定的に告げました。

 南雲長官は即座に賛成し、草鹿参謀長と
吉岡参謀も、源田参謀の気合に打たれた
ように賛成しました。飛行機隊にとっては、
距離が短いほうが攻撃しやすいからこその
進言でした。

 搭乗員室に下りた源田参謀は、淵田中佐に
「頼むぜ。」と声をかけました。淵田中佐は、
「ちょっと行ってくるよ。」と軽々と
応じました。

 12月8日午前1時(現地では12月7日
午前5時30分)、利根と筑摩の零式水上
偵察機各一機がカタパルトから射出され、
事前偵察に向かいました。ハワイ攻撃
開始でした。

 午前1時20分、東の空が白むころ、
飛行隊を発艦させるために、機動部隊は
一斉に風上に向かいました。旗艦赤城の
マストに信号旗があがり、次の瞬間さっと
下ろされました。

 6隻の空母の各艦長に、発艦が下命され、
飛行長は満を持して各機に発艦を命じました。
この時、南南東の13mの風が吹いており、
雲も多い上に、うねりも大きく、各空母の
揺れが大きくなりました。発艦は難しいと
思われました。

 しかし、このような中でも軽快に舞い上がる
零戦を先頭に、1機、1機轟音を残して
飛び立ちました。見送る艦の乗員は、
全員力いっぱい帽子を振りました。

 魚雷を積んだ艦上攻撃機は、大きなうねりで
揺れる母艦から、渾身の力を振り絞るような
ものすごい轟音を残して飛び立ちました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 ハワイ攻撃前夜 [源田実航空作戦参謀]

 12月7日、源田参謀は朝夕赤城神社に
詣で、「私を殺して、この作戦を成功させて
ください。お願いします。」と必死で
祈りました。

 軍令部からの情報と、潜水艦隊、敵情偵察
報告、敵信傍受、ホノルルのラジオ放送など
から、敵情を次のように判断していました。

 「真珠湾に在泊している艦は、戦艦9隻、
軽巡洋艦3隻、駆逐艦19隻、水上機母艦
3隻。空母と重巡洋艦は出撃中。ラハイナ
泊地は艦隊不在。」

 機動部隊は、真珠湾のアメリカ艦隊を
攻撃することを決定し、断雲の去来する
月明下を、ひた走りに南下しました。

 午後6時~8時まで寝ていた源田参謀が
外に出ると、飛行甲板には、すでに攻撃隊が
整然と並べられていました。

 暗闇の中で、エンジンの試運転を行って
いる第一攻撃隊の轟音が響き、排気管から
青白い炎が噴き出ていました。

 源田参謀は、階段を登り艦橋に立つと、
不思議にも心中の不安や妄念がきれいに
消え、清清しい気持ちになっていました。
作戦成功の欲も、失敗の危惧もありません
でした。

 のちに、源田参謀は、「明鏡止水、無我の
境地に入っていた。あの時の心境をその後、
再現しようと努力したが、恥ずかしながら
二度とできなかった。」と述懐しています。

(追記)
 真珠湾攻撃の成功とは、どのような状態
なのだろうかと考えることがあります。
戦術的な戦果のみ検討すると、ハワイ攻撃後、
アメリカ軍の行動に制限がかかったか
という点が重要になります。

 そう考えると、ミッドウェー海戦までの
半年間くらいしか効果がなかったことに
なります。これは、空母と艦隊の修理工廠や、
燃料を残したことで生じています。

 その意味では、戦略的にも戦術的にも
検討が不足している作戦といえます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 ニイタカヤマノボレ1208 [源田実航空作戦参謀]

 12月2日午前8時、連合艦隊全艦宛に、
「ニイタカヤマノボレ1208」という
伝令が届きました。草鹿参謀長は、
「青天に白日を望むようだ」と、
気持ちがふっきれたように、
晴々としました。

 12月3日午前4時、南西より35m
という暴風雨の中、機動部隊は予定通り、
針路90度(東)から、145度(南南東)
に大変針しました。

 向かう先は、真珠湾の北北東600海里の
海域でした。源田参謀は、長官室のそばに
ある赤城神社に詣でました。

 12月5日、濃霧で視界不良でしたが、海上は
平穏となり、八戦隊と一水戦が、燃料を補給
しました。源田参謀は、この日も赤城神社に
詣で、「私の命はどうなってもかまいません。
どう過去の作戦を成功させてください。」と
祈りました。

 12月7日、日曜日、海上は平穏でした。機動
部隊は粛々と決戦場に接近していました。
吉岡参謀は、「内心はおっかなびっくりで、
へっぴり腰でした。」と回想しています。

 一水戦に対する最後の燃料補給が行われ、
補給隊の特務艦と、駆逐艦霞は、機動部隊に
別れを告げ、「成功を祈る。」の旗旒(きりゅう)を
掲げながら、静かに去っていきました。

 敵の飛行機の哨戒圏に達した午前7時、
旗艦赤城は、「皇国の荒廃この一戦にあり。
各員一層奮励努力せよ。」という信文のDG旗を
マストに掲げました。

 機動部隊全員は、気合をこめて戦闘配置に
つき、12月8日の午前1時に目標海域に
到達すべく、22ノットで、戦場に南下して
いきました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 不安 [源田実航空作戦参謀]

 南雲機動部隊が出撃した11月26日に、
日米交渉のアメリカ側からの最終回答が
ハル国務長官から大使に手渡されました。

 日本の要求は、一切委細認めないという
挑発的なものでした。アメリカも匙を
投げて対日戦を決定しました。

 11月29日、翔鶴と瑞鶴、警戒隊の
第一水雷戦隊が燃料補給を受けました。
12月1日に、航程の約半分に達し、
東経から西経に入りました。

 この頃に、二航戦と八戦隊、一水戦が
燃料を補給しました。

 赤城の艦橋で、南雲長官が草鹿参謀長に
弱音を洩らしました。「参謀長、エライことを
引き受けてしまった。もう少し機を強くして、
きっぱり断ればよかったと思うが、うまく
いくかしら。」というものでした。

 この時は、普段は強気一点張りの源田参謀も、
「アメリカに待ち構えられて、虎の子の
母艦6隻を失うようなことになれば、
戦争は終わりだ。」と不安に駆られて
いました。

 一方で、「道は前進あるのみ。断じて行えば、
鬼神もこれを避くはずだ。」と迷っていました。

 曇り時々雨の12月2日、かなりの風波はあるが、
予定通り、一航戦らが燃料補給を行いました。
これで、今後燃料補給しなくても作戦は
できる事になりました。

(追記)
 ハル長官から手渡された文書はハルノートと
呼ばれ、日本が開戦する理由とされています。
ハルノートはソ連のスパイが、日米を戦争に
導くためにわざとこのような文章にしたという
話もあります。

 しかし、日本にとっては、受け入れても
実害がない内容でした。拒絶するにしても
ハルノートを全世界に公開して、アメリカを
無視すればいいだけの話で、真珠湾攻撃は
つくづく無駄な攻撃になったと感じます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 敵を欺く [源田実航空作戦参謀]

 11月18日朝、一航戦、二航戦はいつもと
変わらず佐伯湾を出港し、五航戦は、
19日の零時に別府湾を出港して、
北方の択捉島単冠湾に向かいました。
バラバラに出港したのは、敵を欺く
ためでした。

 佐世保で浅沈魚雷を受け取った加賀は、
17日に、佐世保を出港し、佐伯に寄ってから
単冠湾に向かいました。機動部隊の全艦は、
無線封に入りました。

 それに代わって、九州各地に点在する陸上
航空基地が、一航戦の呼び出しを使って、
偽の交信を始めました。上記の擬装は、
機動部隊がハワイ攻撃を行う12月8日まで
行われました。機動部隊がこの方面にいる
ようにカモフラージュしていました。

 新嘗祭の11月23日、空母6隻以下の
南雲機動部隊30隻は、単冠湾に威風堂々と
集結を完了しました。

 南雲長官は、この日の午前9時、各級
指揮官、幕僚、駆逐艦長を赤城に集めて
訓示し、機密機動部隊命令を下達しました。

 この夜、南雲機動部隊30隻の各艦では、
全員が上下相擁して泣きながら酒を酌み
交わし、壮途を祝いました。艦隊訓練の後に
飲む、底抜けに明るいものではなく、死地に
赴く直前の悲壮厳粛なものでした。

 赤城の艦内で行われた悲壮な酒宴を
見ていた源田参謀は、赤穂浪士が討ち
入り前夜、蕎麦屋の2階に集まった時も
このような雰囲気だったのだろうかと
思ったとしています。

 南雲機動部隊30隻の艦船が単冠湾を
出撃し、片道6500kmのハワイ攻撃の途に
ついたのは、11月26日の朝でした。
空は暗く、海は怒涛の逆まく荒海でした。


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著者:生出 寿
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源田実参謀 激励の訓辞 [源田実航空作戦参謀]

 11月3日(明治節)、南雲長官は、有明湾内の
赤城に、各指揮官、参謀を集め、ハワイ攻撃の
実行計画を説明し、4日から特別訓練を行うことを
伝えました。

 訓練開始直前、始めてハワイ攻撃を聞かされた
全飛行科仕官は、淡々と聞きながら、「くるものが
きた」と緊張しました。淵田中佐総指揮によって、
11月4日から、佐伯湾南方250海里に展開した
空母部隊から、攻撃隊が発艦しました。

 そして、佐伯湾にいる連合艦隊の戦艦部隊を
ハワイ敵艦隊と想定して、雷撃機の襲撃訓練を
見事に実施しました。

 村田少佐が指揮する雷撃隊は、苦心惨憺の
発射実験の末、11月10日に入り、ようやく
納得のゆく魚雷発射法をつかみました。

 村田少佐は、土田中佐と吉岡航空参謀らと共に、
なお研究を重ね、発射高度20m発射時の航空機
速度160kmとしました。

 出撃準備が完成した時、南雲機動部隊は、
浅沈度魚雷を受け取りに行った加賀などを除き、
佐伯湾に整然と集合しました。山本長官は、
赤城の飛行甲板で、激励の訓辞を行いました。

 源田参謀は、印象的な訓辞を行ったと語って
います。内容は、「アメリカは、わが国開闢以来の
強敵であり、これほどの物と戦ったことはない。
相手にとって毛頭不足はない。

 キンメル大将は、数クラスを飛び越えて、合衆国
艦隊の長官に任命された人物であり、きわめて
有能な指揮官であることを付け加えておく。
奇襲攻撃を計画しているが、相手の寝首をかく
ようなつもりであってはならない。特に注意しておく。」

 源田参謀は、はなはだ力強いものであったと
しています。


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著者:生出 寿
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