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源田実参謀 対米強硬派 [源田実航空作戦参謀]

 第11航空隊所属の第23航空戦隊参謀として
台湾の高雄にいた吉岡忠一少佐は、9月1日付で
第一航空隊司令官部付の辞令を受けました。

 第一航空隊など聞いたこともありません
でしたが、9月6日横須賀軍港に在泊中の
赤城に着任しました。

 先任参謀に迎えられ、草鹿参謀長と、南雲
長官の前に立った吉岡少佐は、その場で、
アメリカとの戦争をやるが、開戦劈頭に
ハワイを空襲するといわれて、驚愕
しました。

 4日日前の9月2日に、日米首脳会談の
事前交渉が不調に終わり、日米国交調整は
手がかりを失い、絶望的となっていました。

 9月6日には、宮中で御前会議が開かれ、
対英米蘭開戦を決意する帝国国策遂行要領が
決定されました。

 内容は、「日本は自存自衛を全うするため、
対米戦争を辞さない決意の下に、10月上旬を
目途として、戦争準備を完整する。外交交渉により、
10月上旬頃に至ってもわが要求を貫徹できない
場合は、直ちに対米開戦を決意する。」というものです。

 この時に日本が要求していたのは、「中国から
撤退しない。」「米英は、日本と通商を回復する。」
「泰や蘭印間の経済提携について友好的に
協力する。」というもので、従来の基本的態度を
繰り返したものでした。

 天皇は、戦争回避の内意を強く訴えて
いましたが、海軍の永野修身軍令部総長や、
陸軍の杉山元参謀長、東条英機陸相などの
対米強硬派の勢いが強く、身命を賭して
戦争回避を主張する者はいませんでした。

 この当時は、対米英中協調を公言していた
要人がいたら、テロにより、暗殺されていたと
思われ、公言する人がいないのは当然といえます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 粒よりの人材 [源田実航空作戦参謀]

 9月1日、連合艦隊は、全面的な
戦時編成を発令しました。軍令部は、
9月3日~9月5日にかけ、図上演習を
行いましたが、作戦計画案には、ハワイ
攻撃はありませんでした。

 9月の始め、源田参謀の進言により、
第一航空艦隊は、赤城飛行隊長の淵田
少佐に、艦隊幕僚事務補佐を兼務させ
ました。

 そして、淵田少佐は、南雲長官の直属にして、
一航艦全体の水平爆撃隊、雷撃隊、艦上戦闘機隊が、
合同で訓練を行うことになりました。

 鹿児島と出水基地の水平爆撃隊は、
淵田少佐の指揮で訓練を行い、雷撃隊は、
村田重治少佐の指揮で訓練を行いました。
富高と笠ノ原基地の艦上爆撃隊は、蒼龍の
江草隆繁少佐が指揮しました。

 佐伯基地の艦上戦闘機は、赤城飛行隊長の
板谷茂少佐が指揮しました。これらの各訓練を
淵田少佐が統制していました。

 訓練の成果は上がり、空中集合に全飛行隊が
全て発艦し空中で集合するのに、約1時間かかって
いたのが、11月初頭の訓練では、15分ほどで
完了していました。

 第一航空飛行隊は、源田参謀が、前海軍航空隊から、
粒よりの人材を引き抜いてそろえる工作を行って
います。雷撃隊の訓練に当たっている村田少佐は、
龍驤の飛行隊長でしたが、雷撃の最高権威でも
あったので、引き抜いています。

 9月に入ってから編入されていた第五航空戦隊の
翔鶴艦上爆撃飛行隊長の高橋赫一(かくいち)少佐と、
瑞鶴艦上攻撃機の飛行隊長の嶋崎重和少佐も、
それぞれの分野のエキスパートでした。

 こうして、第一航空艦隊は、当時世界最強の
海上航空部隊となっていました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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