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潮、横須賀に帰還 [潮]

 陸軍の軍医からの願いに沿って、戦病者80人も乗せて
戻ってきた潮には、病人をそのままトラック島まで直送せよ
の命令が来ました。ラバウルの野戦病院でも大量の患者を
引き取って収容することはできないための命令でした。

 司令部の本音は、この忙しい時に大量の病人など運んで
きやがってと思っていたようです。大高氏は、小西司令官が、
病人を収容するように命じた時、ここで冷徹に拒否できるなら
今頃小西司令官は戦艦の艦長ぐらいに出世していただろうと
評していました。司令部は、人情とは相容れない関係だった
ようです。

 しかし、潮にとっては、この命令は思わぬ幸運でした。報われない
輸送任務で疲れ果てていたので、艦内にはトラック島へ行けると
聞いて歓声があがりました。大高氏は、このまま続けていたら
疲労が限界に達し、歴戦の潮も危なかったとしています。

 命令による直送ということで、病人に対する待遇も改善され、乗員も
患者も喜んでいました。トラック島に着くとさらにさらに幸運があり、
戦艦陸奥を横須賀まで護衛せよの命令を受けました。

 大高氏は、横須賀についた後、陸上航空隊通信士に転属となり、
潮を退艦することになりました。小西司令官も、空母大鷹(大高氏は
大鷹と記していますが、空母雲龍の間違いと思われます)の艦長に
就任することになりました。

 小西司令官と別れの杯を交わしている時、大高氏は、「空母は上品
なんだから土言葉はやめてください」というと、小西司令官は、「駆逐艦
乗りを航空隊で使うようじゃ日本海軍は長くない」といっていました。
大高氏が小西司令官と会ったのはこれが最後になりました。

 小西司令官は、後に雲龍と運命を共にしています。

(追記)
 大高氏の手記は、ここで終わっています。潮は、この後、
レイテ沖海戦や多号作戦に従事し、最後は、以前ご紹介
した響と同じ艦隊に属して終戦まで生き残っています。

 一方で、駆逐艦全ての乗員の死亡者は2万人を超え、
全海軍の戦死者が15万人のなのを考えると、駆逐艦だけ
で1割以上死亡していることになります。いかに、駆逐艦が
消耗の激しい激戦に従事したかが伺えます。

潮、病人を収容 [潮]

 10月になり、毎日のように補給作業に従事しているので、
当然のごとく、艦内からは他の駆逐艦は何をやっている
のかというボヤキが出てきました。

 他の駆逐艦も遊んでいるわけではありませんでした
(雪風のように、呉でトンボ釣りの訓練をさせられていた
艦もいましたが)。

 ガダルカナル島の戦局は、人間を野獣化させる試みでも
ありました。武器を与えて、食を与えずに突撃させ、疫病と
飢餓で苦しめていました。潮が食料を積んで接近すると、
飢餓に狂った陸兵が殺到しました。そこは、統率のとれた
軍隊ではなく、食を争うハイエナの群れでした。

 食糧の陸揚げが終わり、帰還しようとすると、大発が近づき、
ここにいる病人を野戦病院まで運んでほしいというお願いを
してきました。人情に弱い小西司令官は、見捨てることは
できず、収容することにしました。

 この収容に一時間かかり夜明けまでに哨戒区域きからの脱出は
不可能となりました。薄明かりの中、敵駆逐艦を1隻発見しました。
1対1なら潮が有利ですので、戦うところですが、今は病人を
助ける方が優先するということで、海上を逃げていました。
さらに敵機が接近してきました。

 ここで、歴戦の小西司令官は、潮を敵駆逐艦に向け、砲撃を
開始するという手段に出ています。軽巡洋艦なみの火力を
誇る潮が相手では、アメリカの駆逐艦は劣勢におちいり
ました。しかも、飛行機はどちらが味方かわからなくなり、
迂闊に攻撃できない状態でした。

 アメリカの駆逐艦が逃げる頃には、飛行機も退散しており、
潮も一目散に退避しました。

(追記)
 この時収容した病人は、人間はこんなに痩せるものかと
思えるほど骨と皮ばかりでした。大腿部は、腕と同じ太さで
した。お粥を出しても口もきけないような状態でした。
実は、これでもましな方でした。

 ここにいた病人たちは手を施せば救える人だけを連れて
きており、助かる見込みのない人が島に放置されてい
ました。

潮、無事錨地に到着し、陸軍を上陸させる [潮]

 夜になり、航空機の攻撃は逃れたものの、魚雷艇の攻撃が
待ち構えていました。アメリカ軍の魚雷艇は、レーダーを持っ
ているので、日本軍より夜目がききました。日本軍は、耳を
立てて、魚雷艇の爆音を聞き取るようにしていました。

 錨地まで間もなくのところで、魚雷艇2隻の爆音が聞こえて
きました。20mm機銃で反撃するとともに、旋回して艦首を
魚雷艇に向けました。これで魚雷をかわすことに成功して
います。

 このソロモン海域では、駆逐艦や潜水艦による攻撃で、
撃沈された駆逐艦は少なく、魚雷艇によりどこでやられ
たかはっきりしない駆逐艦が非常に多かったのが
現実です。

 潮は、無事錨地に到着し、陸軍を上陸させるのですが、
大発を捨ててきているので、座礁スレスレまで陸に近づき、
綱を陸に渡して、それにすがって泳いでいくことになります。

 10月なると、地獄行き定期急行は、ダイヤを増発され、
連日駆逐艦と潜水艦が出撃することになりました。ガダル
カナル島の食糧が深刻になってきたからでした。

 これまで、日本軍が戦争した、日清戦争も日露戦争も、
相手は農業大国だったので、食料は現地調達が可能で
した。陸兵は、ガダルカナル島で、アメリカ軍の他に、
マラリヤ蚊と飢餓とも戦うことになりました。

(追記)
 大発がなくなってくると、ドラム缶に食糧を入れて運ぶ
ドラム缶輸送が行われました。しかし、このドラム缶輸送は、
最初の2,3回しか成功しませんでした。翌朝までに、ドラム缶
の荷揚げが終わらず、アメリカ軍に攻撃されたためです。

 夜明けまでに終わらない理由は、ドラム缶を争って陸兵同士
が味方撃ちを始めたからです。この頃は、1週間で1合という
食糧しかなく、ドラム缶が来れば奪い合いになるのは当然と
言えます。

潮、陸兵による戦果 [潮]

 第七駆逐隊は、幸運にも、1艦も被害を受けることなく
ネズミ輸送を続けていました。場数を踏むたびに度胸も
ついてきて、敵の哨戒を突破する要領が良くなってきま
した。東京エキスプレスは第七駆逐隊の専門になった
ような感じでした。

 9月の中旬に、陸軍数百名を届けるべく、予定コースを
走っていました。晴天で視界は良好という、最悪の気象
条件でした。天候が悪ければ、哨戒機も魚雷艇も出て
こないので、最高の天気になります。

 この頃、アメリカ軍は、爆弾が命中しないと、機銃で
攻撃してきました。戦闘を避けていることがわかってきた
ので、小馬鹿にされていたということです。そこで、哨戒区域
に入ったら、陸兵に対し小銃で応戦するように命じました。陸兵も
銃が撃てるということで張り切っていました。

 哨戒機に発見されると、大発を切り離しました。30ノットで
転舵することになるので、大発はつないでいたら転覆します。
20機ほどの爆撃機の爆弾をかわすと、予想通り機銃掃射
してきました。

 自由に撃ちまくれという命令が下り、200人ほどの陸兵が
一斉に敵機に掃射を浴びせると、海に落下していきました。
この日は、同じ方法で3機撃墜し、潮には被害はありません
でした。

(追記)
 この戦闘を、小西指令官は、得意となって司令部に報告
すると、「勇戦は見事なり。陸兵を損ずるなかれ」と返信され、
「我々は車引きか」と苦笑していました。

 車引きという言葉は、出世コースに乗らずに同一勤務をする
駆逐艦乗りに対して、他の軍艦乗りから差別的な意味合いも
含んで言われた言葉ですが、駆逐艦乗りはこれを誇りにして
いました。

潮、ネズミ輸送 [潮]

 ガダルカナル島への航路では、午後4時から日没までが、
ルンガ飛行場を基地とする敵の哨戒空域に侵入するので、
最も危険な時間帯でした。

 この時間帯は全力で疾走します。アメリカ軍は、駆逐艦には、
小型爆弾で十分な事を知っているので、小型爆弾を数多く
持って執拗な攻撃をしてきました。

 駆逐艦は、爆撃機が急降下に入ると、途中で狙いを変える
ことができないことを利用して、投下される爆弾より少しでも
早く動くことを繰り返して、爆弾をかわしていました。

 ガダルカナル島に近づくと、駆逐艦や水雷艇が現れます。普段
なら、挑戦したいところですが、今は、陸軍の輸送が最優先で
あり、戦闘は控えるように厳命されていました。

 陸兵の揚陸には、大発を利用すして行っていましたが、陸軍の
大発は、ロクなエンジンを積んでおらず、途中でエンコするような
代物でした。夜明けまでに、哨戒空域を抜ける必要があるので
早く撤退したいという気持ちがあり、気が気ではありません
でした。

 大発が戻ってくると、日の出までに全力で走り、哨戒区域を
脱出します。この通称ネズミ輸送も、最初の頃は、大した被害
もなく、陸軍を送り届けていました。

(追記)
 アメリカ軍も、当初はまさか駆逐艦で輸送しているとは
思ってもいなかったので、発見しても爆弾を爆弾を送り
込むと引き揚げていました。

 しかし、定期的に往復するのを見て正体に気ずき哨戒を
厳重にしています。アメリカ軍は、ネズミ輸送を「東京エクス
プレス」と呼んでいました。

潮、「地獄行き定期急行便」の出港 [潮]

 潮は、「地獄行き定期急行便」の出港準備を終え、陸軍が
来るのを持っていました。陸軍の歩兵が、大発(大発動艇。
陸軍の揚陸艇)に、人員200名と兵器弾薬を満載して
きました。これらを積むと、艦上はこぼれるばかりの
大盛りとなりました。

 大発は曳航され、敵と遭遇したときは、放棄されることに
なりました。潮の乗員は、全員総員配備ついた状態で過ご
すことになります。定員以上の陸軍兵を、荷物満載の状態
で載せているので、士官室や兵員室はおろか通路まで
いっぱいの状態でしいた。

 ここに来ていた陸軍兵はみな、相当年配(40代)の応召兵で、
これらの人たちが、ガダルカナルの前線で、生き残れるとは思え
ないというのが、大高氏らの共通認識でした。そのため、潮の
乗員はできるだけ親切心を出していました。

 大高氏は、通信兵の少尉を電信室に案内し、休ませることに
しました。ただし、この通信兵は、部署があるから配置されただけ
で、無線通信について何も知らない状態でした。元は、銀行の
課長で何も伝えられず船から船に移動させられ、ラバウルに
連れてこられたということです。

 この通信兵は、陸軍が何を考えているのか分からないとぼやいて
いました。

(追記)
 駆逐艦や潜水艦によるこれらの輸送をねずみ輸送と呼んで
いました。これらの輸送においては、敵を発見しても、襲うことは
禁じられ、陸軍の輸送を最優先するように、命じられていました。

 大高氏は、この馬鹿げた任務のために新鋭の駆逐艦は海の藻屑と
なったと評しています。同様の意見は、潜水艦部隊からも出ていました。
海軍司令部は、駆逐艦と潜水艦に対する認識が不足しており、まともな
戦略もない状態で投入していたと思えます。

潮、輸送船の代わりに、陸兵を運ぶ [潮]

 ガダルカナル島のルンガ飛行場を確保したアメリカ軍は、
滑走路を整備拡張し、中型爆撃機も使用できるように
するために膨大な戦略物資を輸送船で運び込んで
いました。

 日本軍もこれを見逃す訳にはいかないので、ソロモン
近海での海戦は、何度も行われることになりました。
しかし、1000kmも離れたラバウルから出撃して
いるので、天候に左右され、攻撃は、意のごとく
なりませんでした。

 むしろ、戦果より損害の方が多くなるような日が続きま
した。日本海軍は、個々の戦闘ではアメリカ軍を圧倒
していながら、その結果を戦略的な成果に結びつけ
ることが出来ていませんでした。

 このようなおり、第七駆逐隊は輸送船の代わりに、陸兵を
運ぶ役割を担っていました。足の遅い輸送船では、格好の
目標になってしまうためです。速力を調整して、日没頃に、
ガダルカナル島に接近し、日没と同時に高速で突っ込んで
午前2時に脱出という手順でした。

 毎週のように敵艦隊を迎え撃っている時期で、駆逐艦は、
1隻でも手放したくない時ではありましたが、10数隻の
優秀な駆逐艦が集められました。大高氏らは、この
輸送を「地獄行き定期急行便」と呼んでいました。

 開始されて、2、3日後に潮の番が回ってきました。

(追記)
 ソロモン近海での海戦は、すでにご紹介しました第一次ソロモン海戦以降

第二次ソロモン海戦(1942年8月24日)
機動部隊同士のぶつかり合い。空母龍驤撃沈。

サボ島沖海戦(1942年10月11日)
 敵軍を味方と誤認したため攻撃をくらい、得意の夜戦で敗北。

南太平洋海戦(1942年10月26日)
 機動部隊同士のぶつかり合い。“雪風 南太平洋海戦前”以下をご参照ください。

第三次ソロモン海戦(1942年11月12日)
 戦艦比叡と霧島撃沈。”雪風 ガダルカナル島攻略作戦に参加“をご参照ください。

 と主なものだけで、これだけ行われています。

第一次ソロモン海戦 [潮]

 アメリカ軍が昼間のみツラギ湾から出てきていることが
わかったので、ツラギ湾に夜襲をかけることになりました。
ラバウルに投錨していた第八艦隊が、敵船団を撃滅すべく
出撃しました。

 陣容は、重巡洋艦の鳥海、青葉、古鷹、衣笠、加古の5隻と、
軽巡洋艦天龍、夕張の2隻、駆逐艦夕凪の8隻でした。潮は
参加しておりません。

 第八艦隊は、ガダルカナル水道に突入し、攻撃を予期して
いなかったアメリカ軍は、混乱をきたしました。混乱した艦隊に、
雷撃を与え、重巡洋艦4隻を撃沈、1隻を大破の戦果を得て
います。日本軍は、鳥海が小破したのみでした。

 このまま居座れば夜が明けて空襲を受ける危険があったので、
引き上げています。引き上げの途中で、潜水艦の攻撃により、
重巡洋艦加古が撃沈しています。日本海軍のお家芸である
夜襲の実力を大いに発揮したと言われています。

 しかし、輸送船には何の被害も与えておらず、アメリカの上陸
作戦には影響がありませんでした。この時、輸送船軍も補足して
いたら、アメリカ軍を殲滅できていた好機を逃したというのが、後世
の評価です。この海戦は、第一ソロモン海戦と呼ばれ、このあとに
続くソロモン方面の海戦の幕開けとなりました。

(追記)
 第八艦隊が、輸送船を襲わなかったのは、艦隊決戦の
思考から抜けておらず、輸送船を攻撃するという発想が
出てこなかったということが考えられます。潜水艦の最も
有用な使い方が通商破壊であるにも関わらず、積極的に
実施していないことからも伺えます。

 仮に行ったとしても、巡洋艦と駆逐艦合わせて8隻の艦隊で、
100隻もの輸送船に、護衛を振り切って攻撃を仕掛けるのは、
無謀としかいいようがなく、行わなかったことを批難はできない
と思われます。

潮、司令部から電報 [潮]

 魚雷艇の攻撃を脱出した頃には、夜明けが近くなって
きました。駆逐艦は、昼間に空襲を受けると30本もある
魚雷が誘爆し、船体が吹き飛ぶ危険があるので、長居
は無用と30ノットで一目散に退避しました。

 島から離れた後は、燃料の関係で速力を20ノットに
落として帰還していると、爆撃機が2機飛んできて、
機銃掃射を加えてきました。応戦する暇もなかった
ので、転舵を繰り返しながら20分激闘し、振り切る
ことができました。

 大高氏は、あの爆撃機はどこから飛んできたのか不思議
がっていました。実は、日本が整備している途中だった
ルンガ飛行場を、占領翌日に鉄製のムシロを敷きつめて
使えるようにしていたものでした。日本軍が運用して
いれば、戦局が有利になるという場所を、アメリカ軍
に使用されたということです。

 ショートランドに帰還すると、司令部から電報がきており、「今朝
航空偵察したところ、ルンガ沖に数十隻の輸送艦が停泊し活動中。
第七駆逐隊は、昨夜の襲撃行動を至急報告せよ」というものでした。

 小西司令官もこの電報に対し、「間抜けな飛行機野郎は寝ぼけて
いるのではないか」と、ハゲ頭から湯気を出して怒鳴っていました。

 アメリカ軍は、昼間はルンガ沖に来て荷下ろしをし、夜間はツラギに
引き上げていました。潮は、ちょうどいない時間帯にルンガ沖に来て
探し回ったため見つからず、飛行隊は昼間偵察したため見つけたと
いうことです。

(追記)
 8ヶ月もかけて整備を続けていたルンガ飛行場を、使用する前に
アメリカ軍に占領され、逆利用されたのは、土木装備が貧弱だった
ためという理由はありますが、これはないものねだりなので、致し方
ないといえます。

 しかし、ラバウルに10万人の軍隊がいて、この最重要の飛行場
建設に対して、完成まで何もしていなかったという状態でした。長雨
で飛行場がつかえなかった不運によるものではなく、司令部の無責任
を示す事例となっています。

潮、ルンガ沖に到着 [潮]

 「ルンガ沖に集結する敵輸送船を夜戦殲滅せよ」の命令に、
潮の艦内では、貧乏くじの一番だという声がありましたが、いつ
もの軽口で、本格的な夜戦と聞いて勇み立っていたというのが
実態でした。夜間、敵に肉薄して魚雷を放つスリルは、水雷屋
でないと味わえない緊張感でした。

 ルンガ沖での夜戦は楽しみででしたが、日没までに空襲を
受けたら夜戦どころではなかったので、厳重な対空警戒で
南下しました。速力25ノットで走り、8月8日の午前1時に
ルンガ沖に到着し、雷撃の準備に入りました。

 ところが、陸まで近づいても敵は見えず、見張りからも何もいない
との報告が来ました。100隻近い船を見逃すとは思えず、危険では
あったものの探照灯を点ける指示を下しました。辺りを探したものの、
敵は全く見つからず、その旨を報告して帰途につきました。

 そこに、魚雷艇が2隻、突撃してきました。機銃撃ての命令があり、
応戦すると魚雷が向かってきました。潮は急回頭し、艦首スレスレを
横切っていきました。

 その後もこの魚雷艇は機銃で潮の艦橋に掃射してきました。
軽巡洋艦と戦える性能を持つ日本の特型駆逐艦に機銃一丁で
向かってくるアメリカ軍に大高氏も舌を巻いていました。

(追記)
 戦争敗因の原因は物量で負けたということも事実ですが、
土木工事の機械化が遅れていたことも決定的な要因と
なっています。

 このルンガ沖に対する上陸も、飛行場が完全に完成して、
中型爆撃機が配備されていたら、ソロモン地域はおろか、
ニューギニアまで制空権が及ぶので、この方面の陸海
の戦闘は全く違ったものになりました。

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