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潮、ショートランド停泊中に空襲を受ける [潮]

 ショートランドに停泊中、爆音が聞こえましたが、機影は
見えず、寝ている艦長を起こそうとした時、「敵機20、突っ
込んできます」の報告がありました。全くの不意打ちでした。

 第七駆逐隊は、小西司令官の命令で準備していたこともあり、
準備完了後、港外に退避しました。アメリカ軍は護衛艦には
見向きもせず、輸送船を狙って攻撃を仕掛けていました。

 10分ほどの戦闘で、輸送船3隻が撃沈の被害にあいました。
この戦闘後、アメリカ軍は、ソロモン海域に、海と空から本格的な
攻撃を加えてきました。

 ガダルカナル島のルンガ飛行場も完成に近づき、戦闘機の
テスト飛行の結果、雨が降らなければ中型爆撃機の使用も可能
になっていました。翌日に、ラバウルから中型攻撃機が進駐すると
いう前日から連日の降雨となり、滑走路は使用不能となりました。

 この間隙をつき、忽然と100隻近い輸送艦がガダルカナル島と
サボ島の海峡をうめるように大挙来襲しました。悪天候で飛行機
も飛べず、すべてが後手になっていました。

 このような事態に、第七駆逐隊に出撃の命令が来ました。駆逐艦
の夜襲で、勝敗を決すべくその第一陣に第七駆逐隊が選ばれたと
いうことです。

(追記)
 戦闘機の武装と爆撃機の航続距離、搭乗員の技術などは、
この当時はアメリカ軍を凌駕していました。しかし、アメリカ軍
は、高高度偵察機の優秀性と、レーダー技術がすぐれており、
これが致命的な損害をもたらしています。

 日本軍のレーダーが装備されるのは終戦に近い時期でした。
目標を目で捉える必要があった日本軍と、夜でも、雨でも捉える
ことができたアメリカ軍では、歴然とした差がありました。

潮、ブーゲンビル島のショートランド泊地に錨を下ろす [潮]

 ジャワ島の定期航路は、約二ヶ月続きました。第七駆逐隊が、
うつつを抜かしている間に、南太平洋では日本とアメリカの間で
ニューギニアを中心に争奪戦が激しくなっていました。アメリカ軍
も、真珠湾での痛手から立ち上がりつつありました。

 1942年8月上旬、第七駆逐隊は大鷹の直衛の任務を解かれ、
ソロモン海域に集結しつつあった艦隊の指揮下に入ることが
命じられました。仕入れ品は全てトラック島に卸し、思い残す
ことなしとトラック島を出撃しました。

 潮は、ブーゲンビル島のショートランド泊地に錨を下ろしました。
ここは、ガダルカナル島行きの人員、資材を満載した、輸送船団と、
それを護衛する艦船が賑やかに集結、待機していました。
ここは、敵空軍基地から遠く停泊艦はくつろいだ姿でした。

 しかし、歴戦の第七駆逐隊の小西司令官は、高高度でアメリカ軍機が
偵察しているのを度々目撃し、「これだけの船が集まってりゃ見逃しは
しない。来たら三十六計、港外に出る」と決めており、ボイラーの消火は
しませんでした。

 この想定は的を得ており、実際、アメリカ軍の攻撃を食うことになりました。

(追記)
 この当時、アメリカ軍は、日本本土への進攻ルートとして、
ニューギニアからパラオ諸島を経て、フィリピン、東京への
ラインと、ニューギニアから、直線的に太平洋に点在する
島をカエル飛びに東京に向かうルートの2つを、構築
しようとしていました。

 アメリカ軍は、不要な島は、見向きもせず残して、重要な島は、
損害を厭わず攻撃していました。トラック島は、大規模な空襲を
行い、破壊はしているものの、その後は放置され、終戦まで残る
ことになります。

潮、アルバイトに精を出す [潮]

 潮が、スラバヤ港に入ると、大高氏らは、日本の内地では
不足ぎみだった宝石、衣類類、飲食類を、日本軍票で買い
あさっていました。

 アルコール飲料は、表向き街頭での販売は制限されて
いましたが、インド商人にわたりをつけると、憲兵に隠れて、
スコッチやブランデーを入手できました。

 大高氏らは、スラバヤ港に入港すると、革のかばんや、
靴、ウイスキー、チョコレートなどを仕入れて、トラック島
に戻り、それらを数倍の価格で売却していました。
トラック島は、内地以上に物資不足だったので、
感謝されました。

 しまいには、トラック島の料亭の女性から不足の品の
注文を受けて、スラバヤで購入して帰るという大鷹の
護衛そっちのけでアルバイトに精を出していました。

 おかげで、第七駆逐隊が、トラック島に入港するとなると、
他の客を放り出して、大高氏らの席に来る有様でした。
トラック島の参謀は、この状況を苦々しく思ったのか、
離島に寄港するように命じられたことがありました。

 しかし、そのようなこともお構いなく、夜になると、
料亭に繰り出して、オランダ製の高級ブランデーで
生きる喜びを謳歌していました。

 大高氏らは、不当な南方行きの命令をした連合艦隊
への溜飲を下げることが出来ました。

(追記)
 ジャワ島を占領した時、日本陸軍はそれまでの支配者で
オランダの軍人、官吏、商人、旅行者まで成年男子は、全員
収容所に隔離しています。

 残された未成年と御婦人方は、生活費稼ぎに夜の街や酒場、
カフェなどで働くようになりました。これは、終戦直後の日本も
似たような状態であり、戦争による犠牲者と言えます。

潮、空母「大鷹」の直衛 [潮]

 潮は、南方前線に石をもって追われるような進撃を
命じられました。日頃はあまり物事にこだわらない
小西司令官も仏頂面をしていました。下士官に
至っては、大変な怒りようでした。

 艦隊司令部と山本五十六に対し、あらん限りの悪態と
罵りの言葉を放ち、コキおろしながら、一路トラック島に
向かって南下しました。

 トラック島に到着すると、人間がこぼれるように溢れて
いました。トラック島は、珊瑚礁の島の集まりですが、
日本軍の太平洋作戦における最大拠点で、軍港
でもありました。陸海軍から、軍属、慰安婦まで
街は人で溢れていました。

 トラックでの任務は、空母「大鷹」の直衛でした。また
トンボ釣りかという乗組員のうんざりした声が出てきま
したが、結果としてはいい任務でした。

 大鷹の任務は、陸軍機をジャワ方面からトラック島に
海上輸送することでした。任務の関係でジャワ島に
行くことになりましたが、ジャワ島は長い間、オラ
ンダに占領されており、その間は人間扱いされて
いませんでした。

 そこに、白人を追い払った同じアジア人が来たと
いうことで、親日感情は抜群にいい所でした。
しかも、物資は豊かで、住民たちは占領国
とは思えない豊かな生活を楽しんでいました。

 このような地に行けたことで、大湊からくすぶっていた
不満も一気に解消し、連合艦隊司令部を崇めたてるという
現金なことをしていました。

(追記)
 慰安所は、今話題になっていますが(隣国と、それに同調している一部の
人達が、解決済みの問題を蒸し返すという国際慣例無視の行為をしている
だけです)が、大高氏ら兵士たちにとっては浅ましいという言葉は、使わ
ないで欲しいと記しています。

 軍人は、明日の生命が保証されていないため、今日生きることが全てと
いうことで、これらの行為も全て日常の行為となっています。トラック島の
慰安所は、お正月の上野駅のような賑わいだと描写されていますが、
その裏では、悲壮感もある光景と言えます。

潮、青森県の大湊に入港 [潮]

 ミッドウェー作戦について、大高氏は独自の見解を
出しています。ひとつは、この海戦が日本軍の敗戦に
つながる一戦だったというものです。大高氏は、これで
互角になったという見解です。

 日本の10倍はあるといわれた、アメリカ軍の軍需生産
が、この頃から軌道に乗り始めた時期であり、これが
戦力差として現れたとしています。ミッドウェー海戦
直後の日米の戦力を比較すると、互角といえます。

 この4ヶ月後に起こった機動部隊同士の戦闘となった
南太平海戦で、一時アメリカの空母を全て行動不能にして
おり、戦う力はあったと言えます。

 大高氏は、主力艦隊を率いている司令官が誰一人責任を
とっていないことに、不満を述べています。主力艦隊は、機動
部隊の敗北時、一目散に逃げています。他の戦場にいた潮を
呼ぶくらいなら、主力艦隊が救助すべきだったのではと思われ
ますが、なぜこうしたかすぐに分かることになります。

 潮は、青森県の大湊に入港するように指示を受けました。
潮は上陸する許しも得られず、収容者を大湊防備隊に
引き渡すと、2日後に南方戦線に出動が命じられま
した。ここは、駆逐艦の墓場と言える戦場でした。

 軍令部は、ミッドウェー海戦の敗戦を国民に知られないように
するため、この作戦に参加し生き残った者すべてを、再び帰る
ことのない前線に送ったということです。こんなことをする軍隊が、
戦争に勝てるはずがありませんでした。

(追記)
 空母ヨークタウンは、珊瑚海海戦で翔鶴と同じように中破して
いながら、応急修理でミッドウェー海戦に参加しています。翔鶴は
参加できなかったことを考えると、アメリカ軍の修理能力は桁外れ
だったと言えます。

 ミッドウェー海戦でも、飛龍によって大破させられているものの、
帰還すればすぐに前線復帰することは目に見えていたため、
艦これにも登録されている潜水艦の伊168に撃沈するよう
命じています。

 伊168は、ヨークタウンを撃沈し、その後、護衛の駆逐艦に追い
回され、全員死亡しかねない破損を生じながら、なんとか呉まで
逃げ切っています。敗北に一矢報いた活躍でした。

潮、現配備を解いて、直ちに南下 [潮]

 キスカ島を占領した夜、「第七駆逐隊は、現配備を解いて、
直ちに南下し、ミッドウェー攻撃隊の指揮を受けよ」という
命令が下りました。

 大高氏は、無電でミッドウェー攻撃部隊に相当な被害が
出ていたことは知っていましたが、詳細は不明でした。
大高氏はこの命令に、やっとこの地を離れられる
という気持ちでした。

 実際にミッドウェーに到着すると、悲劇の幕は下ろされて
いました。第七駆逐隊は、各駆逐艦が救助した沈没艦
乗員を輸送する任務を受け、引き取りました。大高氏ら
は、この乗員からミッドウェー海戦の詳細を聞き出す
ことが出来ました。

 このミッドウェー海戦の敗北の理由はいろいろ言われていま
すが、この中で、アメリカ諜報部が日本軍の暗号解読に成功し、
行動筒抜けだったというものがあります。

 このことに対し、大高氏は、自らが暗号解読、発信の当事者
だったこともあり、これはありえないという話をしています。

 大高氏は、日本海軍が使用した各種暗号は、約60種類あり、
それらを日によって組み合わせを変えていたということです。
これらを短日数で解読することは不可能だと断言しています。

 日本海軍の暗号はすべて解読されていたという話は、よく
聞かれますが、大高氏の主張も一理あり、アメリカ軍が流した
噂という可能性もあり得ると思います。

(追記)
 アッツ島にいた艦隊は、ミッドウェー作戦後、潜水艦に
襲われ、多大な被害を出しています。

 “雷、霞を曳航する”でも紹介しましたが、7月5日に、
潜水艦の攻撃を受け、霰(あられ)が沈没し、不知火と
霞(かすみ)が、前部切断の大損害を受けています。

 攻撃を受ける前に、アッツ島を離れられた潮は、かなり
運が良いと言えます。

潮、暇を持て余す [潮]

 爆音がさらに聞こえ、上空を警戒していると、なぜか
飛行機が一機、雲を突き抜けて姿を現しました。爆音
だけでイライラしていた全艦隊の対空砲は、この一機
に集中することになりました。

 あっという間の撃墜され、水中に落下しました。アッツ島
占領時の唯一の戦闘でした。この時、潮では、内火艇艇長
が誤って海に転落し、10分もしないうちに助けたものの、
凍りついており凍死していました。改めて、北の海の
恐ろしさを知ることになりました。

 この戦闘後は、暇を持て余すことになりました。作戦行動中は、
訓練がないので、交代で当直勤務をすることになります。寝るか、
食うか、喋るか、読むかと言うことになりますが、これが1週間も
続くとやることがなくなってきます。

 結局、釣りを楽しむことになります。ここは漁場としてはいい場所
なので、大物を釣り上げることができました。士官たちは、賭博行為
に精を出していました。とはいえ、軍規厳正を誇る日本海軍の軍艦
の中で、公然と賭博をすることはできませんでした。

 隠れてやっているということですが、花札や賭博には見つけても
それほどやかましくは言われませんでした。一方で、麻雀は敵国
の遊戯ということで、禁止されました。なぜか、ポーカーは禁止
されなかったので、不公平でした。

(追記)
 このアッツ島作戦と呼応してミッドウェー作戦が行われ
ました。アメリカ軍は、兵法の原則に則り、使用できる
全ての空母をミッドウェーに集めて戦闘しています。
当然、アッツ島におびき出されるということはありま
せんでした。

 大高氏は、この作戦は骨折り損のくたびれ儲けだったと
言っていますが、実態はそれ以上にひどかったと言えます。

潮、アッツ島での対空戦闘 [潮]

 大高氏は、寒冷と荒涼とした不毛の氷と岩で固められた
アッツ島を初めて見て、醜い島だと記録しています。人影は
おろか、鳥も飛ばないような島でした。しかし、犬の鳴き声は
聞こえるので人はいるようでした。

 輸送船から上陸用舟艇が降ろされ、陸兵が続々と島に
向かって送られていきました。一発の銃声もなく、無血
敵前上陸でした。

 6月は、この時期では白夜になり、一日中太陽が沈むことは
ありませんでした。連日、雲も立ち込めており、空襲があるとは
思ってもいませんでした。ロクな対空警戒もしないある日、
大型機の爆音が聞こえ、対空警戒が命じられました。

 音だけは、泊地の上空を旋回していることが聞こえるものの、
姿は見えませんでした。すると、雲の中から、航空魚雷が海中
に放り込まれ、それらが正確に空母龍驤を狙っていました。

 これには驚いたものの、反撃もできませんでした。魚雷の
性能が悪く、速力も遅いため龍驤には当たらなかった
ものの、腑に落ちない出来事でした。

 アメリカ軍はレーダーを使用していたから出来たことですが、
日本軍内では、レーダーの存在は、一般的ではなかったと
いえます。

(追記)
 この地に降り立った、陸軍2,500人は、大本営から何の
増援もなく放置され、1年後アメリカ軍の攻撃を受け孤立
無援のまま玉砕しました。

 ミッドウェー作戦の補助作戦ということですが、どこまで本気
だったのか疑問が出てきます。しかも、戦闘では戦力を集中
させるという原則からも外れる作戦であり、この地で犠牲に
なった兵は、浮かばれないと言えます。

潮、当直将校のミス [潮]

 先任将校からの命令があるべき時に命令がない異常に、
大高氏が電信室から出ると、目の前のドアが開き、この
極寒のなかで、下着一枚の小西司令官がでてきました。

 小西司令官は自分の格好には頓着せず、艦橋に飛ぶ
ように上がって行きました。大高氏も、後を追って艦橋に
登ると、下着一枚で小西司令官が自ら転舵し、回頭させ
ていました。

 なお、操舵員はいるものの、軍艦は将校の指示がない
限り勝手に転舵することはできませんでした。このまま
進めば、第七駆逐隊は迷子になることを、操舵員は
充分知っていたものの、命令がないので勝手に
転針はできませんでした。

 当直将校を見ると、先程大高氏からもらったウイスキーで
ほろ酔い気分で寝ていました。小西司令官は、当直将校に
怒りの往復ビンタを食らわせて、寒さに凍えながら艦橋を
あとにしました。

 このことは、艦橋にいた人以外艦長も含め誰にも知られて
いませんでした。勤務中に酒を飲んだ挙句、当直中に
居眠りして、艦隊の転針を見逃すところだったので、
艦長の耳に入っていたら、往復ビンタはおろか、
軍法会議ものでした。

 6月7日に、アッツ島に到着しました。この日は霧もなく、
雲が低く垂れこめているだけでしたので、アッツ島を見る
ことができました。

(追記)
 駆逐艦は、航海する場合、艦橋に当直将校がつくことになって
おり、艦長を除いた兵科将校が、4時間ごとの輪番で勤務する
ことになっていました。当直中は、艦の指揮権が与えられる
ので、重大な権利と義務と責任が発生します。

 機関科の士官は、兵科将校が全員死亡するか指揮能力が
なくなった時しか、指揮権は与えられませんでした。主計科と
軍医は、いかなる場合も指揮権が与えられることはありません
でした。将校は、科によって、権限には大きな差があります。

潮、航海中の異常事態 [潮]

 大高氏は、作戦中にウイスキーを嗜むのは、天皇陛下に
申し訳ないとは思っていたものの、横須賀を出港してから
5日間は、神経が参っていたと記録しています。

 それは、明るい南の海で行動してきたことが、北の海の
暗さ、寒さ、霧、醜い海の色など、どれも拷問具で締め
付けられるいような感じを受けていたことによります。

 ウイスキーをちびちびやっているところに、同室の同僚が
やってきたので、ウイスキーを隠すと、「酒はないか」と聞いて
きました。しかたなく、ウイスキーを出すと、2,3杯あおるように
飲んでいました。

 大高氏は、サイダーがわりに貴重なウイスキーを飲まれては
たまらないので、ウイスキーを奪いとりました。同僚は、「うま
かった。これから当直だし、外は雨だ」ということでした。
大高氏は、第七駆逐隊所属であり、潮の乗組員では
ないので、当直はありませんでした。

 信号兵から、「旗艦(空母龍驤)が本艦右45度遠ざかります。」
の伝令があり、当直将校から、命令が来ると思っていたのに、
全くありませんでした。さらに、信号兵から、「右45度さらに
遠のきます」の伝令があっても命令がなく、大高氏もおかしい
と思い、電信室を飛び出しました。

(追記)
 この作戦においても、例のごとく潮艦内では、罪のない悪口が
飛び交っていました。この中に、「ノレン野郎は、俺たちをどうやって
殺そうかと作戦を練っているのとちがうか」というものがありました。

 ノレン野郎というのは参謀部のことで、肩から金のモールを
つけているので、縄のれんをもじってこう呼んでいます。駆逐艦
乗りが、参謀部をどのように見ていたかがわかる悪口です。

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