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山口多聞 山本長官の物思い [山口多聞]

 中島少佐は、さらに突っ込んだ意見を
言っていましたが、宇垣参謀長は、
「心配することはない・・・」と
語尾を濁らせていました。

 討論すれば、不安材料が噴出してきて、
収拾がつかなくなると考えていたからでした。

 山口少将も、この段階では何を言っても
覆ることはないと知っていたので、すっきり
したい気持ちで大和から立ち去りたいと
考えていました。

 この時、山口少将は山本長官が、物思いに
ふけっているような表情が気になっていました。
この時、山本長官は、作戦そっちのけで、別の
ことを考えていました。

 山本長官は、5月13日に、東京にいる愛人の
河合千代子氏に電話をかけ、呉に呼び寄せて
いました。そして、旅館で数日過ごしています。

 この時、千代子氏は、肋膜炎を患って
いましたが、山本長官のたっての頼みで、
駆けつけていました。

 20歳も年の離れた山本長官からすれば、
娘といえそうな千代子氏に、熱烈な恋文を
書いています。

「私は国家のため、最後のご奉公に精根を
傾けます。29日には、こちらの早朝出撃し、
3週間ばかり洋上で全軍指揮します。多分
あまり面白いことはないと思いますが・・・」と
いった内容でした。

 この手紙を出したのは機動部隊が出撃した日
でした。山本長官は、大作戦を前に、愛人の病状を
気にしていたことになります。しかも、この手紙の
最後には、「あとは世の中から逃れて、2人きりに
なりたい。」と記しています。

 これが山本長官の本音であったと思われます。
山口少将は、山本長官がこのような心理だったことは
分かりませんでした。知ったら失望したと思われます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 最後の図上演習 [山口多聞]

 司令部は、悲観的な展開があるものの、
対した根拠もなく「今度も勝つ」という
漠然とした思いに寄りかかっていました。

 山口少将は、釈然としませんでした。
唯一の救いは、「索敵は充分に行うことと、
戦闘中の兵装転換は厳禁」と念を押した
ことでした(守られることはありません
でしたが)。

 5月25日、連合艦隊司令部は、旗艦大和に
司令部や参謀を集めて、ミッドウェー・アリュー
シャン攻略に関した最後の図上演習、兵棋演習、
作戦打ち合わせを行いました。

 山本長官の挨拶の後、宇垣参謀長と黒島
先任参謀から、作戦の概要が説明されました。
この中で、アメリカの機動部隊の動向を監視する
潜水艦隊の準備が遅れ、6月4日以降になる
ということが報告されました。

 このことに対して、「アメリカの機動部隊が
出撃するのは、日本軍がアリューシャンや
ミッドウェー方面に展開しているの知ってから
となるので、6月4日より早いとは思われない。」
という見解を述べて、問題視されませんでした。

 さらに、飛行機の部品搬入が遅れ、出撃は
1日遅れの5月27日になることになりました。
このため、ミッドウェー攻撃は、1日延期し、
6月5日になるという事でした。

 このことに対し、攻略部隊の通信参謀の中島少佐が、
「攻略部隊の輸送船団は、6月4日にミッドウェー基地の
哨戒圏内に入るので、翌日の機動部隊の空襲が
察知されかねないので、5日に延期したい。」と
疑念を挟みました。

 これに対し、宇垣参謀長は、敵機動部隊出現の
危険性を説いていながら、この時の作戦会議は、
形式的なものと思っているためか、丸くおさめようと
しており、「その必要はない。」と言い放っています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 図上演習 [山口多聞]

 翔鶴と瑞鶴は、共に艦上攻撃機84機を
搭載していました。しかし、珊瑚海海戦から
帰還した時は、翔鶴、瑞鶴合わせて39機しか
ありませんでした。

 珊瑚海海戦は、史上始めての機動部隊同士の
海戦(複数の空母同士がぶつかり合った海戦。
歴史上日米の海戦以外ありません)と言われて
います。

 瑞鶴は、翔鶴に遅れること4日後の5月21日に、
呉に帰還しています。山口少将は、ミッドウェー
作戦に瑞鶴だけでも参加してもらいたいと
思っていましたが、あまりにも時間がなく、
間に合いませんでした。

 山口少将は、ミッドウェー海戦に当たり、旗艦を
蒼龍から飛龍に移しました。5月1日~4日に、
桂島泊地中の戦艦大和で図上演習が行われ
ました。しかし、ハワイ作戦の時と違い、司令部や
南雲長官に緊張感が欠けていました。

 ミッドウェー作戦を立案した連合艦隊司令部は、
第二弾作戦に、大本営が要請してきたフィジー、
サモア、ニューカレドニア攻略を加えました。
フィジーとサモア攻略後、ハワイ攻略を実施する
予定でした。

 しかし、図上演習では、最初のミッドウェー
攻略の時からケチがつきました。攻略中に
機動部隊が出てきたら、日本機動部隊に
被害が出て、作戦続行が困難になるという
展開になりました。

 この図上演習の総監である宇垣参謀長は、
山口少将から突き上げられていたので、
再三再四、敵機動部隊が出現する危険性を
指摘しました。

 一方で、空母の被害は1隻と勝手に判断して
演習を続け、1週間遅れで成功するという
都合のよい解釈をしていました。全く無意味な
図上演習といえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 翔鶴中破 [山口多聞]

 祥鳳を失った翌日の5月8日、機動部隊は、
弔い合戦とばかりに、ヨークタウンとレキシントンに
攻撃を加えました。

 レキシントンは大爆発を起こして沈没し、
ヨークタウンも大きな損害を受けました。
日本軍は、空母を2隻とも撃沈したと
判断しました。

 連合艦隊は、当初レキシントンをサラトガと
勘違いしていました。ヨークタウンについては、
沈没を免れたにしても、航行不能か戦列復帰には
相当の時間がかかると思い込んでいました。

 一方、日本軍の方は、翔鶴のみ攻撃を受け、
全ての魚雷攻撃をかわしたものの、爆弾を
3発くらい、満身創痍となっていました。
5月17日に、呉に帰還した翔鶴を見た
関係者は色を失いました。

 この時、呉に入港していた蒼龍の乗員は、
海戦の凄まじさを見せつけられました。
珊瑚海海戦は、日本軍の勝利とされており、
翔鶴は中破と伝えられました。

 しかし、翔鶴の被害を見た海軍関係者、
とりわけ空母の乗員は、衝撃を受けて
いました。

 翔鶴に命中した1発目の爆弾が、艦首付近の
飛行甲板と舷側上部を粉々にしていました。
2発目は、後部飛行甲板の被害が大きく、
内火艇が焼けただれた上、機銃座の
射手は全員戦死していました。

 3発目は、艦橋後部の信号檣付近に直撃し、
近くの機銃座射手全員戦死していました。
機銃の引き金に手をかけたまま、ちぎれている
手もありました。戦死者は、100余人にも
のぼりました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 MO作戦 [山口多聞]

 山口少将が山本長官にお願いしたことは、
絶対やるべきことは、十分に索敵機を飛ばす
こと、絶対やってはいけないことは、戦場での
兵装転換をしないことというものでした。


 ミッドウェー海戦の前哨戦として、MO作戦に
参加していた五航戦の翔鶴と瑞鶴と、祥鳳が、
珊瑚海でアメリカの機動部隊と壮絶な海戦を
繰り広げました。

 アメリカ軍は、ヨークタウンとレキシントンの
2隻の空母が参加していました。初日の5月7日に、
アメリカ軍が、祥鳳に集中攻撃をし、魚雷7本と爆弾
13発を命中させ、撃沈しています。

 祥鳳は、真珠湾奇襲後に、潜水母艦を改造した
空母で、改造から4ヶ月、初陣で撃沈という
悲劇的な最期となりました。

 祥鳳は、日本海軍が日米開戦で失った始めての
空母となりました。

(追記)
 山口少将が、山本長官にお願いしたことは、
ご存知の通り、ミッドウェー海戦で守られる
ことはありませんでした。そうなると山本長官は、
何のためにミッドウェーに参加したのかと問いたく
なります。

 長官が前線出でて、山口少将の注意事項を
南雲長官に徹底させていれば、あそこまでの
大敗北はなかったと言えます。機動部隊と
行動をともにしないのであれば、筋が通らない
といえます。

 個人的に、ミッドウェー海戦敗北の最大
責任者が山本長官であると考えているのは、
敵機動部隊のことを知っていながら、南雲
機動部隊に知らせもせず、後方で居座った
まま、敵前逃亡のように去って行ったことに
あります。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 司令部への意見具申 [山口多聞]

 常識論に徹している宇垣参謀長の言に
不安を感じた山口少将は、「今度の
作戦は、敵機動部隊を誘導し、叩く
ことに主眼があると聞いた。」と
質問しました。

 これに対する回答は、「その通りだ。
それだけは甘く見てはいかん。もしも、
攻略中に敵機動部隊が現れたら、わが
機動部隊も相当の被害が出ることを
覚悟しなくてはな。」と、宇垣参謀長は
冷水を浴びせられたように、表情を
固くしました。

 山口少将は、機動部隊がきたら大変なことに
なると理解していることに安心しました。
その上で、黒島先任参謀にも直談判
しましたが、にべもなく却下
されました。

 理由は、司令部が強く押してやっと承認された
作戦を、こちらから延期することはできないという
ものでした。一見もっともと言えそうですが、実は
その場しのぎの屁理屈でした。

 山口少将は、山本長官の元を訪れました。そして、
「ハワイ奇襲時は空母6隻、セイロンでは5隻で
参加しています。敵機動部隊との決戦も念頭に置いた
状態で、4隻の空母というのは少なすぎる。再考を
お願いします。」としています。

 山本長官は、「今度の作戦には、私も参加する。
航空母艦が不足なのは分かる。作戦会議では、
君の意見を取り入れる。思う存分、意見具申して
欲しい。」と頼まれました。

 ここで、山口少将は、セイロン島攻略のときに得た
教訓を山本長官に話し、絶対すべきことと、やっては
いけないことを、きつく言って下さいと言っています。

 山本長官からは、分かったといわれましたが、
山口少将は、割り切れない気持ちで大和から
去ることになりました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ミッドウェーとアリューシャンの攻略 [山口多聞]

 本国に帰還した山口少将は、桂島を訪れ、
新たに連合艦隊旗艦となった戦艦大和を
始めて見ました。

 海軍部内の航空関係者は、この当時から、
大和をホテルと呼んで皮肉っていました。
ホテルと呼ばれたのは、大和の設備の良さと、
満州にあった「大和ホテル」になぞらえた
ものでした。

 山口少将は、大和を見て、「確かデカイが、
動かなければタダの鉄の塊だ。46cm主砲が
火を噴くことがあるのだろうか。」を感じました。

 大和の中にある連合艦隊司令部に赴くと、
6月のミッドウェーとアリューシャンの攻略は、
決定ずみでした。

 これを聞いた山口少将は、普段の強気な態度とは
一転して、「6月では早すぎる」と感じました。
ミッドウェーとアリューシャンの攻略の概要を
聞かされた山口少将は、計画が杜撰であると
直感しました。

 こう感じた理由の一つは、内地に戻った機動部隊の
人員は、異動が待っていることでした。これまで苦楽を
ともにした搭乗員や乗員の部署替えがあり、顔ぶれが
変わっているはずでした。

 山口少将は、同期の宇垣参謀長に、「補充
要員により、錬度が落ちている。猛特訓
するにしても、後一ヶ月作戦を遅らせ
られないか。」と忌憚のない意見を
述べました。

 これに対して、宇垣参謀長は、「大本営で決定
済みだ。そんなに神経質にならなくても、よいでは
ないか。ミッドウェーは小島であり、セイロンや
ポートダーウィンに比べれば、赤子の手をひねる
ようなもんだろう。」という返答でした。

 さらに、「今度は山本さんと一緒に行く。」と
言い、ミッドウェエーに行くのを楽しみにしている
様子でした。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 駐在時の経験 [山口多聞]

 山口少将が、このような戦略構想を立てた
のは、二度のアメリカ駐在を体験し、滞在中は
パナマ運河などの南米も視察していたから
でした。

 これらの体験を元に、アメリカを屈服
させるには、これくらいの戦略構想が
なければできないと考えていました。

 日本は、この当時、アメリカの石油に
頼っていました。本気でアメリカに
勝つには、カリフォルニアの油田は
確保しなければなりませんでした。

(追記)
 山口少将の戦略をみると、太平洋全体を
見回した壮大な戦略といえます。オースト
ラリアや南米を切り離すというのは、
アメリカを相手にするのであれば、
必要な戦略と感じられます。

 一方で、このような戦略を立てるのであれば、
「なぜ、真珠湾攻撃を行ったのか?」という、
当初からの疑問がでてきます。

 工業力に大きな差がある上、石油を頼っている
アメリカを相手に戦争を始めた理由が
分からないといえます。

 山口少将の戦略でも、ハワイ攻略は後回しすると
なっています。ならば、南雲長官の案の通り、南方に
集中して、アメリカに頼らない石油のルートを確保
すること。

 さらに、太平洋に出て行くときに、後方から
イギリス軍に攻撃されないように、ドイツと
協力してインド洋を押さえるのは必須と
いえます。

 ここまで済んでから、アメリカの出方を見ながら、
オーストラリアを攻略すべきといえます。個人的には、
山口少将は、最も手を組んではいけない山本長官に
ついていくと決めたことが、戦略がチグハグになった
原因と考えます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 作戦順序 [山口多聞]

 山口少将の戦略構想は、作戦順序にも
及んでいました。

 第一作戦(ハワイ、南方作戦)は、後回しに
して、1942年5月中旬までに、インド要塞
(セイロン、カルカッタ、ボンベイ)の攻略を
完了させる。

 7月末までに、フィジー、サモア、ニュー
カレドニア、ニュージーランド、豪州を攻略
する。豪州攻略後は、豪州を大東亜共栄圏に
参加するように指導する。」というものです。

 次の段階では、「一期と二期に分け、一期で、
8~9月にアリューシャンを攻略し、11~12月、
ミッドウェー、ジョンストン(太平洋中部の島)、
パルミラ(コロンビア)を攻略し、12月~
1943年1月に、ハワイを攻略する。

 第二期では、ドイツと呼応し、南北アメリカを
遮断すべく、潜水艦隊をアメリカ西岸に機動させ、
状況によりパナマ運河を破壊する。

 南米の要地に、ドイツ軍と協力して派兵し、
枢軸陣営に入れ、アメリカの必要資源輸出を
遮断する。

 状況により、カリフォルニアの油田地帯を
占領する。基地航空隊をカリフォルニアに
進出させ、北米全域に渡り、都市と軍事
施設を攻撃する。」というものでした。

 この意見書は、軍令部第一課資料として、
「軍機」の赤印が押され、「戦時編成立案
意見等綴」のなかに綴られました。

 パナマ運河の破壊、南米への進出、カリフォル
ニア油田地帯の占領、カリフォルニアからの全米
空爆と奇想天外な戦略構想だといえます。

 山口少将は、これは絵に書いた餅ではなく、
現実に即した内容だと考えていました。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 戦略構想 [山口多聞]

 山口少将は、私見としてポートダーウィン
空爆の翌日、独自の戦略構想を、海軍省と
連合艦隊司令部に送っていました。

 内容は、「1943年末までに、飛行機は
大型機300機、中型機3000機、
戦闘機遠戦型300機、零戦4000機を
製造する。

 艦上攻撃機と艦上爆撃機各1000機、水上
偵察機300機、空母は蒼龍以上を12隻の他、
潜水艦300隻、防空艦50隻、護衛艦100隻を
建造すべき。」としています。

 山口少将は、空に力を入れた生産計画を
立てるべきだとしています。大型機は、
アメリカ軍を屈服させるためであり、
他の航空機は、「制空権を握るものが、
戦争に勝つ。」という思想に基づくものでした。

 航空機の生産だけならば、山口少将が想定した
以上の機数を生産していますが、アメリカは
圧倒的な工業力で、大量の航空機を生産し、
日本軍を凌駕することになりました。

 もう一つ、山口少将は、大艦巨砲主義は、
過去の遺物だととらえていました。大和や
武蔵のような戦艦は、燃料ばかり食って、
速度があまり出ず、新造の必要はないと
考えていました。

 戦艦の使い道は、艦砲射撃くらいであり、
空母の方が役立つと考えていました。そして、
空母と同じくらい機動力のある巡洋艦や
潜水艦が必要だとしています。

(追記)
 個人的には、戦艦が役立たないのは機動力が
劣るからであり、空母と随伴できる金剛型はかなりの
活躍をしているといえます。速度を重視しなかった
ことが、戦艦を無用の長物にしてしまったといえます。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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