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山口多聞 権威におもねらない人柄 [山口多聞]

 五十鈴の艦長として就任した山口少将は、
航海長の実松(さねまつ)譲少佐から、
五十鈴に乗り込んでいた元皇族の
某少尉の成績が芳しくないということで
相談に来ました。

 兵学校や練習艦での成績は優秀となって
いましたが、侯爵に気兼ねした成績となって
いたようでした。実松少佐は、この成績に、
手直しせずに海軍省に送っていいか、
相談しに来たものでした。

 山口少将は、そのままの成績を報告
するように命じています。皇族出身だからと
いって容赦することはありませんでした。

 まもなく、実松少佐が戻ってきて、
司令官からどうにかならないかと言われ、
再び相談に来ました。

 山口少将は、少尉を艦長室に呼び、
海軍士官としての心得について語って
聞かせました。山口少将は、権威に
おもねらないという態度を終始続けて
おり、人柄が出ている話でした。


 五十鈴には、後の海軍に影響を与えた
人物が乗艦していました。砲術長の堀内
豊秋(とよあき)少佐でした。堀内少佐は、
砲術長として着任するなり、独特の体操を
持ち込みました。

 これまで五十鈴では、乗員総員が行進
ラッパにあわせてラジオ体操をしていました。
しかし、堀内少佐は、ラジオ体操とは違う
独自で改良した体操を行うようにしていました。

(追記)
 ラジオ体操は、1925年にニューヨークの
メトロポリタン生命保険会社が始めたものを、
同じ年に逓信省簡易保険局によって日本に
紹介されました。

 1928年に、簡易保険局を中心に、日本
放送協会、文部省などの協力のもとに、
ラジオ体操第一を制定し、11月から
放送が始まっています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 航空機開発の歩み [山口多聞]

 日本海軍黎明期の艦上攻撃機には、
国内初の空母鳳翔へ発着艦した三菱
10式艦上戦闘機や、同式の艦上偵察機、
三菱13式艦上攻撃機がありました。

 違うメーカとして、中島三式艦上戦闘機、
中島90式艦上戦闘機、中島95式艦上
戦闘機などがありました。

 三菱製は、イギリスのソッピース社から
招聘したハーバード・スミス技師が設計
したもので、いずれも木製でした。

 10式は1923年から実戦配備されました。
13式は、3人乗りの魚雷攻撃も出来る機体で、
1924年から生産されています。

 中島三式は、イギリスの艦上戦闘機を
ベースにしたもので、日本最後の木製
骨組みの機体でした。

 上海事変で初陣を飾り、艦上機として
最初の実戦を体験しています。この機体を
上海まで運んだ空母は加賀でした。この
機体は440機生産されています。

 中島90式は、外国機を参考にした
始めての国産技術で生産した高性能の
戦闘機で、発動機にエンジンカバーを
取り付け、艦上戦闘機として始めて
金属製プロペラを使っていました。
約100機生産されています。

 これらの複葉機が終焉を迎えたのは
三菱96式艦上戦闘機でした。全金属製の
単葉機で、最大速度は434kmに達しまし、
それまでの常識を覆す戦闘機でした。

 1935年に試作機の飛行が行われ、翌年から
生産に入っています。この機体は日中戦争初期に
活躍した名機となりました。

 設計したのは後に零式艦上戦闘機を設計した
堀越二郎氏でした。零式艦上攻撃機は、
96式をベースに作られています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 赤城でも思い出 [山口多聞]

 山口少将は、山本長官が赤城艦長を
つとめていた時に、赤城に乗り込んだ
ことがありました。

 この時、広島湾で訓練中の、横須賀から
空輸されてくる艦上攻撃機を、直接甲板上で
受け取ることになっていました。

 この当時、軍令部参謀だった山口少将は、
赤城を訪れ着艦訓練の見学にやってきて
いました。この時、艦上は、強風が吹いて
いました。

 空母は、飛行機が着艦する時には速度を上げ、
艦尾から降下してくる飛行機の負担を軽くする
ようにしています。リレー競技で、バトンタッチ前に
助走するのと似ています。

 艦は大きく揺れていました。このため、低空で
進入してきた飛行機は、なかなか着艦姿勢が
とれず、やり直しのため途中から上昇しました。
これを何度か繰り返した後、一機が意を決して、
進入して来ました。

 飛行機が着艦したのは、甲板の中央部で、
ずるずると艦首の方に向かっていきました。
このままでは甲板から海上に落ちてしまうことに
なります。これを見た山本長官が走り出し、
飛行機の尾翼につかまり止めようとしました。

 参謀が、「艦長、おやめ下さい。」と叫びました。
見かねた山口少将も反射的に駆け出していました。
胴体にしがみつき、綱引きでひかれるように
足をばたつかせながら、それでも踏ん張りました。

 搭乗員や、整備員がやってきて、主翼や尾翼の
水平翼に抱きつき、飛行機を止めました。山口
少将は、山本長官が、空母に乗ることを勧めた時、
このことを思い出していました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 五十鈴艦長就任 [山口多聞]

 山口少将は、2年間のアメリカ滞在中、
青春時代を過ごしたクラスメイトと一緒に
カナダや東海岸北部の港湾都市を
巡りました。

 さらに、メキシコやパナマなどの中南米にも
足を延ばしました。1936年8月18日、帰朝
命令を受けました。

 帰国後に命じられた配属先は、軽巡洋艦
五十鈴の艦長で、12月1日付でした。同じ日、
山本五十六中将は、海軍次官に抜擢されました。

 山口少将は、山本長官に挨拶するために、
海軍省を訪れ中庭に面した次官室に入り
ました。山口少将は、帰朝報告と「次官就任
おめでとうございます。」と挨拶しました。

 しかし、山本長官からは、「めでたいもんか。
米内さん(この時の連合艦隊司令長官)の
元で働きたかった。」と返答してきました。
その上で、山口少将に椅子を勧めました。

 そして、「もう53歳なので、いつ予備役に
入ってもおかしくない。せめて残された海軍
軍人としての生活を艦上で送りたい。」として
います。山口少将が、「戦艦ですか。」と
尋ねると、空母だとしています。

 山本長官は、「飛行機の進歩には目を
見張るものがある。自分が、赤城の艦長を
していた時は、木製の複葉機だったのが、
今は金属製の単葉機だ。」としています。

 そして、山本長官は、「君は水雷が専門
だが、いずれは空母に乗ってもらう。」として
います。

 それに対し、山口少将は、「山本長官は、
五十鈴の後赤城でした。私もそのつもりで
います。」と返答し、山本長官をうなずかせて
います。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 アメリカの国力 [山口多聞]

 1935年10月、在英日本大使館附武官を
務めていた、山口少将と同期で主席の
岡新大佐が、イギリスからの帰りに山口
少将のところに立ち寄ってきました。

 山口少将は、アメリカに来た同期に対し、
案内する旨を伝えました。これに対し、
岡大佐は、アメリカは大体回っているので、
経済発展著しいカナダを見てみたいという
希望を出してきました。

 山口少将は、ナイアガラに案内することに
しました。10月10日早朝、2人は慌しく車に
乗り込み、ドライブを楽しみながら、その日の
夕刻には、カナダとの国境のナイアガラに
たどり着いています。

 2人は、カナダに通じる橋を渡り、テラスの
ような展望台から、大瀑布の雄大な光景を
見やりました。

 翌日、山口少将は、妻の孝子氏に当てた
ポストカードに、カナダのオタワに車で
向かったこと、一日740kmも走ったことを
記しています。

 山口少将は、アメリカの広さと、急速に
発展しているモータリゼーション社会を
実感すると同時に、基盤整備、工業
生産力、高速交通網、どれをとっても
日本がかなうものはないと思われました。

 大恐慌も、ニューディール政策で持ち
直しており、倒れてもすぐに回復する底力が
ありました。

 一方で、矛盾もはらんでいました。極端な
貧富の差、黒人や黄色人種に対する差別。
日本人排斥運動の陰にある根強い人種
差別がありました。

 山口少将は、一介の日本人としてレストランに
入った時に、東洋人を蔑視する冷たい視線を
感じました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 交渉決裂 [山口多聞]

 山口少将は、山本長官に、「ロンドンでの
小千谷談判がうまくいきますように、後武運を
お祈りします。」と声援を送っています。

 山本長官率いる全権団は、ロンドンに向かい
ました。しかし、ロンドンでの予備交渉は不調に
終わりました。

 アメリカの全権は、満期を迎えるワシントン・
ロンドン軍縮条約を、再度同じ条件で延長
しようと主張し、日本側は、主権対等の原則
から、保有兵力量の共通最大限を定めた上で、
各国の現況に照らした保有量を決めるように
提案しました。

 イギリス全権は、妥協案を提示しましたが、
日米間の溝は深いままでした。アメリカ側は、
満州事変、上海事変、満州国建国を通して、
日本に対する不信感を募らせており、
予備交渉でも高圧的でした。

 12月19日に休会となり、10日後、
日本政府は、ワシントン条約廃棄を
アメリカ政府に通告しました。


 この頃、ワシントンに赴任した山口少将は、
武官補佐官や駐在員に司令を出し、アメリカ
海軍に関した最新の資料を集めさせました。

 情報活動には、アメリカ人のスパイも利用
しました。事務所には、資料が山積みされて
いました。

 1932年、アメリカ海軍は、ヤーネル提督
率いる航空母艦部隊が、真珠湾を奇襲する
という大演習を行いました。その結果、理論的
には、陸上基地の飛行機や湾内に停泊している
艦船のほとんどを撃沈できることが分かりました。

 この資料が日本に渡り、山本長官や参謀に、
ハワイ奇襲作戦の自信を与える材料となりました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 河井継之助 [山口多聞]

 山口少将は、山本五十六長官を
学ぶべき武人としていたのは、
いつの頃からか、ナポレオンに
傾倒していたことと関係が
あります。

 山本長官が、先生といっている
河井継之助が、ナポレオンを思わせる
戦術を駆使していたという話を聞いたから
でした。

 河井継之助は、幕末に越後長岡藩の
上級家老を務めていた人物です。戊辰
戦争の時、局外中立を保とうとしました。

 1868年5月2日、新政府の置かれた
小千谷の慈眼寺で岩村総監と談判して、
長岡藩の中立を申し出ましたが、一蹴
されました。

 山本長官が、「河井継之助先生の
心境だよ。小千谷談判に赴いた先生の
気持ちで臨まないな。」という言葉は、
このことを指しています。

 局外中立が受け入れられなかったことで、
新政府軍と戦う決意をした河井継之助は、
総督として陣頭指揮を執りました。長岡藩は、
最新式のガトリング機関砲などで善戦しました。

 河井継之助は、ナポレオンを思わせ戦術で
敵を翻弄し、自身もガトリング機関砲を操作して
いたという話も伝わっています。しかし、この戦場で
負傷し、この傷がもとで、死没しています。

 河井継之助の号は、「蒼龍窟」といい、「一忍を
もって百勇を支え、一静をもって百動を制す。」を
座右の銘としていました。この金言は、多くの人達に
尊ばれました。山本長官も尊んだと思われます。

 山口少将は、山本長官から聞いた河井継之助の
話は、興味深かったようです。そして、自分が
学ぶべき武人は、目の前にいる山本五十六
長官だと感じたようでした。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 再びワシントンに [山口多聞]

 山口少将は、1934年8月中旬、
ワシントンに着任しました。

 9月7日、山本五十六少将は、第二次
ロンドン軍縮会議の予備交渉の日本代表を
命じられ、20日に離日しました。

 ロンドン軍縮条約の有効期限は、5年間であり、
期限満了の1年前に予備交渉をしてから、
第二次ロンドン会議が開かれる手はずと
なっていました。山本長官は、ワシントンに
立ち寄り、山口少将と会っています。

 山口少将が、「今回は厳しい交渉になり
そうですね。」というと、山本長官は、「河井
継之助先生の心境だよ。

 小千谷談判に赴いた先生の気持ちで
臨まないな。」と、自分の同郷で、幕末に
家老を勤めた人物を引き合いに、
返事しています。

 山口少将は、山本五十六長官を
学ぶべき武人としていました。しかし、
酒好きな山口少将に対して、山本長官は、
下戸でした。

 山本長官は、酒豪のような顔立ちですが、
アルコール過敏症のため、酒類は一切
受け付けられませんでした。

 代わりに無類の煙草好きで、チェリーを、
1日30本ほど吸っていました。葉巻は、山本長官の
トレードマークのひとつでした。この日も、アメリカ製の
高級葉巻を、うまそうにふかしていました。

 山本長官からは、気分転換に部下をニューヨークに
連れて行き、ヤンキースの試合でも見に行くことを
勧めています。この当時、ホームラン王ベーブルース
らが活躍しており、大スターを抱かえての全盛期を
迎えていました。

 山口少将が赴任したこの年の11月に、全日本
チームと全米大リーグの選抜チームが日本で
試合をしており、日本は、16試合全敗となって
います。

 野球のレベルの差が、日米のスケールの違いを
如実物語っていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
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山口多聞 満州国 [山口多聞]

 満州国は、1932年に成立して
いましたが、山口少将が満州国を
訪れた1934年3月に、帝政を敷き、
溥儀が皇帝に就任していました。

 首都が置かれた長春は新京と
改められていました。満州鉄道で
新京を訪れた山口少将は、関東軍が
この新興国を牛耳っているのが、
良く分かりました。

 満州事変の首謀者の一人、関東軍の
石原莞爾作戦参謀は、満州から去って
おり、仙台歩兵第四連隊長をしていました。

 同じく満州事変を画策したといわれる
板垣征四郎参謀長は、満州国執政顧問や、
軍政部最高顧問、関東軍参謀長を歴任して、
隠然たる力を持っていました。

 山口少将は、満州国をつぶさに視察し、
問題の深さを悟りました。「アメリカは満州国を
否定しているが、関東軍は手放すことは
ありえない。この溝だけは、決して埋まる
ことはない。」と日米関係の前途は険しいと
感じました。

 満州国から帰還した山口少将は、7月19日、
日本郵船の氷川丸で横浜港を発ちました。

(追記)
 氷川丸は、1930年に、北米航路に就航した
豪華客船です。1932年に来日したチャップリンは、
帰路氷川丸に乗って太平洋を横断しています。

 戦時中は、海軍に徴用され病院船に改造
されました。煙突や両舷に赤十字のマークを
つけた氷川丸は主として南方で戦傷病者の
収容と治療に当たりました。戦後は復員船と
しても働いています。

 1953年、再び客船に改造され、1960年に
引退後、現在は、横浜の山下公園前に係留され
一般公開されています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 再婚 [山口多聞]

 1934年の年が開け、おそと気分も
抜け切らない中、山口少将は、華燭の
典をあげました。

 初婚と同様に海軍大臣宛に結婚願を
提出し、認許という手続きを踏んでの
結婚でした。

 再婚相手は、四竈仁邇(しかまじんじ)氏の
三女の孝子氏でした。四竈仁邇氏は宮城県
出身の教育家で、県盲啞学校長を務めて
いました。口添えをしたのは、山本五十六
長官でした。

 山本長官自信、四竈家の仲人を受けて
結婚しており、この縁で、孝子氏を山口少将に
紹介していました。

 四竈仁邇氏は、4人の娘がおり、全員
職業軍人に嫁いでいます。山本長官自身、
才媛の孝子氏を気に入っており、大学に
進むよう勧めています。

 山口少将42歳、孝子氏28歳で、前妻敏子氏
より3歳年下でした。そして、山口少将が新婚
生活に慣れかけた5月6日、父の宗義氏が
死去しました。

 新婚から半年ほどたった6月1日に、
山口少将は、在米大使館附武官に補され
ました。半年足らずの新婚生活に別れを
告げて、アメリカに行くことになりました。

 この当時、アメリカとの関係は、満州事変で
悪化していました。山口少将は、アメリカに
渡る前、中国と満州国の現況を視察する
ように命じられました。

 上海に降り立った山口少将は、第一次
上海事変の痕跡が残りながら近代的な
ビルが林立し、国際都市として活況を
呈していました。

 北平(ペーピン。北京のこと)は猛暑
でした。蒋介石率いる南京国民政府が
10年間だけ、北平と呼んでおり、日本も
倣っていました。


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著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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