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山口多聞 海軍兵学校 [山口多聞]

 1909年3月、山口少将は、開成中学を
卒業しました。山口少将は、開成中学時代、
海軍兵学校を受験していましたが、眼の
検査で引っかかり、落とされています。

 山口少将は、4月4日、兄弟に贈った
手紙に、「今一度、海軍軍医に見てもらい、
駄目なら一高を受けます。僕はどうしても
海軍に入れない時は、外交官になるつもり
です。未来の東郷になる。でなければ、
ビスマルクになるつもりです。」としています。

 この後、山口少将は、見事海軍兵学校に
合格し、ビスマルクではなく、東郷を目指す
ことになりました。兵学校での席次は21番
でした。

 兵学校では、鉄拳をふるう荒々しい学年が
数年おきに現れます。山口少将が入学した
40期は、突出して猛者が多く、同期の大西
瀧治郎氏と肝胆相照らす仲となりました。

 同期は他に、宇垣纏や福留繁らがいました。
なお、ミッドウェー海戦で、山口少将と運命を
ともにした飛龍の加来艦長は、2期下の
42期でした。

 山口少将は、1912年7月17日に海軍
兵学校を2番で卒業しました。上位4人は、
恩賜の短剣を授与され、山口少将も受け
取っています。

 しかし、卒業間もない7月30日、明治天皇が
崩御し、大正に年号が変わりました。

(追記)
 山口少将が卒業した40期の主席は、岡新
(おか あらた)中将です。総力戦研究所での
活躍が知られています。所長も勤めています。

 総力戦研究所では、アメリカとの戦争について、
長期戦は避けられず、国力が耐えられない。
末期にはソ連も参戦し、敗北は避けられない
という、正確な分析をしています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 海軍へ進む決意 [山口多聞]

 開成中学は、「ペンケン」の通称で知られる
校章があります。ペンケンとは、「ペンは剣より
強し」の格言を図案化したもので、伝統や
学術を愛する英国風の堅実な校風を
象徴していました。

 山口少将が、入学した時の開成中学は、
陸軍士官学校に進む生徒が多く、海軍
兵学校の予備校のようになっていた
攻玉社中学とは、ライバル関係に
ありました。

 開成中学は、規律は陸軍式でしたが、
創設以来の伝統で、英語教育に力が
入れられ、国際人としての素養を
身につけることができました。

 開成中学に入った山口少将が、
海軍に進んだのは、日本海海戦が
きっかけでした。

 国内で、戦勝を祝う提灯行列が
くりひろげられ、山口少将も提灯の
波に呑まれながら、宮城前広場
(皇居外苑)まで歩きました。

 外苑の一角には、楠木正成の銅像が
聳えており、宙を駆け出しそうな躍動感で、
見る者に迫っていました。

 山口少将は、この像を何度も見ていましたが、
この時に武人として生きることを決意し、海軍に
進む意志を固めました。

(追記)
 山口少将は、開成中学時代、級友たちから、
気に入らない教師を困らせるために、当案に
○だけかいて提出しようと誘われました。
山口少将は了承しました。

 しかし、級友は、いざ試験が始まると、
一心不乱に問題を解いていました。山口
少将は、口先だけで信義を守らない人間は
許せないと考えました。

 そして、当案に大きな丸をかいて用紙を置き、
訝る教師の視線を尻目に平然と退出しました。
この一件で、級友の人望を集めることになりました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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