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山口多聞 草鹿参謀との図上演習 [山口多聞]

 草鹿参謀が戦後に書いた手記に、山口少将と
卒業前に大規模の兵棋演習と図上演習を
行った時のことを記しています。

 この時、山口少将が青軍指揮官(味方)、草鹿
参謀が赤軍指揮官(敵軍)として行っています。
結果は、どちらも、草鹿参謀の方が有利となった
としています。しかし、意表をつくようなことをして
いたので評判は芳しくなかったとしています。

 海軍大学校を終了するまでの2年間、山口
少将は、夫婦水入らずの時間を過ごしました。
愛妻がこしらえてくれる手料理をたいらげ、
体は丸くなりました。幸せ太りであり、
同時に精神的にも丸くなっていました。

 1925年4月3日、長女が誕生しました。山口
少将は、愛妻家として知られていますが、長女
誕生以降は、子煩悩も加わりました。翌年の
8月23日には、長男も生れています。

 この年の12月1日に、海軍大学校を優等で
卒業した山口少将は、第一潜水戦隊参謀と
なっています。

(追記)
 著者の松田氏は、上記の図上演について、
これだけではどのような海戦を想定したもの
なのか分からないし、本当に草鹿参謀が
勝ったのかは知るよしもないとしています。

 しかし、戦後に書いた手記ということを
考えれば、ミッドウェー海戦のことを意識して
いないわけはなく、これはずるい記述では
ないかとしています。個人的に同意見です。

 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦のことを
考えると、草鹿参謀が有能な戦術家とは
到底思えません。

 図上演習は、机上の空論と化したものも
少なくないとしており、机上理論では、
草鹿参謀の方が有利だったという
ことだと思います。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 海軍大学校 [山口多聞]

 1924年12月1日、山口少将は、少佐に
昇任し、同日付で海軍大学校第24期甲種
学生となりました。

 海軍大学校は、1888年に東京の築地に
建てられ、後に目黒に移転しました。他の
術科学校と異なり、選抜された士官に
少数精鋭主義で、高度な学術を与える
海軍戦術の最高学府でした。

 日露戦争で連合艦隊司令部参謀を務めた
秋山真之中佐が、海戦前に大学校の教官として
戦術研究を行い実戦に活かしています。のちに、
ハワイ作戦特別図上演習などの重要な作戦の
図上演習は、海軍大学校で行われました。

 山口少将が入学した甲種学生は、20人
でした。あるとき、嶋田繁太郎教官(後の
軍令部総長)が、「補助艦保有率を決める
軍縮会議に日本はいかなる案を持って
臨むべきか。」という課題を出してきました。

 山口少将は、7割を主張すべきとし、この時
入学していた草鹿龍之介大尉は、「海軍戦略
(アメリカの戦術家ハマンが記した著書)」を
引き合いに、同等でなければならないと
しました。

 嶋田教官は、答案が7割か同等のどちらかに
分かれていたのを見て、この2人で議論させる
ことにしました。この時の議論については、
草鹿参謀が戦後書いた手記で紹介して
います。

 この中で、我田引水ながら自分の方が理路
整然としていたが、議論はいつ決着するか果て
ないとしています。そして、嶋田教官が議論
中止を命じて、教官は8割で進めるべきと
なっていて、ずるいと感じた。としています。

 そして、この手記には、山口少将と図上
演習をしたときのことも記されていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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