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山口多聞 海軍潜水学校の教官兼分隊長 [山口多聞]

 この当時、海軍士官が結婚するには、
海軍大臣の許可が要りました。通常、
許可が下りるまでに、1週間~2週間
かかりました。山口少将は、10月30日に、
海軍大臣宛に「結婚届」を出しています。

 結婚相手は、才媛の誉れが高い河村善益氏の
5女敏子氏でした。河村氏は、旧前田加賀藩の
士族で、山口少将は、31歳、敏子氏は20歳
でした。

 長門で分隊長として勤務していた12月1日、
山口少将の元に、思いがけない辞令が来ました。
それは、どんがめ士官を育てる海軍潜水学校の
教官兼分隊長を命じるものでした。

 潜水学校は、第一次世界大戦後、潜水艦の
高い戦闘能力が認識されて、設けられました。
この当時の仮想敵国は、ロシアとアメリカでした。
この頃、日米開戦の未来小説などが売られて
いました。

 これは、アメリカでも同様で、日本との戦争を
予見する書物が広く読まれていました。日米
開戦となれば、広大な太平洋を深く静かに
潜行できる潜水艦の役割が大きくなると
考えられました。

 戦利品のUボートを日本から回航した山口
少将は、潜水艦の知識は豊富でしたが、戦艦
から潜水艦への移動となり、戸惑いがありました。

 1923年8月21日、第70号潜水艦が神戸
川崎造船所で公試運転中に沈没し、乗員
88人が殉職するという事故がありました。

 殉職者の内40人は、川崎造船所の社員と
工員でした。山口少将は、安全対策や乗員の
技能向上のために召集されたかたちでした。

 山口少将は、持ち前の熱血漢ぶりで乗員の
育成に努めましたが、1924年3月9日、第43号
潜水艦が佐世保港外で巡洋艦龍田と激突して
沈没し、重員45人が殉職するという事故が
発生しています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 ガンルーム [山口多聞]

 山口少将が乗り込んだ戦艦長門は、
1920年に呉工廠で完成した戦艦です。

 完成したのは山口少将が乗り込む3年前の
ことなので、新造艦と言えます。長門は、翌年に
完成した僚艦の陸奥とともに、日本海軍を
代表する大戦艦でした。

 軍艦には、艦長室のほかに、士官室、第一
士官次室、第二士官室、准士官室と呼ばれる
各室がありました。各室ごとに、調理室や浴室、
便所があり、食事や会議、休憩に使われました。

 第一士官次室は、ガンルームと呼ばれ、
中尉、少尉、少尉候補生が休憩したり、
食事をしたり、会議をする公室でした。

 ガンルームという呼称は、イギリス海軍に
倣った呼称と言われており、士官同士の
間で呼ばれていました。

 若い士官にとって、自由闊達、和気藹々と
過ごせるガンルーム時代は、艦上生活における
青春時代でした。

 分隊長になると、ガンルームは卒業となり、
副長や分隊長、各科の大尉以上がいる
士官室で過ごすことになります。

 山口少将が長門の着任した1923年9月1日、
関東大震災がありました。東京の下町を中心に、
関東一円に甚大な被害が出ました。東京市内
では火災が発生し、3日間に渡って燃え続け
ました。

 死者は6万人にも達したほか、流言蜚語に
よる朝鮮人虐殺という悲劇がありました。帝都
には戒厳令が敷かれ、海軍は、艦船を派遣し、
被災民の救出や搬送に当たりました。

 山口少将は、焼け野原になった東京の
下町を眺め、戦場を連想していました。
このような世情が騒然としている時に、
山口少将は、結婚しています。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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