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山口多聞 ワシントン海軍軍縮条約 [山口多聞]

 山口少将が、アメリカに駐在している時に、
ワシントン海軍軍縮条約が開催されました。

 これは、アメリカ大統領ハーディングの
提唱により実現したもので、軍縮と太平洋・
極東安全問題について、協議されることに
なりました。

 平和外交を掲げる原敬首相は、加藤友三郎
海軍大臣を全権大使にして、現地にいる幣原
大使は、全権委員となりました。会議は、
1921年11月12日に、第一回総会が
幕開けしました。

 アメリカ全権のヒューズ国務長官は、議長に
選出されるなり、自国の軍縮案をぶち上げて、
会場をあっと言わせました。

 ヒューズは、主力艦の現有勢力を、アメリカと
イギリス50万トン、日本30万トン、フランスと
イタリアが16.7トンと決定しました。

 空母も同様の比率で制限されましたが、
補助艦は協定が成立せず、ロンドン軍縮
会議に持ち越しとなりました。

 各国は建造中のものも含めて、65隻
180万トンの戦艦を廃棄し、10年間は、
代艦建造をしないことを確約しました。

 日本は、17隻を廃棄し、日露戦争の
旗艦三笠は除籍となり、陸奥は残った
ものの、戦艦6隻は建造中止となりました。

(追記)
 ワシントン海軍軍縮条約は、よく日本に
不利な条約として聞かされますが、客観的に
見れば、不利とはいえない内容といえます。

 この当時の日本の国力を考えれば、
イギリスやアメリカと張り合うこと自体が
ナンセンスといえます。

 仮に、経済力が同格でも、アメリカは、
東海岸と西海岸の防衛が必要なので、
太平洋側は半分となります。イギリスは、
世界中に植民地があるので、太平洋だけに
集中することは出来ませんでした。

 こう考えると、アメリカか、イギリスと友好
関係を築いている限りにおいて、30万トンの
制限は問題にならないといえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 プリンストン大学 [山口多聞]

 石油を頼っている日本が、アメリカとの
関係を悪化させることはできないと考えて
いましたが、アメリカではカリフォルニア州で、
日本人移民の排斥運動が広がり、日米
関係に暗い影を落としていました。

 1921年5月に、山本長官が帰朝命令を
受け、ワシントンを去ると、山口少将は、
国情視察とプリンストン大学での語学
研修を目的にするようになりました。

 プリンストン大学は、イギリス植民地化の
1746年に創設され、ハーバード、イェール、
コロンビアなどとともに、アイビーリーグ
(東部私立大学8校で結成されたもの)を
代表する名門でした。

 公園のような広大なキャンパスには、
ロンドン塔やウェストミンスター寺院に似た
大学の建物が点在し、世界で最も美しい
大学のひとつと称されていました。

 この大学を訪れた山口少将は、この威容に
度肝を抜かれました。プリンストンは、学生街
ですが、学生向けアパートは少なく、山口
少将は、20代の青年に交じって寄宿舎
生活を送りました。

 アメリカ人は、スポーツ好きで、ユーモアに
あふれ、自主独立の精神がありました。
教授陣や学生のレベルも高く、学生の個性を
重んじる自由な気風もありました。

 山口少将は、大学の窓を通して、アメリカの
パワーの源を見る思いでした。

(追記)
 アメリカは、時たま上記のようなことを
起こして、国民感情を悪化させることが
あります。これが、戦争のトリガーの一つとも
言われているので、無視できない事例と
いえます。

 しかしながら、国家は、その国にいる国民の
ものというのは大原則であり、国民が恐怖を
感じれば、上記のようなことを引き起こすことが
あるといえいます。

 自分の国家を持つことの重要性を認識すべき
事例ともいえます。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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