SSブログ

巡洋艦大淀 便乗船筥崎丸 [巡洋艦大淀]

 5日ほどたったころ、小淵氏は、班長に 呼ばれました。准士官室に従兵に行く ようにということでした。  そこは、兵曹長に任官した人達が教育を 受けている居住室で、食事の用意や雑用をす る者が4人いました。  小淵氏が加わり5人となった状態で、 約百名の准士官の食事を用意することに なりました。だいぶ忙しくなりましたが、 食事は、准士官並みとなりました。  小淵氏は、時々、補充分隊に行き、 呼び出しがないか確認しましたが、 ありませんでした。その際、補充分隊は、 訪れるたびに班長が代わっており、 慌ただしく、落ち着きのない分隊だと 感じていました。  銃兵になってから20日ほど経った頃、 班長が呼んでいるという使いの者が きました。大急ぎで行ってみると、 「大淀乗組の呼び出しがあったから、 すぐ用意して出発しなさい。」ということ でした。他の艦の乗組員も次々に 呼び出されました。  小淵氏は、すぐ身の回りの物をまとめて、 荷造りし、衣嚢をかついで、便乗者用の 桟橋に駆けつけました。便乗する船は、 筥崎丸(はこざきまる)という1万tほどの 輸送船で、戦前は欧州航路に就航 していたものでした。  最大速度17ノットということでしたが、 かなりの老朽の貨物船でした。翌日、 便乗者は、全員で物資の搭載作業が 命じられ、食糧や種々の物資が積み 込まれました。さらに次の日も、搭載 作業が続けられました。  筥崎丸の便乗者は、ほとんどが トラック島行きで、そこで艦船に 乗り組む者や、基地に勤務する 者たちでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 大淀とは? [巡洋艦大淀]

 お別れ会は、全国から集まっている 普通科練習兵の特徴が出て、それぞれの 地方の民謡や地域色豊かな詩などが 飛び出し、なごやかなお別れ会と なりました。  翌朝、本部前に衣嚢をかついで 集合した小淵氏らは、各鎮守府ごとに 出発していきました。  巣立つ練習性は、「元気なあ、 頑張れよ。」「病気するんじゃないぞ。」 「張り切っていこうぜ」などと、励まし合い、 新たな任務へ向けて羽ばたいていきました。  小淵氏は、同じく横須賀鎮守府に 配属になる30数名と一緒に、一番 後から校門を出ました。これから横一団に 仮入団して、任地行きの便を待つことに なっていました。  横一団の補充分隊は、任地行きの 便を待つ下士官や兵で一杯でした。 そこへ入った小淵氏らは、それぞれの 班に分散されました。  この補充分隊は、各班がそれぞれの 作業班となり、防空壕掘りなどをして いました。  噂によれば、連合艦隊の主力は、 トラック島に集結しているいう話でした。 そして、小淵氏が乗る大淀は、最新鋭の 軽巡洋艦であるということも、はじめて 知りました。  大淀のことはあまり知られておらず、 重巡洋艦ではないかという下士官が いたほどでした。待っている人に、 大淀乗組を命じられたものがいないか 捜してみましたが、誰もいませんでした。  この分隊は、種々の兵科が一緒なので、 雑然とごった返していました。そして、毎日 呼び出しがあり、任地域の便乗車が出て いくと、教育を終えた新兵が入れ代わりに 入ってきたりで、引きも切りませんでした。  小淵氏は、この分隊でしばらく待たされる ことになりました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 特第一期練習生の卒業 [巡洋艦大淀]

 上等水兵に昇進する頃には、誰も精悍な 顔つきになり、3歳も4歳も老けてみえました。  日中の激しい訓練で日焼けした顔には、 15~6歳の幼い面影など、微塵もなくなって いました。  ある日のこと、分隊士が全員を集めて、 「お前たちは、一人もタバコを吸わない ようだが、吸いたくないのか。」と不思議 そうに訊いてきました。全員、「吸いたく ありません。」と答えると、「我慢できるのか」と 訊いてきました。  我慢できますと答えると、「吸わない方が 良い。我慢しろよ。」と言ってきました。 分隊士は、小淵氏らが未成年であることを 忘れていたようでした。  1943年11月15日、特第一期練習生の 卒業となりました。一緒に入校した仲間に、 対空班が一個分隊あるので、総員400余名の 卒業式となりました。  式後、兵舎に帰って着替えを済ませると、 居住区や講堂の大掃除をはじめました。 3ヶ月半居住していた校舎に別離の時が 来ました。立つ鳥あとをにごさずでした。  小淵氏は、10月末に、どの艦に乗るか 艦首調査があり、鈍重な戦艦より、敏捷な 軍艦のほうが素晴らしいと感じ、巡洋艦を 希望していました。  実際、戦艦や巡洋艦を希望したものは、 多かったようでした。小淵氏は、希望通り 巡洋艦の大淀に乗組が決まりました。これは 運が良く、半数以上は希望の艦種に なりませんでした。  夕食後、吊床降ろしの時間まで、お別れ会が 開かれました。明日は、それぞれ所属する鎮守府の 海兵団に返って行くことになっていました。教卓に 菓子が並べられました(酒は、未成年なので 許可されませんでした)。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 射撃訓練 [巡洋艦大淀]

 砲術学校では、専門分野の訓練や講義 だけでなく、陸戦訓練もかなり多く行われ ました。  水兵科でも、特に砲術関係者は、戦闘 分隊と呼ばれているように、あらゆる戦闘の 役に立つ兵員になる必要がありました。  砲術学校には、東京湾に面した広大な 練兵場があり、そこでの陸戦訓練は、 海兵団とは比較にならない高度なもの でした。  今まで手にしたことのない軽機(軽機関銃) や重機(重機関銃)が各班に渡され、 それらの分解・組み立てなども、 修得しました。  演習中に、しばしば重機故障と、仮定の 命令が出されました。重機担当は、直ちに 分解して部品を点検し、異常の有無を 確かめてすぐ組み立てなければ なりませんでした。  間違ったり、まごつくと、班長の指揮棒が 背に降り注ぎました。それを気にすると、 ますます慌て、なかなか組み立てられなく なります。  重機ともなると、何10個もの小さな部品が あり、戦闘中なのだから、短時間で故障を 治す必要がありました。そのため、分解組立は、 すばやく確実に行う必要がありました。  実弾射撃も数多く行われました。はじめは、 小銃の射撃で、海兵団でも何度かやって いました。次にピストル、軽機、重機、 擲弾筒などの実射も行われました。  こうして陸戦関係の兵器は、ほとんど 取り扱えるようになりました。8月~10月まで 砲術学校で専門的な訓練を受けてきた 小淵氏らは、11月1日付で、上等水兵に 昇進しました。  海兵団で鍛え上げられてきたので、病気 入院や事故者もいませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 兵の掟 [巡洋艦大淀]

 海上での測的訓練は、午後から始まり 時間いっぱい続けられました。  やっと終わって艇着場に帰ってきた時は、 重病人のようにふらふらしていました。陸に 上がっても、大地が揺れているようで、 船酔いは、なかなか納まりませんでした。  この日の夕食後、測的担当の教班長から 全員に整列がかけられました。そして、 「今日の測的訓練は何事だ。誰一人として 満足な距離を測り出した者がいない。  海が荒れたとしても、戦争は、休みに ならないのだぞ。」と激しく叱責しました。 そして、分隊員一人ひとりを中央に呼び 出され、精神棒による制裁を続けました。  いかなる状況にあっても、各自の職務を 果たさなければ、ならないのが、兵の掟でした。 ましてや、特技を修得中の練習兵が、少しぐらい 海が荒れたからと言って、測距ができない ようでは、「物に役に立たない」と、小淵氏らに 大いに奮起を、うながしたとしています。 (追記)  現代の感覚ではありますが、上記の話で 奮起をうながせるとは到底考えられません。  前回の訓練の話を見ても、すこしぐらいの 揺れとは言えず、測定不可能な状況だったと 言えます。この状況を精神的に乗り切れと 言っているようなものであり、非科学的な 発想といえます。  少し前に紹介した「鬼の山城」など、訓練の 厳しさを唄ったものですが、日本の戦艦は 一部を除いて、ほぼ戦果はなく、精神鍛錬に 意味があったとは考えられません。  このような話は、日本軍には多数存在して おり、このような話を聞くたびに、日本軍の 強さに疑問を持ちます。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 海上での測距訓練 [巡洋艦大淀]

 小淵氏らは、測距儀を2mくらいの 大きさのものを使用して、勝力崎にある 測距訓練所で、取り扱い方法や、測的の 初歩を習いました。  (測距儀は、大きい方が正確に測定 できます。戦艦は、10mという測距儀を 搭載しています)。  やがて、海上での測的訓練が始められ ました。小型の艇に、測距儀を取り付けて、 東京湾に乗り出し、目標を指定されて 訓練しました。こうして、測的訓練も 上達していきました。  ある日、台風の余波で東京湾はだいぶ 波が高い状態でした。測的距艇で乗り出した 幹部班は、目標を指定され測定をはじめ ました。しかし、大揺れに揺れる測距艇の 上では、目標を捕捉することさえ困難でした。  大部分の者が、船酔いでふらつき、半数 くらいは、こっそり嘔吐していました。順番で 測距儀に取り付いても、横揺れや縦揺れで、 指示された目標が視野に納まりませんでした。  目標物も上下左右に動きまわりました。これを 追いかけていると、目まいがしてきて、胸が むかついてきました。瞬間的に視野に入った 目標を大急ぎで測り出し、、その距離を記録係に 読みとってもらいましたが、ここまでできた者も わずかでした。  目標を視野に入れることもできないうちに、 測的の持ち時間が、なくなり、交代の号令が かかっていました。二度目、三度目と順番が 来るたびに、今度こそはと意気込んで 測距儀にしがみつきました。  しかし、激しくつきあげてくる嘔吐をこらえるのと、 闇の中に突き落とされていくようなめまいのため、 測定した距離は、各自まちまちの数字が記録 されることになりました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 測距 [巡洋艦大淀]

 砲塔は、射手盤と旋回盤の赤針と白針を 重ねておけば、同じように目標に向けることが できます。  これに、距離、風向、風速、艦の速度、地球の 自転による偏差など、あらゆるデータが計算され、 砲塔の射手盤と旋回盤の赤針に加えられます。  測的術幹部班は、別名電気幹部と言われる ほど、取り扱う兵器は、電気系統が非常に複雑に 入り組んだものでした。この電路をたどるのが、 重要な教課となっていました。  しかし、実物を知らない小淵氏らは、この 系統を呑み込む事ができませんでした。 電路図に画かれた何十本もの線が、どこを 通ってどうなるのか、懸命に覚えようとしましたが、 射撃盤や方位盤は秘密兵器なので、つぶさに 知る事はできませんでした。  測距も、幹部班には重要な教課でした。 測距儀の原理は、動物が2つの眼によって、 見るものの遠近を知る方法の応用でした。左右の 眼球と、目標物は線で結ぶと三角形になります。  左右の眼を底辺とすると、目標の遠近に よって、視線の角度が変わってきます。この 角度の変化を、距離に当てはめたものが 測距儀でした。  測距儀は、細長い一本の筒の両端に、対物 レンズのある双眼鏡のようなもので、左の対物 レンズを固定し、右の対物レンズのみが左右の 角度を変えられるようになっていました。  測距儀は、視野は円形で、下半分が左眼、 上半分が右眼の視野となっています。距離が合わないと、 像がずれるので、ハンドルで調整して合わせます。これに より、距離を測定します。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 測的術幹部班 [巡洋艦大淀]

 その小野沢兵曹が、日曜日になって、 小淵氏に面会してきました。  当直舷で校内の作業中に呼び出しがあり、 行ってみると、面会所に小野沢兵曹がいました。 見た所、だいぶ日焼けしており、元気そうでした。 小野沢兵曹は、第二期練習兵の事務関係を 担当しているということを、聞いていました。  この情報をくれたのは、海兵団卒業間近に 胸膜炎にかかり入院した友人の戸谷一水 でした。戸谷一水は、1ヶ月くらいで退院し、 海兵団に残って、小野沢兵曹の一緒に 二期兵の世話をしていました。  小淵氏は、戸谷一水はどうしているか たずねると、数日前に電測学校に入校した ということでした。1時間の面会時間が終わり かけたので、「またくるからね。」と言い残して、 小野沢兵曹は、薄暗いトンネルの中に、 消えていきました。  小淵氏が所属している測的術幹部班という のは、軍艦の砲術系統を人間にたとえると、 神経系統に当たる部署となります。砲塔が 手足、測距儀や方位盤が眼、射撃盤が 頭脳に相当します。それらを結ぶ電気系統を 担当する部署でした。  方位盤や、射撃盤は、複雑な電路が入り 組んでいる兵器です。方位盤は、巨大な 双眼鏡で、双眼鏡が動くことで、射撃盤が 電気的に全ての事象を計算して、砲塔に 伝えました。  砲塔には、射手盤と旋回盤とがあり、その中に 赤針と白針があり、赤針は方位盤の動きを伝え、 射手盤の赤針は上下の傾角を示し、旋回盤の 赤針は、左右の動きを示します。  白針はハンドルを回すことによって動き、 ハンドルは砲を動かしていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 戦艦山城の見学 [巡洋艦大淀]

 入校して1ヶ月ばかりが過ぎた頃、 戦艦山城の見学がありました。  山城は、すぐ裏手の山を超えた岸壁に 繋留しており、砲術学校の練習艦として 使用していました。しかし、山城は現役の 戦艦なので、小淵氏ら練習兵が山城で 実習する事はできませんでした。  小淵氏は、巨大な浮城である山城を 目の当たりにして、その偉容に驚嘆しました。 海兵団時代に実習した春日とは、比較に なりませんでした。  艦内は、隅々まで手入れが行き届いて おり、光り輝いていました。丁度、高等科の 練習兵が実習中で、36cm主砲が仮想敵を 求めてぐるぐると動いていました。  小淵氏は、幹部班の関係する射撃指揮所、 艦橋、測距塔、発令所等の艦内配置を 見学して回りました。しかし、艦内は複雑で、 1日くらいの見学では、どこがどうなっているのか 分からず、艦内配置を覚え込むということは できませんでした。  小淵氏は、小野沢兵曹が、山城に転勤する という話を聞いて、危惧していました。小野沢 兵曹は、病気をしており、小淵氏がこの話を 聞いた5月頃は、まだ完治していませんでした。  艦務の厳しさ、特に戦艦は、各艦ごとに形容 された言葉があり、山城は、「鬼の山城」と評判に なるほど、厳しいことがよく知られていました。 小淵氏は、小野沢兵曹が、その山城に行くと 聞いて、悲しさのあまり言葉もなかったとして います。 (追記)  各戦艦を形容した言葉は以下の通りです。  鬼の山城、地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門。 日向行こうか、伊勢行こか、いっそ海兵団で首吊ろか。 地獄榛名に鬼金剛、羅刹霧島、夜叉比叡。 乗るな山城 鬼より恐い。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 術科学校の勉強 [巡洋艦大淀]

 海兵団入団当初、小淵氏は、出身県による 言葉使いやなまり、気風の違いに戸惑い ましたが、横須賀海軍砲術学校は、一層 はなはだしく、容易に解け合いそうに ありませんでした。  そのため、しばらくは、鎮守府別の対抗意識が はびこっていました。しかし、それも、同年代の 志を同じくする者であると理解してからは、 兄弟以上の親しい間柄になっていきました。  海兵団教育時に、術科学校の厳しさを 説かれてた小淵氏らは、皆が固い決意を 持って、入校してきていましたが、思った ほどの厳しさではありませんでした。  それは、この学校では、主として専門的な 教科が多く、渡される教科書は、赤い表紙の 機密書類で、ほとんどが軍事秘と印がされて おり、課業はじめの時に渡され、終わった時に 回収されたため、吊床で勉強することは できませんでした。  機密でない教科はそれほど勉強する必要は なく、厳しい勉強ではありませんでした。  砲術学校でも、横須賀市内に各班ごとの 下宿が指定されました。まだ一等水兵なので、 外泊は許されませんでしたが、外出時に 下宿で昼食が用意されました。  小淵氏がいる5班は、海軍工廠に勤める 渡辺さんという人の家が指定されました。 隔週の日曜日にその家に行き、すこし ばかり家族的な雰囲気を味わうことが できました。  さらに、山育ちの小淵氏は、この頃には、 山が恋しくなっていました。そのため、鎌倉の 山中を散策しながら、故郷では栗の実や 柿などが熟れる頃だろうと考えていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。