SSブログ

巡洋艦大淀 特第一期練習生の卒業 [巡洋艦大淀]

 上等水兵に昇進する頃には、誰も精悍な 顔つきになり、3歳も4歳も老けてみえました。  日中の激しい訓練で日焼けした顔には、 15~6歳の幼い面影など、微塵もなくなって いました。  ある日のこと、分隊士が全員を集めて、 「お前たちは、一人もタバコを吸わない ようだが、吸いたくないのか。」と不思議 そうに訊いてきました。全員、「吸いたく ありません。」と答えると、「我慢できるのか」と 訊いてきました。  我慢できますと答えると、「吸わない方が 良い。我慢しろよ。」と言ってきました。 分隊士は、小淵氏らが未成年であることを 忘れていたようでした。  1943年11月15日、特第一期練習生の 卒業となりました。一緒に入校した仲間に、 対空班が一個分隊あるので、総員400余名の 卒業式となりました。  式後、兵舎に帰って着替えを済ませると、 居住区や講堂の大掃除をはじめました。 3ヶ月半居住していた校舎に別離の時が 来ました。立つ鳥あとをにごさずでした。  小淵氏は、10月末に、どの艦に乗るか 艦首調査があり、鈍重な戦艦より、敏捷な 軍艦のほうが素晴らしいと感じ、巡洋艦を 希望していました。  実際、戦艦や巡洋艦を希望したものは、 多かったようでした。小淵氏は、希望通り 巡洋艦の大淀に乗組が決まりました。これは 運が良く、半数以上は希望の艦種に なりませんでした。  夕食後、吊床降ろしの時間まで、お別れ会が 開かれました。明日は、それぞれ所属する鎮守府の 海兵団に返って行くことになっていました。教卓に 菓子が並べられました(酒は、未成年なので 許可されませんでした)。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 射撃訓練 [巡洋艦大淀]

 砲術学校では、専門分野の訓練や講義 だけでなく、陸戦訓練もかなり多く行われ ました。  水兵科でも、特に砲術関係者は、戦闘 分隊と呼ばれているように、あらゆる戦闘の 役に立つ兵員になる必要がありました。  砲術学校には、東京湾に面した広大な 練兵場があり、そこでの陸戦訓練は、 海兵団とは比較にならない高度なもの でした。  今まで手にしたことのない軽機(軽機関銃) や重機(重機関銃)が各班に渡され、 それらの分解・組み立てなども、 修得しました。  演習中に、しばしば重機故障と、仮定の 命令が出されました。重機担当は、直ちに 分解して部品を点検し、異常の有無を 確かめてすぐ組み立てなければ なりませんでした。  間違ったり、まごつくと、班長の指揮棒が 背に降り注ぎました。それを気にすると、 ますます慌て、なかなか組み立てられなく なります。  重機ともなると、何10個もの小さな部品が あり、戦闘中なのだから、短時間で故障を 治す必要がありました。そのため、分解組立は、 すばやく確実に行う必要がありました。  実弾射撃も数多く行われました。はじめは、 小銃の射撃で、海兵団でも何度かやって いました。次にピストル、軽機、重機、 擲弾筒などの実射も行われました。  こうして陸戦関係の兵器は、ほとんど 取り扱えるようになりました。8月~10月まで 砲術学校で専門的な訓練を受けてきた 小淵氏らは、11月1日付で、上等水兵に 昇進しました。  海兵団で鍛え上げられてきたので、病気 入院や事故者もいませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。