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雪風の最期 [雪風]

 1947年7月1日、引渡しのために佐世保を出港し、上海に
向かっています。7月3日午前11時に上海へ入港しました。

 「みな、よくやってくれた。あすは日本に帰る。心ゆくまで
『雪風』との別れを惜しんでやって欲しい」という艦長の
訓示があり、君が代の吹奏とともに、艦尾の日章旗が
おろされ、中華民国の青天白日旗が掲揚されました。
日本の艦ではなくなったことで、泣き出していました。

 中華民国では、丹陽と改名され、アメリカ海軍の
12.7cm砲3門が装備され、中華民国の旗艦
として活躍しています。

 雪風の乗組員は、1962年10月13日に、「駆逐艦雪風
保存会」を結成し、雪風が動けるうちに日本に返してもらい
呉で保存しようと運動をしています。ただ、この時点では、
隠居はしておらず観艦式にも参加しています。

 しかし、1970年老朽化により回航には耐えられぬと
判断されて解体され、1971年12月8日に、寺内艦長
や雪風の会員が参列するなか、舵輪と錨のみが返還
されています。

 大戦を戦い抜いた雪風が、舵輪と錨のみになって
しまったことに、涙を浮かべました。現在も、返還
された舵輪と錨は、保存されています。台湾には、
雪風のスクリューも保存されています。

 雪風は、大戦と賠償艦としての活躍を通して、
撃沈されることなく、活躍を続けた艦といえます。

「強運駆逐艦 栄光の生涯 『雪風ハ沈マズ』」は、
ここで終わっています。
次回は、「駆逐艦 神風 電探戦記」を元に、別の
駆逐艦の紹介をしていきます。

(追記)
 兵員輸送任務を終えた艦船は、戦後、賠償艦として
引き渡されたものや、海上保安庁や自衛隊で活躍した艦、
解体されて復興の資材として使われた艦などがあります。

 個人的に印象が強いのは、戦艦長門です。
戦後、アメリカに引き渡され原爆実験に使用されています。
敵味方の艦艇が次々に沈没していく中、4日間も耐え抜き、
驚かれています。そして、誰も見ていない夜間に静かに
沈んでいます。旗艦として活躍した戦艦の堂々たる最期
でした。

雪風、復員輸送業務に従事 [雪風]

 9月15日に、雪風は特別輸送艦に指定され、復員
輸送業務に携わることになりました。

 12月20日に、舞鶴のドックに入り、主砲、機銃、
魚雷発射管などを撤去しました。大和特攻の時、
航海長を勤めていた中垣航海長は、武装を撤去
されるのを見て、歴戦の武勇の駆逐艦雪風も
生涯を終えたと感じたようです。

 寺内艦長に、左右の肩を蹴られながら(乱戦で声が
届かないので、曲がる方向の肩を蹴ることで指示して
いた)操艦したことを思い出していました。

 改造は、1946年2月11日に完了し、特別輸送艦
雪風として誕生しました。駆逐艦時代、側面に
「ユキカゼ」とカタカナの表示がありましたが、
特別輸送艦は、「YUKIKAZE」とローマ字に
なっています。

 1946年12月18日まで、15回にわたって、大陸や南方
からの復員輸送に勤め、1万3千人もの兵士を祖国に運んで
います。この中には、ニュービリテン島で左腕を失った、ゲゲゲの
鬼太郎の作者水木しげるさんもいました。

 復員輸送任務を終えた雪風は、1946年12月30日付けで、
特別保管艦に指定されています。賠償として引き渡される艦として
指定されたことを意味します。雪風の乗組員は、引渡しに備え、
整備に励んでいます。この時の整備は、ちりひとつない完璧なもの
で視察に来た連合軍将官は、「ベストシップ」の賞賛を与えています。

 1947年6月に中華民国への引渡しと決まりました。

(追記)
 戦後まで生き残った艦は、大小500隻は存在していましたが、
大半は損傷で行動できず、雪風のように復員輸送に使えたのは、
空母の鳳翔、葛城、軽巡洋艦北上など、150隻くらいでした。

雪風、宮津湾にて玉音放送を聞く [雪風]

 空襲があった夕刻、宮津湾入口の漁港で、雪風に網をかけ、
竹や木をさして、小島に偽装しています。その後は、交代で、
上陸し休養しています。雪風が戦闘をすることはないという
判断です。機銃などの武器は陸揚げして、防空砲台を構築
しています。

 ここまで来る時、機雷をどう突破するかが問題でしたが、
高速で爆発する前に抜けるという結論になり、実行して
います。幸い爆発せずにくぐり抜けています。

 8月15日に、玉音放送があり、日本が降伏したことを知りました。
雪風の乗組員は、あれだけ戦ったのに敗けたという思いと、雪風は
よく生き残ったという感慨がありました。

 開戦時の新鋭艦である、陽炎型、ほぼ同型の朝潮型、改造型の
夕雲型全部で48隻建造され、雪風以外全て失われています。

 終戦の日、雪風は第四十一駆逐隊に編入され、3日後舞鶴に
入港しています。8月26日に、第一予備隊になり、機関科や
航海科以外の乗組員は、郷里に帰っています。

 田口砲術長も、雪風と行動を共にして、「雪風一家」と言える雰囲気に
慣れたこともあり、寂しさとやれるだけやったという満足感がありました。
田口砲術長も、退艦しており、手記はここで閉じられています。

 雪風には、この後も任務がありました。

(追記)
 雪風と一緒に大和の護衛をして佐世保に帰還した涼月ですが
修理を受け、浮き砲台として利用された後、若松港の防波堤と
して利用されています。

 冬月も防波堤となっており、戦後の経済復興に一役買ったと
言える生涯を送っています。

雪風、最後の戦闘 [雪風]

 沖縄の陥落後から、B29が夜間低空で飛来しており、
湾の入り口に機雷を敷設していました。掃海は行って
おらず、雪風と初霜は湾内に閉じ込められた状態に
なりました。

 7月30日早朝に、空襲警報が発令され、機関24ノットの
即時待機が命じられました。6時30分に30機の戦闘機が
飛来し、雪風、初霜は湾内を回りながら応戦をしました。

 3ヶ月ぶりということもあり、ここぞとばかりに撃ちまくり、
5機撃墜という戦果を挙げています。機銃が真っ赤に
焼けて裂けてしまったものが相当数発生したほど
でした。

 この戦闘で、雪風は一人の戦死者と少数の負傷者を
出しています。雪風は、この戦闘でも奇跡の駆逐艦と
いわれる出来事がありました。

 敵機から撃ち込まれたロケット弾が、糧食庫に飛び込んだものの、
爆発もせずにとどまっていました。水面下にある倉庫なので、満水
していましたが、ロケット弾が撃ちこまれていたことは、戦闘
終了後に気づたほどでした。

 一方で不運だったのは初霜で、水深の浅いところで、機雷が
爆発したことで被害を受け、陸に乗り上げて沈没を防ぐことで、
艦首のみ残して、艦尾が沈没となりました。

(追記)
 初霜が沈没した原因の機雷は、複数回振動を与えると爆発する
タイプで、雪風が通ったときに機雷が発動し、初霜がその後に通っ
たため爆発したという話がありますが、真偽は不明です。

 初霜は、司令官(雪風に乗船)から、陸に近づいて防戦せよの
命令を受け、岸に近づいたときに機雷が爆発しており、雪風との
関係はあまりないと考えます。

雪風、寺内艦長の退艦 [雪風]

 佐世保に帰投した雪風に、4月15日付けで第二水雷戦隊が
解隊されたことを知りました。日本海軍最強の水雷戦隊と
言われた歴史を閉じることになりました。

 第二水雷戦隊が解隊された後、雪風は、大和の特攻作戦の
生き残りである、初霜と第三十一駆逐隊に編入されています。
5月10日に、寺内艦長も療養のため退艦することになりました。

 雪風では、寺内艦長を失うことは悲しみであり、同時に守護神
がいなくなり、ツキもなくなるのではという思いがありました。
寺内艦長は、田口砲術長に、「雪風に乗っていれば大丈夫だ。
しっかりやってくれ」と言葉をかけています。

 寺内艦長が退艦した後、雪風は天橋立で有名な宮津湾へ、
初霜と一緒に向かっています。ここで、陸上にある砲術学校の
練習艦という役目を命じられています。しかし、動かすための
油も少なく、この命令は一度も実施されませんでした。

 湾内の警備の任務と、休暇というのが実態でした。雪風と
しては珍しい日本海側での休暇でした。天橋立での水泳
訓練や釣りに興じていました。しかし、6月22日に沖縄が
陥落し、本土への空襲は必須と考えられていました。

 7月30日に、空襲があり、雪風は最後の戦闘をすることに
なります。

(追記)
 7月24日、28日の2日に渡り、雪風の母校である呉が
空襲を受けています。この当時、大型艦艇は燃料不足で
動けず、呉のあちこちに配置され、陸から電源供給を受ける
有様でした。

 必死の対空戦闘をしたものの、戦艦榛名、伊勢、日向等
歴戦の大型艦が、大破または着底(沈没したものの、海底
が浅いため一部が海面に出ている状態)、転覆しました。
これらの船は戦後解体され、鋼材が利用されています。

大和沈没 [雪風]

 第一波の空襲で、雪風所属の第十七駆逐隊の浜風が猛攻を
浴び沈没しています。さらに、矢矧が航行不能、涼月が爆弾に
よる火災を生じていました。

 第二波は、午後1時20分に来襲しました。田口砲術長は、
冬月の早い射撃による対空射撃を見てたのもしく思って
いました。空母護衛の対空駆逐艦の本領を発揮して
いると言えます。涼月も、火災を生じながら果敢に
応戦しています。

 雪風にも、魚雷が飛来しました。大和に撃った魚雷が外れて
こちらにきたもので、田口砲術長が気づいたときには回避不能
でした。寺内艦長も気づいていない状態でしたが、大和に設定
していた魚雷のため、船底を通過していき、無事に済んでいます。

 午後2時30分頃、田口砲術長は、空気の振動と熱を感じ身を
乗り出して確認してみると、大和が2番砲塔付近で内部から爆発
を起こし黒煙を上げていました。黒煙が治まった時には、大和の
姿はありませんでした。

 第一波の攻撃から1時間50分で、不沈艦といわれた大和は
沈没しました。左舷に魚雷を集中させるという方法により、武蔵
の半分である10本の魚雷で沈んでいます。

 その他の艦も、霞が爆弾2発くらい航行不能、矢矧は集中攻撃を
受け沈没、第十七駆逐隊の磯風は、矢矧の警戒をしていましたが、
直撃弾を受け速力低下となり、雪風が雷撃処分しています。
磯風が沈んだことで、陽炎型の駆逐艦は、雪風のみとなりました。

 涼月は、中破の被害であったものの、自力で佐世保に帰投しています。
 冬月も、救助活動後自力で帰投できたものの、修理が必要という状態でした。

 この後も稼働できる駆逐艦は、雪風と初霜だけという状態でした。雪風は、
この戦闘で、3人の死者を出しています。初霜のみ、戦死者ゼロで切り抜けて
います。

(追記)
 軽巡洋艦矢矧ですが、阿賀野型3番艦として作られた、艦これに登録されて
いる艦です。マリアナ沖海戦で、瑞鶴の護衛をしたり、レイテ沖海戦で駆逐艦を
撃沈させるという戦果を上げています。

 天一号作戦では、魚雷7本、爆弾12発という軽巡洋艦では到底防げない
被害を受け沈没しています。

雪風、第一波の空襲を切り抜ける [雪風]

 敵機から雪風への砲撃は、艦橋にぴたりと照準を据えて
機関銃を乱射しながら降下してきました。田口砲術長は、
敵機の機関銃の発砲が、雪風からの発砲が敵機に
当たっているという錯覚を生じるほど正確でした。

 そうしている内に、爆撃機からの450kg爆弾が投下され、
艦橋に向かってきました。この時も、寺内艦長の転舵で
回避し左舷に水柱が生じました。直撃はしていない
ものの至近弾なので、多くの穴が生じています。
至近弾の破片で、雪風内でもけが人が続出して
います。

 雪風内の若い兵士は、ショックを受けていましたが、年配の
方から、「うちの艦長は操艦日本一だから任せておけば大丈夫」
と微笑んでおり、冷静になれたという話があります。

 第一波の空襲が終わったとき、田口砲術長のところに煙が
来たので何かと思ってみると、寺内艦長が、天蓋から首を
出してタバコを吸っていました。悠々としていると思った時、
「鉄砲は当たらんのう」と声をかけられ、謝ったところ、
今度は弾を惜しまなくていいのでどんどん撃てと
言われました。

 呉の空襲時、雪風は15000発の機銃を撃ったことで、もっと
有効に使えと怒られたことをいっています。今度は倹約する
必要はないのでありったけ撃てば良いと考えている時に、
第二波がきました。

(追記)
 この作戦に一緒に参加している駆逐艦霞ですが、朝潮型 10番艦で、
艦これにも登録されている駆逐艦です。開戦初期から、連合艦隊
最後の勝利と言われたミンドロ島沖海戦(礼号作戦)まで、従軍
している武勲艦です。

 ミンドロ島沖海戦は、1944年12月26日に、8隻の駆逐艦で、
ミンドロ島を攻撃したもので、キスカ島の奇跡の撤収作戦を指揮
した木村司令官の柔軟な対応により、成功と言える戦果を挙げ
た海戦です。

 霞の活躍は、戦闘そのものよりその後にあります。
ミンドロ島に向かう途中、僚艦の清霜が撃沈されました。木村司令は
後から助けに来るといって、作戦を優先しています。攻撃完了後、
木村指令が乗艦している霞と朝霜で、清霜の救出に向かい、
258名の乗員を救助しています。

 霞に限らず、この時期に生き残っている駆逐艦は、かなり武勇を
誇れる艦が揃っていました。

雪風最大の空襲 [雪風]

 4月6日午後3時20分に、抜錨し九州の東方面に向かって
います。当初、佐世保に向かうという欺瞞行動に見せるため、
大隅海峡を進撃しましたが、アメリカ軍には早々に発見されて
おり、効果はありませんでした。

 4月7日の午前6時57分第二十一駆逐隊の指令駆逐艦
朝霜が機械故障で落後しており、前途多難を思わせてい
ます。朝霜は、この後も、修理しながら、必死で付いてきま
したが、差が開き空襲を単艦で受けることになり、撃沈して
います。

 8時22分に、アメリカ軍の機動部隊の索敵機が大和を
発見ました。そして、大和のレーダーは、午後11時7分に
敵の大編隊を探知し、全艦に対空戦闘用意の下命されました。

 雪風の、田口砲術長は、戦艦から駆逐艦まですべて装備
している三式弾を、1kmに固定して、速射を行い爆撃照準を
狂わせ、艦長の操艦で雪風を守るという胸算用をしていました。

 12時32分に対空戦闘のラッパが鳴り戦闘開始となりました。
アメリカ軍は、武蔵攻撃の教訓から、左右から攻撃すると、浸水が
増えても船が安定するということを学び、大和に対しては左舷から
のみ攻撃を徹底していました。

 しかも、この時の空襲は、急降下爆撃により爆弾を命中させて、
対空砲火の威力が減少した間隙を突いて、最も被害を出せる
雷撃機が殺到して魚雷を命中させるという方法をとっていました。

 アメリカ軍は、過去の戦闘から教訓を引き出すのがうまい軍隊と
言えます。現在、世界最強となった理由は物量以外にこのような
ソフト面も優れていたからと言えます。

 目標は、大型艦の大和と矢矧ですが、雪風も田口砲術長が
雪風着任以来最大の爆撃と記録しています。

(追記)
 駆逐艦朝霜ですが、夕雲型駆逐艦の16番艦で、艦これには未登録
です。レイテ沖海戦では、雪風と同じ栗田艦隊で活躍しています。北号
作戦とよばれる戦艦伊勢、日向と一緒に、シンガポールからゴムやタン
グステンといった物資を本土まで運ぶ輸送任務につき、全艦無事帰還と
いう実績があります。

 この当時、駆逐艦は休むまもなく動き回っており、全速航行をすることで、
上記のような故障を起こすことは当然とも言える状態でした。

雪風、天一号作戦の出撃準備 [雪風]

 天一号作戦には、
戦艦大和、軽巡洋艦矢矧(やはぎ)
第十七駆逐隊の磯風、浜風、雪風
第二十一駆逐隊の朝霜、霞、初霜
第四十一駆逐隊冬月、涼月(すずつき)
が参加しています。

 不死鳥といわれた駆逐艦響(ひびき)も参加していましたが、
途中で機雷に接触し、脱落しています。

 雪風では、寺内艦長が、今までと変わらず「今までにつち
かってきた精神を発揮し、技量を生かすように」という訓示が
ありました。このように簡単に済ませたのは雪風だけで、他の
艦は、遺髪をとって形見を作るということをしていました。

 寺内艦長は、自分が艦長をしている限り沈ませないと固く
信じていたための対応と言えます。大和や矢矧では、3月に
卒業して配属された新人の退艦を命じていました。雪風から
これを眺めていた田口砲術長も、後を頼んだという気持ちに
なっていました。

 出撃の為の油も不足しており、駆逐艦には大豆油を搭載
されました。馬力が2割低下するが30ノット以上は出せる
ので、大和の護衛には差し支えないとのことでした。豆を
食って走るのでは、ハトと同じだと冗談を言い合っていました。

 田口砲術長の手記に、田口砲術長自身は海軍軍人を一生の
目標にしているので、特攻攻撃は当然としても、そうでない人は
苦痛ではないのかという疑問を持っています。このような人達も
戦闘では、動揺せずに活躍しており、感服したと手記に記録して
います。

 田口砲術長はこの時は、特攻を当然と思っていたようですが、
終戦後、田口砲術長が年をとってから、この時に同世代の人達が
自分と同じ感覚になっていたことに、日本的思考の一致を恐れたという
ことを言っています。

(追記)
 この作戦に参加した駆逐艦に、艦これには1隻も登録されていない
秋月型駆逐艦が、2隻参加しています。冬月と涼月(すずつき)です。

 秋月型は、空母の防空直衛艦として設計された駆逐艦で、航続距離を
延ばして、空母の直衛ができるようにしています。しかし、ミッドウェー海戦
の直後に完成という時期の悪さから本来の目的で活躍した駆逐艦は少なく
大半は輸送護衛にあたっています。

雪風、天一号作戦(大和の沖縄特攻作戦)に参加 [雪風]

 3月26日に、GF司令部は「天一号作戦」を発動しました。
この作戦は、飛行機の傘がないところを進む以上、成功は
最初から期待されていませんでした。

 大和が散ることで海軍の決意を全体に知ってもらうという
名誉を得ようというものです。実際、この作戦の司令官である
伊藤長官は、陽動に使うならわかるが、自殺させるようなこと
はできない」という、真っ当な意見を述べています。

 これに対し、「これは1億総特攻の先駆けであるから、潔く
突入して欲しい」と言われ了解しています。作戦の参謀の
一人も乗り込むことを申し出ていますが、伊藤長官は、
監督がいなくても立派にやると言って拒絶しています。

 この後、護衛の巡洋艦、駆逐艦の艦長にも同じ訓示をして
います。これを聞いた、雪風の寺内艦長は、雪風に帰ってきて
から、「死にに行くような特攻は不賛成だ。明日は、アメちゃんの
飛行機が殺到するだろうが、この雪風は沈めてなるものか。
部下を自殺させるようなことはしない」と憤然としていました。

 歴戦の寺内艦長らしい言葉ですし、全面的に同意です。しかも、
寺内艦長は、実際にやり遂げているところがすごいと言わざる
負えません。幸運を掴むのは、このような人だということを示して
いると言えます。

(追記)
 駆逐艦は、太平洋戦争で174隻建造され、134隻が撃沈して
います。撃沈数は最も多かった艦種と言えます。この次が潜水艦で
187隻建造され、127隻沈没となっています。

 これだけの被害を出しているのは、防御力が弱いこれらの艦種を
激戦に投入した結果です。このような激戦を戦い抜いた艦には、
生き残っった雪風のような艦も、沈んでいった艦も敬意を感じます。

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