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巡洋艦最上 艦長の厳然たる態度 [巡洋艦最上]

 インド洋での通商破壊戦の最中、曾禰氏が
見過ごすことのできない出来事が起こりました。

 曾禰氏が、射撃指揮をしながら奮戦ぶりを
見ていた時、最上から発進した吉本飛行
兵曹長が搭乗する水上偵察機が、ボートで
避退している商船乗組員に対し、銃撃を
加えているのを、発見しました。

 帰還した時、早速吉本飛行兵曹長を
艦橋に呼び、「銃撃を加えるという
命令はしていない。

 無防備のボートで逃げる無抵抗の乗組員に
銃撃を加えるのは、武士のとるべき道では
ない。」と、強く戒めました。

 これを側で聞いていた乗員の一人は、
戦後、曾禰氏に、「あの時の艦長の厳然たる
態度は、まことに印象的で、今だに眼の前に
見えるようだ。」と述懐していました。

 捕虜虐待うんぬんは、戦後の戦犯指名の
主な理由として取り上げられています。
日本人にもこのような態度をとった者が
あったという一例を申し述べるとしています。


 最上は、インド東岸のマドラス港口の灯台が
見える8海里まで近接した時、ようやく航路
遮断と、通商破壊を終了しました。獲物の
総計は、40隻で、13万tにも達して
いました。

 航空機による戦果は、巡洋艦2隻大破、飛行機
60機以上を陸上飛行場で撃破したと報じられ
ました。こうして、4月11日に、最上らは、
シンガポールに入港しました。

 この当時のシンガポールは、陸上施設は
荒れ果て、軍港施設に続く、陸上建築物なども、
多くは進撃後の後輩のままといった有様でした。

 英国の東洋一の根拠地としては、昔の
威風はほとんど残っていないように
感じられました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 インド洋での通商破壊戦 [巡洋艦最上]

 バタビア沖海戦は、過去数ヶ月を数時間に
圧縮して残敵を攻撃し、全力を上げて
見敵必殺の伝統と、永年に渡る訓練の
成果を余すところなく発揮しました。

 アメリカ極東艦隊として、威風堂々、
一目置いていたヒューストンが相手
だったので、曾禰氏は、敵に不足なしと
考えていました。

 後日、山本長官から、最上、三隈、敷波に、
武勲の感状を頂いたのは、この上なく名誉な
ことだったとしています。


 4月に入り、インド洋方面作戦が計画され、
これに参加する予定兵力は、第一航空艦隊、
第四航空戦隊、最上が所属する第七戦隊、
その他の駆逐艦などでした。

 これらの艦隊は、ラングーン南方にある
メルギー泊地に終結し、作戦打ち合わせが
行われました。

 メルギー湾は、ラングーンに至る航路にあり、
側面防備にも好適の地で、とくにこの方面の
作戦基地としては、重要な地点でした。

 この作戦で、最上ら重巡洋艦部隊は、
インド東海岸航路上にある商船の補足、
つまり通商破壊戦を主任務としていました。
艦隊を北方、中央、南方の3つに分け、
インド洋東海岸に殺到しました。

 最上と三隈は、南方を担当し、水偵を
飛ばして敵情偵察を行いつつ、商船の
所在を確認するとともに、近迫して乗員の
退去を命じ、確かめた後砲撃を加えて、
炎上沈没させるというものでした。

 この方法を繰り返し、南方だけで10隻の
商船を撃沈していました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 上陸完了 [巡洋艦最上]

 ジャワ海での初戦は、敵艦隊の砲弾は
一発も命中せず、乗員に一人も負傷者が
出なかったという、最上にとって幸運な
初陣となりました。

 海戦が終了した午前3時半頃、第11駆逐隊が、
暗中に敵タンカーが逃走中なのを発見し、直ちに
雷撃して撃沈し、小艦艇を擱座させたり、
炎上させたりして、小のものまで全艦艇を
叩き潰し、陸軍部隊も安心して、予定通り
上陸を完了させました。

 最上の海戦は、楽しげに聞こえますが、
バンタム湾に50数隻の輸送船団をもって、
送り込んだ第16軍主力の揚陸には、
かけがいのない損害も出していました。

 空と海からの攻撃で、佐倉丸が擱座し、
今村司令官以下の首脳陣も、重油に
浮かぶ海を泳いで、顔も手も真っ黒に
なって、文字通り、油揚げになって
上陸するという一場面もありました。

 曾禰氏としては、12月の開戦以来、
いくどとなく敵を追い回した挙げ句の
戦闘だったので、重荷を下ろしたような
思いがあったとしています。

(曾禰氏は、言及していませんが、
今村司令官の乗艦を撃沈させてしまった
のは、最上です。

 敵巡洋艦に向けて撃った魚雷の一本が、
敵艦底をくぐり抜けて命中させてしまった
ものです。今村中将了解のもと、戦後まで
秘匿されました。)

(追記)
 曾禰氏は、撃沈したヒューストンを、
上海にいた時、見たことがありました。
当時、アメリカ極東艦隊の一艦として
堂々揚子江上を圧倒していた
重巡洋艦でした。

 ジャワ海でお目にかかったのは
奇遇であり、最期を見届けたのも、
なにかの奇縁であったとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 砲撃開始 [巡洋艦最上]

 戦闘に加わるにあたり、曾禰氏、戦闘側を
下令すると共に、酸素魚雷の一撃を加えるべく、
水雷長に「敵一番艦同航発射」を下令し、
ついで砲戦を下令し、射距離1万mで
主砲射撃を開始し、文字通り撃ちまくり
ました。

 最上の主砲は、初弾から命中弾を出し、
敵艦は、たちまち艦橋付近から炎上しはじめ、
火達磨になりました。

 それでも、必死に応戦してきました。その
敵巡洋艦が、探照灯の光芒にくっきりと見え、
付近は真っ赤に色どられました。

 敵の一番艦ヒューストンは、最上と三隈の
集中攻撃を受け、戦闘能力を失いました。
目標を二番艦のパースに変更し、瞬時に
大火災を起こさせて撃沈しました。

 そこで、最上と三隈は反転し、航行不能に
なっていたヒューストンに対し、随伴していた
敷波が魚雷を発射して、見事に命中させ、
ヒューストンを撃沈しました。

 戦闘は、約1時間で終わり、海面はもとの
静寂に帰り、ジャワ海からは、ついに敵の
艦影はなくなりました。かくして、初戦は、
あっけなく終わりを告げました。

 火達磨になった敵艦からは、最後まで
反撃が繰り返されており、負けじ魂を発揮
したのは、敵ながら心から感心したと
しています。

(追記)
 陸軍部隊は、この夜戦を輸送船上から
観戦していました。この様子を、曾禰氏は、
源平合戦の屋島の戦いで、那須与一が、
敵味方監視の中で、弓矢八幡を念じて、
晴れの離れ業を演じた一幕の現代版だ
としています。

 曾禰氏と同郷の陸軍参謀長岡崎少将は、
船上からまたとない珍しい海戦を見物させて
もらったと、曾禰氏を前に呵々大笑して
いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 バタビア沖海戦 [巡洋艦最上]

 バタビア沖海戦の前に行われたスラバヤ沖
海戦で撃ちもらした敵の巡洋艦が、向かって
きていました。

 最上らは、この艦隊を捕捉するように
努めました。敵艦隊は、「窮鼠猫を噛む」の
例のように、輸送船団の側面をおびやかす
ように襲いかかってきました。

 3月1日午前0時10分、20ノットで
南下中の最上らは、バンタム湾方面で、
打ち上げ花火のような星弾や曳痕弾
らしきものが交錯しているのを認めました。

 戦場でなければ、うっとりながめるような
情景でした。ただ事ではないと感じた曾禰氏は、
増速を命じ、これが何ものであるか確認すべく、
一気に南下しました。

 バンタム湾に殺到すると、戦火が
開かれていた戦場に達すると、有無を
言わさず戦闘に参加しました。

 この時、僚艦の三隈から、「われ今より
敵に止めを刺す」と宣言し、戦場を整理する
ことから行動をはじめ、混戦の防止に努め
ました。

 ここにいた敵は、残存艦隊で、空中からの
攻撃と呼応して、日本軍輸送船団に一撃を
加えていたものでした。

 一撃を加えた途端、最上らに補足され、
交戦が始まりました。0時40分でした。この
戦闘海面は、ことのほか狭く、暗夜の高速
運動であるだけに、曾禰氏としては、戦闘
指揮と艦の保安について、極度に神経を
使いました。

 この海戦は、敵艦を軸として同航、反航と
その都度戦闘側が変わり、照射指揮にも
極めて厄介な面がありました。

 曾禰氏としては、初陣で緊張していた
ものの、平素の訓練どおり全戦闘力を
敵の一艦に集中するといった全力投球を
するのみでした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 バリ島沖海戦 [巡洋艦最上]

 2月中旬、最上らは、次期作戦基地として
アナンバス島を選んで、しばらく仮眠をする
ことになりました。

 アナンバス島は、洋上の群島で、
小ぢんまりした泊地を擁していました。
補給や潜水艦基地として手頃な湾でした。

 陸上にはこれと言った建物はなく、
崩壊した建物が2つほどあるのみでした。
戦隊は、できる範囲の警戒はしながら、
何かしらのんびりしたものがありました。

 2月24日この泊地を出港しました。
この極楽の海にも修羅の風が吹きはじめ、
来るべき一連の海戦が次々に起きました。
最初は、2月19日に発生したバリ島沖海戦
でした。

 この海戦は、日本軍の少ない駆逐艦隊を
見くびった敵巡洋艦と駆逐艦が、攻撃して
きたもので、日本軍は、不意打ちを受けた
ものの、猛然と肉薄する捨て身の戦法が
功を奏して大戦果をおさめました。

 そして、曾禰氏が最も大きな思い出と
評しているバタビア沖海戦が起こりました。
最上にとっての初陣であると同時に、
華々しい活躍と、感状という名誉を
勝ち得た海戦でした(とんでもない
大失態も演じていますが・・・)。

 バタビア沖海戦は、1942年2月下旬、
今村陸軍中将を指揮官とする陸軍部隊を
乗せた船団を、最上らが間接護衛と支援
任務をもって、行動していました。

 バタビア沖海戦に参加した巡洋艦は、
最上と三隈で、鈴谷、熊野はスラバヤ
方面で行動していました。

 前日の早朝、偵察機から敵艦隊発見の
報を受け、輸送船団は待機し、最上らは、
邪魔者を一掃すべく戦機の到来を待って
いました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 あわやという事態 [巡洋艦最上]

 ジャワ海で迎えた紀元節の時の気温の
記録を見ると、缶室や甲板通路は45℃、
病室で37℃、環境の艦長休憩室でさえ
35℃に達し、全くの灼熱地獄のようでした。

 しかも、最上らの行動は、赤道を出たり
入ったりの毎日で、赤道を股にかける
連合艦隊という有様でした。

 この頃から、しきりとアメリカ・オランダ
連合の少なくとも5~6隻の巡洋艦からなる
部隊が出没しているという気配が濃厚で、
いずれのうち会敵するであろうと、警戒は
厳重を極めていました。しかし、緊張の度が
過ぎ失敗しています。

 ジャワ海は、「静かなること、鏡のごとし」と
言え、海上に浮遊する椰子の実や、竹林を敵の
潜水艦の望遠鏡と誤認し、攻撃を仕掛けたり、
椰子の葉を敵艦のマストと勘違いし、増速して
近づき間違いに気づくということをしていました。

 夜間の変光星を敵機と間違えたり、味方機を
敵機と間違え誤射したということもやっていました。
これらを引き起こしたのは、緊張の他に、暑さで
イライラしていたということもありそうでした。

 このような中、2月14日、敵機の不意打ちを
食らいあわやという事態になりました。発端は、
最上艦載機が、敵魚雷艇を見つけて攻撃を加え
炎上させたものの、燃料が少なくなり、煙突から
黒い煙を出して位置を知らせたことでした。

 これらの機体は揚収することができたものの、
敵機も呼び寄せており、艦が揚収で止まって
いる時に、爆弾を食うことになりました。
しかも、敵機の接近に、爆弾が投下されるまで
気づきませんでした。

 幸い、爆弾は外れ、海中の魚を成仏させた
だけで済みましたが、完全な奇襲攻撃を
食った恰好であり、命中していたら、
この後に行われたバタビア沖海戦に
参加できないばかりか、戦史に
汚点を残すことになったと
しています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 ジャワ海 [巡洋艦最上]

 イギリス戦艦2隻に、夜戦で一泡吹かせ
ようと意気込んでいた、最上ら巡洋艦部隊
でしたが、索敵機が触接を失ってしまい、
探照灯の光芒を遠距離ながら確認した
ものの、視界不良にはばまれ、追撃は
ついになりませんでした。

 結局、イギリス戦艦2隻は、鹿屋航空隊などの
80機の雷爆撃をこうむり、司令長官トーマス・
フィリップス提督以下多数の将兵とともに
沈没し、チャーチル首相の顔色を
失わしめました。

 世界的にみても初の対艦船雷撃の成果で、
この一戦こそ、日本海軍航空隊による先鞭
敵決戦戦術の壮挙でした。

 同時に、自ら編み出した航空決戦方式により、
潰え去るという皮肉な運命に見舞われることに
なりました。

 敵を逃した最上は、シンガポールを脱出した
敵艦隊が出現したという報を受け、風速20mの
荒天のもと、動揺が16度の生じる難航を続け、
今度こそはと急行しました。

 しかし、再び会敵することなく、無念の涙を
のみました。そして、戦場は、2月下旬から、
ジャワ海に移りました。

 ジャワ海は、ボルネオ島の南に横たわる
400kmくらいの狭い海でした。濃紺の
黒潮を見慣れている曾禰氏にとって、
淡緑色の浅黒い海の色は、パッと
しない存在でした。

 そして、池のようだと言ったほうがピンと
くるくらい静かな海で、女性的な感じのある、
南方特有のひっそりとした心も和むような
海面でした。

 曾禰氏らは、この海で紀元節(2月11日)を
迎えました。2月は、内地は寒さの盛りでしたが、
この付近は猛暑でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 緒戦期の損害 [巡洋艦最上]

 このころ、マレー半島の一角コタバル、
シンゴラ方面に上陸した陸軍部隊は、
一路南進を続け、はやくも主力は
シンガポールに迫りました。

 一方、フィリピン方面でもマニラに迫り、
ダバオに上陸するなど、華やかな場面が
展開されました。香港、ウェーキ島、
グアム島など、相次いで我手中に
落ちる状況でした。

 最上が所属する第二艦隊の戦場でも、
ボルネオ平定、ミリ作戦などの一連の作戦が
次々と敢行され、緒戦期の損害として、
痛い代償を払いました。

 12月17日に、駆逐艦東雲(しののめ)が、
被雷沈没し、ボルネオ島クチン泊地にあった
輸送船が襲撃を受け、香取丸が沈没、
その他にも損害が出て、クチン攻略部隊は、
相当混乱したものの、揚陸に成功しました。

 損害はこれにとどまらず、直接支援に
任じていた第20駆逐隊の狭霧が敵潜水艦の
餌食となり、大火災の後沈没のやむなきに
至りました。他に、特設砲艦第二雲洋丸が、
あえなく沈没しました。

 これらの部隊を沖合で支援していた
最上ら重巡洋艦部隊は、この報告を聞く
たびに、切歯扼腕して悔しがりました。

 ここから、最上の出番となった、
マレー沖海戦に至る経緯を紹介します。

 この海域は、開戦前から、敵の水上部隊と
いつ海戦が起こるかわからない情勢にあり
ました。そのため、いつも会敵即応の態勢で
行動していました。

 12月9日に、イギリス戦艦2隻(プリンス・
オブ・ウェールズ、レパルス)が、マレー東岸に
出現という敵情第一信が入りました。最上は、
即時全力待機を下命され、第7戦隊を先頭に、
夜戦で一泡ふかそうと、緊急運動にかかりました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 カムラン湾 [巡洋艦最上]

 年末、最上から一人、病没が出ました。
遺体をそのままにして迎春もあるまいと、
湾の南奥にある、キャラット入江の海辺で
荼毘に付しました。

 カムラン湾にも、ついに最上の一兵員の
墓標が立ってしまいました。そして、
東方海上にのぼる太陽を拝みながら、
型通りの新年遥拝式が終わり、
簡単な祝盃を上げました。

 しかし、戦場には正月も盆もないというのが
実態でした。元日も、明るくなるのを待ち構えて
いたように、最上から哨戒機を飛ばして、哨戒が
はじまりました。そして、祝盃を上げている最中に、
ひっきりなしに敵情の入電がありました。

 曾禰氏は、新年遥拝式を終えると内火艇を
用意させ、旗艦熊野におもむいて、栗田司令官に、
新年の挨拶を述べた後、鈴谷、三隈を歴訪して
帰艦しました。


 38年前の日露戦争の当時、バルチック艦隊は、
このカムラン湾で、最後の補給休養をとり、ロジェスト
ウェンスキー提督が、最後の決断をした地でした。

 この地が、日本海軍の基地として舞台の表面に
躍り出たのは、因縁浅からざるものがあると感じた
としています。

 さらに、後にベトナム戦争で、アメリカ軍は、
この地に一大補給基地を建設しています。
カムラン湾は、歴史的にみてもそれぞれの
時代に応じ、道化的舞台となり、主役を
演じているように見えたとしています。

(追記)
 上記で、曾禰氏が、鈴谷に赴くと、
木村艦長は、書き初め用の大きな紙を
用意していて、赤い毛布が敷かれて
いたのが印象に残ったとしています。

 三熊の崎山艦長は、部下とゆっくり
囲碁を楽しんでおり、いずれも、戦場
くささを微塵も感じなかった、暗い
お正月を楽しんでいたとしています。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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