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巡洋艦熊野 マニラ到着 [巡洋艦熊野]

 出港して2時間ほどした頃、戦死者の
水葬式が行われました。50名の遺体が、
艦尾から順次滑り落とされ、黒黒とした
深夜のフィリピン島の海に沈んで
いきました。

 全艦が、厳粛な空気に包まれ、左近允氏は、
位置を航海日誌に記入しました。ようやく
広い海面に出て西に変針、ついで北西に
転じました。艦橋を降りて、作戦室の
ソファーで横になりました。


 10月27日の朝、起き上がって、艦橋に
上がると、左前方に沖波がついていました。
沖波は、鈴谷の生存者を救助した船でした。

 28日の未明、マニラ湾口に近づきました。
このあたりは、名だたるアメリカ潜水艦の巣
でした。厳重な対潜警戒を続けながら、
バターン半島とコレヒドール島の間を通り、
マニラ湾に入ってさらに、二時間余で
港内に達しました。

 主錨を2つとも失っているので、錨泊は
できませんでした。援助の電報を打ちましたが、
全く反応がなく、停泊中の特務艦隠戸に横付け
しました。ほっとした気持ちが、人見艦長以下
だれの表情にも、表れました。

 このマニラも空襲を受け、あちこちに輸送船の
マストや煙突が突出していますが、ここは一大基地
でした。200機もの大編隊で空襲をしたとしても、
目標には事欠かないほどであり、熊野の向かって
くる機体はほんの一部と考えられました。

 街の南側に、日本軍の空港があり、離着陸を
繰り返していました。一隻で、ノコノコ航海
しているのとは、気分が全く違いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 マニラに向かう [巡洋艦熊野]

 熊野には、栗田長官から、マニラに
回航して、修理を受け、従事すべき
という命令が来ていました。

 護衛には、駆逐艦浜風と、清霜が指定されて
いました。しかし、人見艦長は、護衛の
駆逐艦の到着を待たず、深夜に出港する
決意をしていました。

 急ぎ、アメリカ軍機の行動圏を脱した後、
北上して機を見てマニラに入港するつもり
でした。

 左近允氏は、艦橋のすぐ下にある作戦室に
入って、ソファーに腰を下ろしていました。
この部屋には、主計長と庶務主任がおり、
海軍諸例則で、水葬の規則を確認して
いました。

 その部屋に、信号員が入ってきました。
そして、左近允氏に対し、駆逐艦島風の
砲術長より、「健在なりや。」という
信号が入ってきたと知らせてきました。

 島風の砲術長というのは、左近允氏の兄、
左近允正章(さこんじょう まさふみ) 海軍大尉
でした。

 兄が健在であることを確認した左近允氏は、
那智の後に給油のために、日栄丸に横付け
していた島風に、「我健在。」を送りました。


 燃料の搭載は午後8時頃に終わり、左近允氏は、
マニラまでの予定航路、時刻、速力を記入した
紙片を日栄丸に届けました。護衛としてこちらに
向かっている浜風や、清霜に渡してもらうため
でした。

 午後9時30分、熊野は、横付けを離し、
航進を起こしまいた。針路を南西ないし
南南西にとり、クリオン島東側の小さな
島々をぬうようにして進んでいきました。

 横付け中に機関の整備をした成果か、
約20ノット出ていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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