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巡洋艦熊野 重傷者 [巡洋艦熊野]

 日没が近づいてきました。左近允氏は、
重症を負っている見張長に肩を貸して、
負傷者収容所に向かいました。集会場らしく、
建物は立派でしたが、中はガランとしていました。

 床に敷いたござの上に、30数名の
重傷者が、海から上がったままの服装で、
横たわっていました。

 軍医長と、フィリピン人医師が、大わらわで
手当していました。聞くと、糧食と医療品は
陸揚げされており、助けられるということでした。

 稲田機関長は、右大腿部を機銃弾でくだかれ、
いずれ切断しなければならないと聞かされ
ました。

 泳いでいる間の機銃掃射でも、かなりの
乗員がやられたようでした。見張長は、
足と顔に火傷を負っており、目は
見えないものの、すこぶる元気
でした。

 艦橋の信号員、見張員は、爆風により、
胸を痛めて、苦しんでいました。絶対安静の
他に手はないということでした。

 その中のひとり、林兵曹が、左近允氏を
認めました。そして、航海士のおかげで
助かりましたと、言われました。

 左近允氏は、艦橋に爆弾を食らって、
艦橋前部に行く途中で、横たわっていた
乗員の一人を誤って踏んづけていました。

 この時、踏まれたのが林兵曹で、これで、
気絶状態から我に返り、助かったということ
でした。左近允氏は、返事のしようがなく、
微笑を返しました。


 全体として、重傷者は比較少ないと
いえました。その分、沈没が早かったので、
負傷したり、艦内の下部にいて、脱出
できなかった乗員も多数いるようでした。

 ただ、本来下部にいる機関科の乗員は、
熊野が動かなかったことで、配置について
おらず、生き残った人が多かったようでした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 被害の状況 [巡洋艦熊野]

 人員調査が行われました。重傷者は近くの
建物に収容され、ここにいるのは、元気な者
ばかりでした。分隊ごとに整列し、被害の
状況を確認しました。

 最も被害を受けていたのは、通信科でした。
昨日までの累次の戦闘を通じて、戦死者なし、
負傷者1名という運のいい分隊でしたが、
今は、8名ほどが寂しく並んでいました。
9割の人が戦死したことになります。

 左近允氏の分隊の航海科は、今までは、
若干の重傷者は出していたものの、戦死は
1名もなく喜んでいました。しかし、一発の
爆弾で、半数以上が戦死していました。

 熊野全体では、重傷者を含め、約600名が
生存しており、半数強でした。士官以上の
戦死者は、人見艦長、真田副長、主計長、
電機分隊長であり、稲田機関長は重傷、
山県航海長は、爆風で胸を痛めて
苦しそうにしていました。

 少尉では、ブルネイ出撃時にいた20名の内、
10名が戦死し、3名が重傷でした。左近允氏は、
軽傷とすると、6名が軽傷となっており、無傷
なのは、藤島航海士一人だけでした。

 藤島航海士は、熊野に着任する時、乗艦が
潜水艦の雷撃で撃沈し、20時間も海の上で
泳いだ経験がありました。今回は、あの時と
比べれば楽でしたと、笑っていました。
今回は、1時間も泳ぐ必要がなかったので、
当然と言えます。

 この後、敵機来襲時の注意事項が告げられて、
解散となりました。乗員は、斜面や建物の縁に
腰を下ろして、語り合ったり、濡れた衣服や、
家族の写真や紙幣を乾かしていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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