SSブログ
陸軍潜航輸送艇まるゆ ブログトップ
前の10件 | -

まるゆとは何だったのか [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 最後に、まるゆとは何だったのかについて、まるゆの
隊員がどのように考えていたかを紹介します。

 海中に潜って輸送するという構想は、フィルピンでは
成果を上げることはできず、物資動員計画の枠を全て
使って建造したものの、上層部の期待とは裏腹に、
はかない夢と化したとしています。

 船舶や海洋に知識がない陸兵が、船を作ったことが
ない工場に建造依頼したことから始まり、わずか
数ヶ月の教育による運航をさせるという無茶振り、
艇そのものの構造的な欠陥まで、無理に無理を
重ねて運用されていました。

 そして、このような無理をしなければならなかった
ところに、戦争末期の日本の有様を、写しだしており、
まるゆがその象徴であるとしています。

 行き当たりばったりの計画で、ただ行け行けとしゃにむに
出撃させられた面があった」という述懐もあり、考えさせら
れることが多いといえます。

 終戦までに建造されたまるゆは40隻あり、既に紹介して
います通り、一号艇~三号艇は、フィリピン海域で沈んで
おり、八号艇が伊豆・下田の空爆で沈没しています。

 その他に、朝鮮半島で、暴風雨に会い、座礁転覆して
いる艇が1隻あり、合計5隻が沈没しています。

 終戦まで生き残った35隻のまるゆは、アメリカ軍が
海没処分しています。

(追記)
 最後にまるゆを褒めていた海軍の言葉を紹介します。
一号艇の試験で、海軍が沈没したと騒然となった日の
夜に、招待した海軍と一席設けています。

 この席で、まるゆにヘッセルマンエンジンを使用して
いることを紹介し、話だけでは納得しなかった海軍を
案内して見せています。

 これを見た海軍は、「新規技術の開発や採用は海軍では
なかなかない。陸軍には負けた。海軍で、この潜水艇を
使いたい。」と話しています。

 船に、石油井戸掘削用で使用するエンジンを使用する
という発想は、海軍にはなかったことによる称賛でした。

まるゆ まるゆ部隊の隊員の休日 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 戦争中、佐世保の海軍二等兵曹だった方が、終戦後
故郷の三島に復員した際、戦争中のまるゆ部隊について、
漁師をしていた父親から聞いた話がありますので紹介します。

 そこには、「軍機がしっかりしていて、乱れるところが
なかった。ただ、小さな町だから、休暇日でも遊ぶ場所
がなくもてあましていたようだった」と聞かされて
います。

 この点について、まるゆ隊員の手記を見ると、「空腹
盛りのときなので、石鹸や靴下を土産に、夏みかんや、
いも粥、いり豆、さつま芋などを腹に入るだけ入れて、
残りは営内に残った戦友に運んでいた」とあります。

 別の方の手記では、「町は小さく遊べるようなところも
少なかったので、山に登ると農家が点在しており、そこ
にいたおばあさんと話しこみ、カンコロ(さつま芋を
切干ししたもの)をご馳走になっています。

 このおばあさんの息子の出征しているので、世話を焼いて
いたようでした。この後も、外出のたびにこのおばあさんの
家によってご馳走してもらっていたと記載しており、四国の
人達の親切は忘れないと結んでいます。

 まるゆ部隊の隊員の休日は、それぞれが独自の方法で、
楽しみを見つけて、過ごしていたことが伺えます。

(追記)
 地元の漁船と、まるゆ部隊の係留所が近くだったので、
最初はトラブルになったようで、出入りの漁船には、
大きな番号をつけさせてられているようです。

 しかし、番号をつけさせた後は、トラブルになっても、
互いにOKのやり取りで、万事解決したようです。まるゆ
部隊は、地元の人達に気を使って、訓練に励んでいたと
います。

 そして、現在、まるゆ部隊のあった伊予三島の地に、
「まるゆ陸軍潜水輸送艇教育隊記念碑」を、まるゆ戦友会の
人達が建立しました。

まるゆ 地元の三島の人達の反応 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 まるゆ部隊がいたことに対し、地元の三島の人達の
反応は好意的でした。地元の人達に誘われて、旅回り
の劇場に案内されたことがあり、娯楽のない時代だっ
たこともあり、楽しめたと記録しています。

 三島には、陸軍が駐留したり、海軍の基地があった
わけではないので、興味津々でした。しかも来ている
のは、秘密部隊の陸軍の潜水艦部隊ということだった
ので、なおさら興味を持たれました。

 地元では、「モグラが河童となる」といって応援して
いたようです。三島には、海軍の小型警備艇が来ること
がありましたが、警備艇は、地元の木造漁船を改造した
ものでした。

 なので、「海軍さんが木の船で、陸軍さんが鉄の船」
とはやしていました。

 同時に、まるゆ部隊の独特の服装も興味の的になって
いました。上着は、裾の部分が短くカットされており、
ポケットが多く付けられていました。ズボンは、裾が
広くなっていて、上着とズボンは、萌黄色で統一
されていました。

 靴は、艇内で使用していたのは皮の一枚底で、上部が
布製の軽いものでした。陸軍らしいのが、狭い艇内でも
サーベルを持っていたことで、かなり邪魔だったと思わ
れます。

(追記)
 まるゆでの食事は、「航空糧食に準ずる」ということで、
陸軍内では比較的良い方でした。缶詰だったとはいえ、
赤飯や稲荷ずし、日の丸弁当などで、電熱器で温める
ことができました。

 この他にも、艇内での生活を少しでも良くしようという
思いから、各艇毎にいろいろ工夫を凝らしていました。
冷凍機を利用して、練乳を材料にアイスクリームを
作ったり、カルピスや黒あめ、ヨウカンを持ち込んで
いた艇もいました。

 トイレがないほど環境が悪いまるゆ内で、いかに過ごす
かで知恵を絞っていたことをうかがうことができます。

まるゆ 三島のまるゆ部隊 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 三島のまるゆ部隊のことについて紹介します。まるゆ
部隊は、将校が400人あまり、仕官が、820人ほど、
一般兵が2200人ほどと、総数は、4000人を
超えていました。

 終戦時、まるゆは16隻が、三島に配置されており、
陸軍内でも大規模な部隊だったといえます。部隊
本部は、富士紡績工場を接収した建物に置かれて
おり、1943年10月の結成から終戦まで、
ここで過ごしています。

 接収した部隊兵舎を、出入り口を潜水艦隊らしく
趣向を凝らした改造を施していました。兵舎は、
海に面しており、広い浴室から海を見ながら、
のんびりお風呂につかることができたと
記録されています。

 三島は、海岸には松林と玉砂利の砂浜があった、
気候温暖な土地でした。地元の民家には、伊予蜜柑
がたわわに実っていました。

 まるゆの隊員は、蜜柑事態珍しいので、食べまくって
いたようです(文章からは、代価払って購入したのか
勝手にもいでいたのかは区別がつきませんでした。

 まるゆ部隊のあった三島は、幸い大きな空襲はなく、
敷地周辺に機雷を6個投下されたくらいでした。陸上に
落ちてきた3個は、まるゆ部隊で解体し、海中に落ちた
3個は放置していましたが、終戦後付近を通った漁船に
被害が出ています。

(追記)
 紡績工場を接収した例は、終戦末期には目立って
多くなっていました。宇品にあった船舶練習部も、
紡績工場を接収したものでした。他にも、小豆島
や和歌山の工場を接収しています。

 戦争末期は、産業を重工業に軸足を移すという方針が
とられたため、紡績工場のような軽工業は、閉鎖に追い
込まれています。

 しかも、工場の建物や、広い敷地をそのまま利用できる
ので、軍が使うには都合が良かったといえます。

まるゆ まるハセで訓練 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 実際に、まるハセで訓練した、まるゆ部隊の方がいます
ので紹介します。このまるハセは、自動車のハンドルの
ようなものが足元にあり、足で操縦する構造でした。

 両手は、魚雷発射のための操作にかけるためにフリーに
したようですが、足で操縦するのは難しく、身をかがめて
手を伸ばして操船したこともあったと記録しています。

 しかも、速度を上げると水しぶきがガラス窓に当たり、
前方が見えなくなったり、ガラス窓が破損し、水没する
といったことがありました。

 訓練は静かな湾内で行っていたにもかかわらずこの状況
でしたので、外洋で運行するのは無理だったといえます。
相方の機関手と、「こんな船では死んでも死にきれま
せんなあ」と話していました。

 それでも、隊は訓練に明け暮れ、明日にも出撃という
緊張感が漂っていました。特攻隊ということもあり、
軍隊特有の制裁やシゴキはなく、階級に関係なく
付き合うことができました。

 まるハセは、実用艇の生産が遅れることがはっきりした
ため、隊は解散となり、本来のまるゆ部隊に戻っています。

 幸い、切腹用の軍刀を使うことはなくなり、家族から
足があるのかと聞かれ、まるハセを操縦した足を見せたり
していました。

(追記)
 特攻隊は、軍隊内でも神様扱いされ、世間一般が飢えて
いる中で、肉や卵、ご飯、魚のデザートといった食事が
提供されました。

 育ち盛りの少年兵にとっては、豪華なもので、ありがた
かったと同時に、確実に近づく死の観念が頭をよぎったと
記しています。

 このまるハセの部隊に配属された特幹の第二期生は、
上記の状況から生き残ることができた方が多数いま
した。特幹第一生との入学5か月の差が大きな違い
を生んでしまったといえます。

まるゆ 半潜水艇“通称まるハセ” [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 船舶練習部第一教育隊に配属されたまるゆ隊員は、
特攻のための教育を続けました。夜間に、小発
(小型発動機艇)による操船訓練を行いました。

 闇夜に浮かぶ海上目標にどう接近するかの訓練
でした。発光信号から、星座の勉強まで、実戦に
即した演習を行いました。

 しかし、肝心の特攻兵器がどんなものかは、全く
教えられず、見当もつきませんでした。

 部隊に配属されて、約一ヵ月が過ぎた頃、秘密
兵器の見本が1隻到着したので、見に行きました。
そこにあったのは、半潜水艇“通称まるハセ”
(○のなかにハセ書いたのでこう呼ばれています)
と名づけられた豆潜水艇でした。

 長さ10m、幅1.5mあり、中央のみ鋼鉄製で
前後が木製の2人乗りの小型艇でした。オットセイ
みたいな奇怪な形で、航走すると船体が沈み、操縦席
とハッチのみが水面に顔を出す構造でした。

 これで、5ノットの低速で、敵艦に近づき、両舷の
魚雷2本を発射するということでした。

 これまで、陸軍の特攻兵器は、肉薄攻撃艇(まるレ)
のように、爆音を立てて、大きな航跡を残して走ること
から、敵に発見されやすい物でした。

 まるハセは、半潜水艇であり、排気ガスを水中に排出
する構造になっていました。敵に発見されないような
工夫がなされていました。

(追記)
 まるハセは、魚雷を発射するようになっていましたが、
特攻兵器となります。陸軍の魚雷ですので、有効射程距離
は300mしかなく、「魚雷と共にぶつかって行け」と
訓示されていました。

 しかも、のちには魚雷が間に合わないので、艇首に1tの
爆弾を装備して体当たりするように改造されており、文字通り
の特攻兵器になっていました。

まるゆ 船舶練習部第一教育隊 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 1945年6月、広島湾に浮かぶ似島の深浦地区に、
船舶練習部第一教育隊という隊名を掲げた部隊が
新設されました。

 船舶司令部から要請を受け、まるゆ部隊からも、この
部隊に、60人ほどの隊員が、転属することになりました。

 この転属にあたり、3日間の特別休暇が与えられた上、
民間の汽車利用が制限されていた時代に、故郷までの
鉄道乗車券まで手配される至れり尽くせりの状態でした。

 このような処遇をうけるとなれば、ロクなことはないと
いうのが鉄則で、実際その通りでした。

 部隊に転属する時に、「自分の腹を切るための軍刀
ぐらい自分で用意しておけ」などという物騒なことを
言われて送り出されました。

 第一教育隊に着くと、そこは特攻隊養成所でした。
昼間の座学は、特攻をいかに納得させるかという
精神教育がメインでした。

 ちなみに、ここに呼ばれた人達は、下士官養成目的で
陸軍が設けた船舶特別幹部候補生隊、通称“特幹”と
呼ばれている人達の第二期生で、旧制中学を卒業
したばかりの、14歳~19歳くらいの少年でした。

 そのため、上記の教育を受けたくらいで、気持ちの整理が
つくわけはありませんでした。

(追記)
 特幹は、1944年2月に受験と合格発表がなされており、
合格者は4000人で、1800人が第一期生、残りの2200人
が第二期生として入隊しています。一期生と二期生は、同じ時期に
受験していながら、入隊時期は5カ月ほど離れていました。

 第一期生は、教育が完了し、フィリピンや沖縄で特攻作戦
につき、9割以上の隊員が敵に突入して亡くなっています。

 しかも、アメリカ軍の資料には、この特攻は奇襲攻撃となり、
相当の戦果が上がったという記録が残っていますが、特攻で
あるため帰還者が誰もおらず、日本軍は戦果の確認ができ
ませんでした。

 そのため、特攻戦死という扱いは受けず、ただの戦死として
処理されてしまいました。

まるゆ 沖縄への切り込み隊 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 まるゆ設計者の塩見少佐は、海軍士官から「まるゆが
できたら、海軍の潜水艦と共同作戦をやれば、太平洋の
どこでも上陸できるのではないか」と冗談を言われた
ことがあります。

 まるゆの効果的な運用方法としては、面白い構想と
いえました。沖縄への切り込み隊は、この冗談を構想
にしたようなもので、見習士官の中から剣道、柔道、
空手などの有段者を主にした班を作り、1945年
3月から約一か月間訓練をしています。

 3月の末に、演習として川之江沖からまるゆに乗って、
夜陰に乗じて上陸し、その地にいたまるゆ部隊を、敵と
みなして司令部攻撃訓練を行い、成功させています。
訓練を張りきってやっていた成果といえます。

 日本刀と銃剣で、百人・千人切ってやるという、近代戦
とは思えない、時代錯誤の勇ましい歌まで作られるほど
でしたが、時すでに遅いといえました。

 この切り込み隊は、陸軍部から、まるゆは本来の任務に
邁進すべきという命令が出され、表向き解体となりま
したが、終戦まで訓練は続けられていました。

(追記)
 アメリカ軍が、上記の切り込み隊とほぼ同じ構想の作戦を
実施しています。1942年8月17日に、中部太平洋の
ギルバート諸島のマキン島に対し、アメリカ軍の海兵隊
220名が、潜水艦2隻に分乗して奇襲攻撃を行って
います。

 10日間にわたる狭く熱気に蒸せた艦内生活ののち、
日本軍守備隊73名がいる島への上陸を行い、激戦を
繰り広げてほぼ全滅させ、装備を破壊し、潜水艦で
引き上げています。

 この時の切り込み隊の副隊長が、時の大統領の長男
だったことから、奇襲作戦成功はアメリカ中で、宣伝
されました。

まるゆ 十号艇の改造 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 1945年3月頃、まるゆ十号艇は、日本製鉱所で
建造されました。ここに艤装員として派遣された
上等兵は、昇降口のハッチが、これまでのまるゆ
に比べ大きくなっていることに気付きました。

 なぜ、大きくしたのか将校に確認すると、「沖縄
斬り込み隊を乗せるために、迅速に艇内からハネ
出せるように考えられた」ということでした。

 一同、へえーと顔を見合わせていました。この頃は、
残された手段が特攻のみという情勢でした。

 まるゆも軍艦同様、製造過程で戦訓を取り入れた
設計変更が行われており、十号艇の改造もその一貫
でした。

 もっとも、変更された理由は、軍需品積載方法を
改善するためとなっており、一連の変更で、5t
積載量が増加しています。

 一方で、切り込み隊の計画は、実際に存在して
いました。まるゆを利用して、敵の上陸地点に
逆上陸するという計画でした。

 暗夜を利用して敵の上陸地点に潜航し、ハッチを
あける程度に浮上し、準備した筏やゴムボートで
上陸するという構想でした。

 このために、密かに上陸要員をまるゆ1艇分(30人)を
選抜し、主として近接戦闘、格闘、乗下船、上陸動作など
の訓練を1か月ほど実施していました。

 このような勇ましい話は、血の気の多い若者には受ける
とあって、志願者が殺到し、なだめるのに苦労したという
話が伝わっています。

(追記)
 まるゆは、海軍の協力を得て、「まるゆⅡ型・潮」と
命名された大型のまるゆ建造が行われていました。終戦
で間に合わなかったものの、完成すれば、排水量400t
で、機器の自動化が図られたまるゆになる予定でした。

 マニラ派遣隊の生き残りの人たちが、「報告せよ」の
強い命令を受けて帰国していることから、戦訓を十分に
取り入れていました。

まるゆ 陸軍と海軍の搭乗員5人を救助 [陸軍潜航輸送艇まるゆ]

 長崎の口之津を基地としていた松岡中佐が指揮する
まるゆ十号艇は、1945年7月頃、南西諸島へ物資
補給のため南下していました。しかし途中で、大型の
暴風雨に遭遇し、艇員全員が体力を消耗してしまい
ました。

 そこで、近くにあった島に寄港しました。この島は、
鹿児島県の南西60kmほどのところにある黒島で、
女性と子供、老人が200人くらい住んでいた島
でした。

 ところが、ここに、陸軍と海軍の搭乗員が5名ほど
おり、助けを求めていました。黒島は、沖縄へ向かう
特攻機の空路の基点であったため、不調の特攻機が、
付近に落ちてきていました。

 この頃は、陸軍も海軍も、すでに引退して練習機に
なっているようなオンボロ飛行機行機で特攻を命じて
おり、不調の機体があるのは当然といえました。

 十号艇は、任務である輸送があるので、帰りに立ち
寄って収容すると約束し、2週間後約束通り、陸軍と
海軍の搭乗員5人を救助しています。

 しかし、やけどを負っている搭乗員がいたものの、
まるゆにロクな薬はなく手当は不十分でした。

 助かった海軍の搭乗員は、陸軍が潜水艦を持っている
ことに興味を持ちましたが、安定性の悪さで、船酔いに
苦しめられることになり、「助けてもらって文句を言う
のも何ですが、七転八倒の苦しみだった」と述懐して
います。

(追記)
 まるゆ十号艇は、黒島で5人の搭乗員以外に、遺体と
なって漂着していた海軍兵の遺骨二十体分を受け取って
います。

 これは、島民の話では、大和の乗組員たちで、黒潮に
乗って黒島へ流れてきたとのことでした。

 大和が沖縄に向かう時に遭遇した岡田教官といい、この
まるゆ十号艇といい、まるゆと大和の間には、因縁のような
ものがあります。
前の10件 | - 陸軍潜航輸送艇まるゆ ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。