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巡洋艦大淀 内地到着 [巡洋艦大淀]

 夕刻、どこから飛んできたのか、哨戒機が 1機、艦の上空を低空で旋回し、バンクを しながら飛び去っていきました。  洋上で、味方機に出会うほど、嬉しい ことはありませんでした。その後を追う ように、大淀は、快走していました。  艦内は、暖房が通され、温かい風が 吹き出していました。哨戒機の飛び 去った空は、きれいな夕焼けでした。  第三配備を解いた艦内は、全員が 居住区に戻って、夕食をしました。 みんなの顔に喜色が溢れていました。 内地での上陸を楽しみにしているよう でした。  早速靴を磨きだす者や、久しく着ることの なかった冬服を引っ張り出して、手入れして いる者、もう誰も非番だからといって、 眠っている者はいませんでした。  「大淀は、秘密命令を受けているの だから、内地に着いても上陸など許可 されないぞ」「横須賀に着いたら、すぐ 出撃するのだから、あまり期待すると、 後でがっかりするぞ」と言って、 脅してくる者がいました。  しかし、「もしかしたら休暇が出るかも 知れない」という、乗組員の期待に応える かのように、大淀は横須賀を目指して、 闇の中をひた走っていました。  夜明け頃、大島近海を通過し、遥か 彼方に本土が見え出しました。やがて、 そそりたつ房総半島の岸壁を右手にして 東京湾に入ると、三浦半島が朝もやの 中に浮くように見えました。  奇妙なリズムの入港用意のラッパが 鳴り響きましたが、非番の者は、既に 上甲板で久しぶりの内地を眺め 回していました。  湾内の漁船から手や帽子を振られて、 迎えてくれ、大淀からもそれに応えて、 みんなで手を振りました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 船酔いとの戦い [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、艦長と航海長の会話を聞きながら、 今にも胸がむかついて吐きそうになるのを 懸命にこらえていました。何度も胃の内容物が、 口の中目掛けて突き上げてきました。  腹の中は、煮え繰り返し、溶岩を噴出する 火山のようでした。それを押さえに押さえて いますが、押さえきれず、ついに口の中 いっぱいに含んでしまいました。  それを懸命に飲み込むと、全身から 油汗が吹き出し、体中に悪感が突っ 走って気が遠くなってきました。顔面から 血の気が引いてゆくのがわかりました。  しかし、しばらくすると落ち着いて、 いくぶん楽になりました。「船に酔って 嘔吐しそうになったら、それを飲み 込むのだ。吐くと癖になる。」と 聞いていたので、実行してみましたが、 難しいものだと感じました。  しかし、当直中にトイレに行くことは 許されませんでした。見張りは、運命が かかっている大事な役目であり、艦長が いる前で不始末ができるわけありません でした。  1時間ほど経ち、嘔吐だけは切り抜け ましたが、なんとも言いようにない不快感は、 少しも薄れませんでした。  小淵氏は、艦長や航海長が言った、 「艦が揺れるほど、腹が減る。」などと いうことが本当にあるのだろうかと 感じました。  翌日になり、あれほど荒れ狂っていた 怒涛も、うねりのみを残して、静かな洋上に なりました。航行中の戦闘分隊員は、 当直時間以外は、本当によく眠って いました。  「朝寝して、夜寝る分も昼寝して、時々 起きて当直に立つ」という状態でした。 古参の下士官などは、「時々起きて、 居眠りをする」ということでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 荒天時の見張り [巡洋艦大淀]

 昼近くなり、「荒天準備」の号令が なされました。上甲板への出入口は、 完全に締め切られました。  しかし、通気口からも海水が流れ込む ので、艦内の換気は止められ、通気口も シートで覆われました。  甲板上は、波浪が滝のように洗って いました。見張台も吹きつけるしぶきで、 当直者は雨衣を着ていても、濡れ鼠と なりました。  小淵氏は、これだけ荒れた海は 初めての経験でした。1万t以上の 軍艦が、木の葉のように激しく揺れる とは想像もできませんでした。  寝ている人もシートごと滑り出す 有様で、吊床の方が良さそうでした。 夜食には、珍しく汁粉が出ましたが、 小淵氏の胃袋は、30分と保たず、 船酔いと一緒に出てしまいました。  こんな激しい嵐の時は、何もしないで 寝ていたい気分でしたが、朝食が済むと 見張り当直がまわってきました。本来、 見張台にいれば、波しぶきは浴びますが、 船酔いはおさまりそうでした。  しかし、このときの当直は艦橋で、 風防ガラスで覆われて、しぶきが かかることはありませんでした。  艦橋には、篠田艦長と、内田航海長が つめていました。すぐ脇の双眼鏡についた 小淵氏は、緊張しながら見張りにつきました。  艦が激しく揺れている時に、双眼鏡を 覗いていると、目がまわり、頭の中を 何かでかき回されているような不快感が、 襲ってきました。  そのような時に、艦長と航海長の会話が 聞こえてきました。「今日はよくかぶりますね」 「気持ちの良い揺れ方だ」「これくらい揺れて くれると食事も進みますね」「申し分ないね。 昼食が待ち遠しい」というものでした。  小淵氏とは鍛え方が違うようでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 エメラルドブルーの海 [巡洋艦大淀]

 航海3日目の夜が明けました。当直 時間と食事の時以外は、誰も大概眠って いました。敵潜の雷撃もなく、航海は 平穏無事でした。  しかし、日没後、「トラック島が大空襲を 受けた」という噂が艦内に広がりました。 飛行場が奇襲され、300機の味方機が、 地上で撃破されたという、由々しき情報が 囁かれていました。  在泊艦にも被害があったようで、一緒に 碇泊していた輸送船団もだいぶやられた ことだと想像できました。大淀が、在泊して いたら、砲弾の3分2を陸揚げしていたので、 大変なことになっていました。  小淵氏は、あれほど整備された艦隊 根拠地が、大被害を受けたことは、 俄に信じられず、残念この上ないと しています。  航行4日目、無念な噂から一刻も早く 遠ざかりたいかのように、大淀は内地を 目指して突っ走っていました。艦内の 冷房が止められ、熱い南洋も、刻一刻と 遠ざかっていきました。  夜間の見張り当直に立った時、思わず 身ぶるいしました。吹きつける風が、肌を 刺すように冷たくなってきました。露天の 見張台に2時間も立つと、体が冷え切って きました。内地は今、最も寒い時期でした。  洋上は明け方から少し荒れてきました。 海の色が黒ずんで、寒々しく感じられ ました。鮮やかなエメラルドブルーの 海は、ずっと後方に去ってしまいました。  小淵氏は、エメラルドブルーの海を 想っただけで、暖かな感じがするとして います。そして、もう一度見る機会が あるだろうかと考えていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 トラック島出港 [巡洋艦大淀]

 トラック島が、薄暮に包まれようと している頃、「出撃用意」のラッパが 鳴り響きました。  戦闘分隊員は、当直者を除いて、 全員が上甲板の所定の位置に整列し、 艦が泊地を離れるのを見守りました。  泊地は、夕焼けに染められていました。 はじめてここに着いた時も、美しい夕暮れで、 感嘆しましたが、この日も、素晴らしい 眺めとなっていました。大淀は、錨を 巻き上げ、静かに動き出しました。  快速を誇る巨大な4つのスクリュ―の かき立てる波が、静かな泊地内に広がって いき、夕陽はやがて沈み、刻一刻と闇に 包まれていきました。  南水道に近づいた頃、「配置につけ」の ラッパが鳴り響きました。続いて、対潜準備の 号令がされました。  爆雷の準備や、敵潜に対しての警戒が 命じられるのは、いつもの通りでした。その後に、 訓練の対空戦闘や、水上艦艇との交戦を 想定しての戦闘訓練が2時間ほど行われました。  訓練が終わると、キャットライス(猫飯?)と 呼ばれる雑炊が出されました。小淵氏は、 なかなかうまいものだとしています。  航海中は、戦闘配置の待機所で起居する のが建前となっており、衛兵の当直はなくなり ます。しかし、見張りの当直は増員され、 戦闘配置の当直もその時の状況に応じて、 つきました。  大淀は、闇夜の洋上を単艦で突っ走って いました。快速艦の大淀は、このような単独 行動が適していました。  小淵氏は、航海中、見張り当直が、割り 当てられました。当直が済めば、後はあまり やることはありませんでした。他には戦闘 訓練ぐらいしかなく、甲板整列もなかった ので、待機所で寝ていることもできました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 出撃命令 [巡洋艦大淀]

 演芸会前日、艦内が沸き立っているところに、 突然作戦命令が出され、艦内演芸会は、 取りやめとなりました。皆張り切って練習し、 楽しみにしていたので、ひどく残念がって いました。  翌朝、出撃準備が出され、せっかく作った 舞台は、取り壊されてしまいました。基地内の 島からとってきた椰子の木やバナナの木などが、 後甲板の片隅に、無残に積み上げられました。  正月早々に苦労して積み込んだ主砲弾や 高角砲弾は、陸揚げが命じられ、3分の1ほど 残して陸揚げされました。理由をたずねると、 内地に帰るので置いていくということでした。  作戦命令が発令されてから、4日経ちました。 出撃準備はできていましたが、出港する気配は ありませんでした。小淵氏らは、「こんなことなら、 演芸会くらいやらせてもよかったのになあ・・・」と 不平をこぼしていました。  5日目になりましたが、出港しませんでした。 内地に帰れるという喜びより、演芸会が中止に なったことを残念がるものが多いようでした。 6日目になり、ようやく総員集合が掛けられ、 前甲板で艦長の訓示がありました。  内容は、「本艦は、ある任務を受けて、横須賀に 向かう。そこで次の作戦命令が待っている。」という ものでした。内地に帰って、どこかへ出撃する ようですが、場所は知らされませんでした。  この頃には、大和や武蔵はおろか、他の 戦艦も全くおらず、重巡洋艦もいつもの間にか 出港していました。正月のはじめには、艦船の 出入りがありましたが、2月になり、入港する 艦船も、めっきり少なくなっていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 演芸会 [巡洋艦大淀]

 演芸会を大淀で行うのは、これが始めて でした。上級者の話では、他の艦にいた時は、 面白い出し物計画されたそうでした。  小淵氏のいるニ分隊も、面白いストーリーが できあがり、毎夜練習が行われました。小淵氏も メンバーに入れられ、電路室に集まって、演劇好きの 横川上曹が演出者になり、兵長と上等水兵が メンバーでした。  演芸会は、分隊対抗となり、審査員は、 各分隊士がなりました。各分隊とも、内密で 練習を続けていました。小淵氏らは、 演芸会の日を楽しみにいていました。  ある日、上曹に何の役をやるのか聞かれ、 「原住民です」というと、「原住民に向かないな」と 言われました。そこで、小淵氏は、「当日は、煙突の ススを全身に塗ります。」というと、「それは面白そうだ。」と 言われました。  そうこうしているうちに、演芸会の日が明日に 迫りました。工作家の人達や、各分隊からの 作業員で、後甲板に立派な舞台が出来上がり、 飾り付けを行っていました。  その夜、居住区を使って、最後の総仕上げを することになりました。劇中の人物は、艦内の 器具などの名称を付けて呼ぶ、「西洋風の喜劇」で、 ダビット公、ラッタル姫、デリック、オスタップなど、 珍妙な名前がつけられました。  名前を聞いただけで、吹き出したくなるような 喜劇で、優勝は、我が分隊がもらったとばかり、 賞品の皮算用するものまでいました。艦内は、 にわかに沸き立ちました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 兵は迅速を以って事に当たるべし [巡洋艦大淀]

 艦隊勤務の戦闘分隊員には、各種の 当直が割り当てられていました。  見張り当直、衛兵当直、時鐘番兵など でしたが、それらも一通り体験した小淵氏は、 艦内の電話交換手の当直に、まわされたことが ありました。  交換室は狭い場所で、そこで3人一組に なって直をしますが、始めのうちは、つなぐ ために挿し込む位置を探すのも苦労して いました。馴れてくると、言われた所に すぐに手が届くようになってきました。  電話交換室は、小淵氏の戦闘配置である、 発令所のすぐ下にあるので、戦闘訓練の時は、 すぐに配置につくことができ、都合が良い 場所でした。  これが、見張員の直の時は、正規の 見張員が駆け上がってくるのを待って、 申しつぎをし、艦の最低部にある発令所に 駆け降りる必要がありました。  見張所から、発令所までは、14階の ビルほどの高さがあり、上がってくる ものを避けて降りる必要があるので、 大変でした。  「兵は迅速を以って事に当たるべし」で、 海軍では、迅速・確実・静粛がモットーと されていました。敏捷に動き回らなければ ならない艦隊勤務では、南洋ボケに なりたくても、なれそうにありませんでした。  艦内は厳しい訓練に明け暮れてるものの、 戦争も中休みのような平穏な毎日が続いて おり、新聞など手に入らないので、噂が 広まることになりました。  そんな中、2月に入って1週間ほど 過ぎた頃、大淀艦内で、演芸会が 開かれる事になりました。そのため、 勤務時間が済んでから、各分隊で 練習が行われました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 本当の歓び [巡洋艦大淀]

 2月になり、停泊していた軍艦が、 めっきり少なっていきました。大淀は、 離れたところに停泊していたので、 気をつけていないと気づきません でした。  艦内では、時々スコールを利用して、 洗濯が行われました。甲板に帆布を 張り、雨水をためて、洗濯したり体を 洗ったりしました。ちょうど乾季だった ので、時々しか雨は降らず、貴重でした。  それは、艦内での入浴は、10日に 一回くらいですが、上等兵や一等兵の 番になるころには、上がり湯もなく、浴槽の 湯も、ドロドロになっていました。  浴室内の熱気で、汗を拭き取り、わずかな あがり湯の配給で、体をしめらすのが 入浴でした。  週に一度の酒保開きに、艦内で作っている ラムネが配給されました。さらに、月一度、 戦給品としてタバコと羊羹などの菓子が、 配給されました。この量は、下士官も兵も 同じでした。タバコに用がない小淵氏は、 お菓子と交換していました。  ラムネの製造と、戦給品の配布は、小淵氏が 所属している第二分隊の兵曹が行っており、 小淵氏は、手伝いとして呼ばれていました。 手伝いは、何かしらありつける役得があり、 楽しみにしていました。  このように、前線基地での厳しい艦隊勤務の 中でも、楽しいことはかなりありました。苦しみの 中にある些細な楽しみこそが、本当の歓びでした。  ここまでの小淵氏の手記を見ると、下級兵に とって艦隊勤務は苦難のるつぼだと思われますが、 現実には、気の持ちようで、誰もが国家の大目的の ために、自己を滅しての勤務なので、苦難や 試練も前向きに昇華できました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 現地民 [巡洋艦大淀]

 島の反対側にきた小淵氏は、石を 積み上げた堤防で釣りをしている人を 見つけました。  40年配で基地の設営に来ている 軍属のようでした。バケツには、 うなぎのようなものが6匹程おり、 きくとウミヘビということでした。  石垣から、頭を出しているのが数匹 見えました。おかしな形のカニなども いて、水族館の水槽を覗いている ようでした。  時々、現地の子どもが、物欲しそうな 顔つきでついてきました。話しかけても 何も答えませんでしたが、「コンパニー」 と言うと、ニヤッと笑いました。  大人の現地人は、何となくノッソリとして いましたが、子どもたちは敏捷でした。この 子どもたちには、日本名の太郎や次郎などが 付けられているということでした。  椰子の木で覆った丸太小屋の中で、老齢の 現地民が、「タバコ」と手を差し出していました。 仲間が何本かのタバコを渡すと、素早くしまい 込んで、次にやってくる者に同じようにねだって いました。  この島の人達は、派手な色柄の服を着て いました。現地民の中に、色白で整った顔の者も いましたが、それは、スペイン人との混血だと、 下士官が教ええくれました。  すっかり陽焼けした小淵氏らより、はるかに 色白で、「色は黒いが南洋じゃ美人」と 言えそうでした。  島を歩き回っているうちに、またたく間に 時間が過ぎ、早目に桟橋へ戻っていないと、 乗り遅れて、カッターを自分で漕いで帰艦 しなければなりませんでした。  上陸があると、艦内は、椰子の細工や、 パイプ等がはやりました。パイプは、現地の 材料で艦内で制作したもので、こんな楽しみ しかないトラック島泊地なので、艦長も黙認 していました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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