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巡洋艦大淀 艦に馴れる訓練 [巡洋艦大淀]

 1943年7月9日に、南海守備隊乗艦させ、 トラック島を経由してラバウルに輸送しました。  7月26日に輸送任務が終了し、トラック島で 猛訓練を続け、10月17日にクェゼリン、ヤルート島 方面に進出し、10日ほど警備に当たりました。  再びトラック島に戻り、猛訓練が続けられ ました。この頃には、新造艦にありがちな、 乗組員の訓練不足は微塵もありません でした。  乗組員は、内地の夏から常夏の島々を 航海していたので、南陽の原住民といった 肌色になっていました。  このような時に、小淵氏は転任しました。 日焼けはしておらず、ひと目で新入りだと 分かりました。艦船では、新乗組員を、特に 目をつけて、重点的に教育していました。  大淀の最下級兵は、1943年5月入団で、 次が、1943年1月でした。小淵氏は、 1942年9月入団の上等水兵ですが、 乗組員の底辺になりました。大淀の 乗組員となった時、小淵氏は16歳8ヶ月 でした。  艦船の日常勤務は、厳格そのもので、 若かろうが、老いていようが、各自の任務は 果たさなければなりませんでした。  階級も厳然として分類されており、あらゆる ことに自己の立場をわきまえて行動しなければ なりませんでした。  さらに、1万tを超える大淀艦内の様子を 覚えるのに、かなりの日時を必要としました。 そのため、艦内見学として艦内の様子に 馴れさせる訓練が行われました。  しかし、このような訓練が行われたのは、 最初だけで、この訓練を受けていても、 迷路のように入り組んだ艦内は、一度や 二度案内されたくらいでは、覚え込むことは できませんでした。  まして、このような訓練をされない小淵氏は、 器具倉庫と言われても、それがどこか分かりません でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 経歴 [巡洋艦大淀]

 大淀は、最新鋭の巡洋艦といわれるだけ あり、艦内は冷暖房設備が完備されて いました。  どこへ行ってもダクトから冷風が吹き出し、 快適な温度に保たれていました。艦内の 諸設備もすぐれた装備になっており、 居住性は抜群の艦でした。  ここで、小淵氏は、大淀の経歴を紹介して います。大淀は、1942年4月2日呉海軍工廠で 進水し、1943年2月28日に竣工しました。 命名は、九州宮城県の大淀川からとったと されています。  大淀の祭神は、命名した土地の宮崎神宮に 初代艦長が参詣して分神を奉じたものでした。 大淀は、当初潜水艦隊の旗艦として計画された、 特殊軽巡洋艦でした。  当初は、8000tでしたが、4度の変更があり、 異型の軍艦として誕生しました。大淀は、航空 巡洋艦と呼ばれ、最新鋭の水上偵察機6機を 搭載することができました。  カタパルトも、全長44.5mあり、普通の カタパルトの倍の長さがありました。大淀は、 機動艦隊の前衛強行偵察機母艦として 竣工しました。  排水量は、10600tとなり、軽巡洋艦と しては、飛び抜けた大きさで、同時期に 建造された阿賀野型が7700tであるのと 比較すると、異色の軽巡洋艦と言えます。 重巡洋艦の古鷹より、長大な船体となって いました。  竣工後は、横須賀港への訓練航海及び、 東京湾周辺の警備に当たりながら、乗員の 練磨が続けられました。1943年6月8日に 陸奥が原因不明の爆沈をした日、泊地周辺の 警備を担当していました。  初代艦長の富岡定俊大佐が、4月1日に 栄転された日、二代目艦長篠田勝清大佐が 着任されました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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