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木村昌福中将 木村中将の名言 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 最後に、将口氏のあとがきを紹介します。

 将口氏が木村中将のことを確認したいと
思ったのは、インパール作戦で生還しながら
日本に帰還しなかった元日本兵を追った、
「未帰還兵(かえらざるひと)」の取材をした
ことがきかけだったとしています。

 牟田口廉也指揮官の命ある兵士を
ただの兵力としてしか見ない無能指揮官を
見たことが、木村中将の事を確認したいと
思った動機だったようです。

 日本軍には、日露戦争の時と違い、無能の
烙印を押されるような指揮官が多数いました。
後世に伝えられる有能な指揮官はいないのかと
探し、木村中将の名前が思い浮かび、取材した
としています。

 将口氏が生まれた時には、木村中将は他界
していたので、直接お会いしたことはなく、
次男の氣氏と、キスカ撤収作戦の時、旗艦
阿武隈の通信参謀をしておられた星野清三郎氏に
取材し、木村中将の素顔を知ることができたとしています。

 木村中将は、当時、撤退という言葉自体が禁句
だった時に、撤退という後ろ向きの作戦に対し、
乗員の目的意識を高く保ちながら、作戦を
遂行した器量の持ち主だとしています。

 しかも、この作戦では、木村中将は、上層部の
非難をかわし続けたことと、部下が迷った時のみ、
責任は自分が取ると公言してすべてを任せる
ということに徹しています。

 死の直前、木村中将が、書道教室の子供たちの
ために、随想を書いています。

 「人の上に立ってものをするとき、部下の者に
仕事の一部を任せた場合、どちらでもよい事は、
その人の考え通りやらせておくべし。

 そのかわり、ここはこうしなければ悪くなるとか、
ここで自分が指揮しなければ、責任が部下に行く時は
猶予なく自分で指揮を執ること。人の長たる者、
心すべき大事なことのひとつなり」としています。

 木村中将は、この言葉を実践した名将といえます。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 木村中将息を引き取る [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 手術後、木村中将の元には、見舞状が
届きました。

 木村中将の同期で親友の草鹿龍之介氏は、
「ブラジル渡航の意向ありとの報告を得、老来
ますます壮なりと感嘆いたしておりしところ、
誠に残念なる次第です。

 しかし、経過良好とのとのこと、まず何と申しても
不幸中の幸いとお祝い申し上げます。まず、一応
ブラジル行きは断念、全力をあげて長生きすること
こそ第一義と存じます」としています。

 その他にも、防府の書道教室に通っていた教え子
からも届いていました。

 この中で、木村中将を、「おじいちゃん」と呼んでおり、
東京の病院に入院しているのでお見舞いに行けない
ことを残念に思っていることを、したためています。

 お正月の書初めにも出そうと思っているので、
早く良くなって防府に帰ってきてください。と
結んでおり、励まされる手紙でした。

 しかし、年を越した1960年(昭和35年)2月13日の朝、
トイレで倒れているところを同室の患者が発見しました。

 妻の貞子氏が駆け付けた時は、すでに意識は
ありませんでした。午後1時45分、木村中将は
静かに息を引き取りました。68歳でした。

 2月21日に、鎌倉の英勝寺で、葬儀告別式が
営まれ、「春厳院泰徳瑞雲昌福居士」の
戒名が送られました。どの字からも、
木村中将の人柄が表れるような戒名
といえます。

 出棺の時、晴れていた空が、通過していた前線の
影響で、急に曇り、日食にあったような暗さとなりました。

 参列者は、天も木村中将の死を悲しんだのだろうと
囁き合っていました。


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木村昌福中将 胃がん手術 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 1959年、ブラジル行きを決意していた木村中将は、
8月に入り体調が悪化し、病院に入院しました。
胃がんでした。5年前に入院したときからあったもの
ですが、周囲は胃潰瘍だと告げていました。

 すでに、腹を手で触っただけでも、しこりがあるのが
分かるほどに膨らんでおり、末期症状でした。
手術する事も出来ず、退院することになりました。

 夕暮れに、書道教室の教え子と一緒に、塩田の
小道を歩きました。木村中将は、「余命は幾ばくも
ないけれど、どのように過ごすか考えているんだ。」
と話していました。

 木村中将は、11月になり義弟が医師として
勤務する千葉大学付属病院を訪ねました。
千葉大学病院は、胃がんの権威とされて
いました。

 義弟に、「面白い話がある。僕は胃がんなんだ。
見込みを聞きに来た。手術はやるか。」と言い放ち
ました。

 義弟は、「やると言われるならやる。しかし相当
難しい。」と答えると、「後の医学とお前のために
役立つならばやる」と返答し、そのまま入院となり
ました。

 11月17日に、手術が行われました。そして、この
入院中に、「二の桝塩田組合」は廃止されることに
なりました。

(追記)
 木村中将は、自身が重い病気にも関わらず、何かに
つけ、同室の患者の面倒を見ていました。

 義弟も、痛い時は、痛いと言って言っていい。痛み
止めの薬はなんかいっぱいある。」と言いましたが、
「隣の患者は苦しそうだから、診てやってくれ。」などと
言い始める始末でした。

 後の医学に役立つならやるという言葉も、上記の
言葉も木村中将らしいといえるものです。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 ブラジル行き [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 製塩業の廃止が視野に入った1959年(昭和34年)、
木村中将は、職員の就職先に心を砕いていました。

 地元企業に再就職するというものもいましたが、
木村中将は、職員の一人が提案したブラジルに
行くという案に心を動かされていました。

 木村中将は、新天地に行くことを好んでいたので、
自分が率先していこうと考えていました。そのため、
次男の氣氏にブラジルの状況を調査するように
依頼しています。

 この木村中将の動きに対し、二の桝塩田組合の
者だけでなく、他の塩業組合からも希望者が多数
出ました。

 木村中将と一緒なら心強いと感じたからだと
言えます。安心感を与える器の大きさは、軍を
辞めた後も健在だったといえます。

 1959年5月25日の日記には、「ブラジル行きを
人はなかなか本当にしない。自分の年齢をもって、
彼の地に渡り果たして成果をあげるまで生存できる
かということがその一つらしい。

 我が国の現状を思えば、日本人を歓迎してくれる
広大なる天地ブラジルに一人でも多く移住して、
子孫の繁栄の一端となすべきである。

 自分は率先していく決意なり。若い者の希望者を
連れて、自分が斃るれば、あとは若い者たちがついで
やればよい。」と記しています。

(追記)
 礼号作戦を紹介している木俣氏が、木村中将に
お会いしたのは、1959年(塩業廃止の年)春でした。
上記の日記を書いた前後のころだと思われます。

 このとき、木俣氏は、木村中将自身から、「僕のような
方法は、時代遅れなんだ」という言葉を聞いています。
しかし、その言葉を発した中将の顔は、状況をなげく
様なそぶりはなく、転業により新天地に飛躍しようとする
青年を思わせたとしています。

 木村中将は、木俣氏もブラジルに行くことを誘っており、
塩田をやめて新天地でやり直そうとしていたといえます。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 塩業廃止 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 製塩事業は、戦前は、自給率20%くらい
でしたが、戦後は、各地で塩田が拡大して
いきました。

 1950年代からは、入浜式から流化式塩田に
転換され、これまでの10分の1の労力で、3倍の
塩が生産できるようになっていました。

 「二の桝塩田組合(開発の文字は抜けて
います)」も流化式に転換し、飛躍的に生産量を
伸ばしました。しかし、技術開発は、過剰生産を
引き起こし、整理廃止が進められることになりました。

 この措置は、「二の桝塩田組合」だけでなく、
防府市のすべての塩田が危機に陥りました。
木村中将は、専売公社と納戸の直談判しましたが、
容易にはいきませんでした。

 このころ、書には、「倚塩(いえん:塩に寄って
身を立てる) 木村昌福」と書くようになっており、
塩田経営に心底打ち込んでいた気概が込められて
いました。しかし、時流には逆らえませんでした。

 1959年11月30日、「二の桝塩田組合」は廃止され、
年内には、防府の製塩業がすべて廃業しました。

(追記)
 木村中将は、「個人の力ではいかんともしがたい時、
新たなる道を切り拓く勇猛心を出さねば。順調の時に、
偉そうなことを言って暮らすのは、誰でもできる。大変に
臨んで、人を導いてやることが大事なり。

 あとは、部下たちの若い人たちが、知力、体力を
総合してやっていく。大将たるものはそこに意義が
あるわけなり。」としています。

 木村中将は、塩業がうまくいかなくなることを想定し、
次のことを、考えていたといえます。そして、自分が
率先して行なうという決意をしています。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 太平洋海戦最大の奇蹟 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 1957年(昭和32年)文藝春秋11月号に、
「太平洋海戦最大の奇蹟」というタイトルで、
キスカ撤収作戦の記事が掲載されました。

 記事を書いたのは、海軍の後輩であり、
記事を書くことを、木村中将に許可を得て
いるので、木村中将自身は記事が出ることを、
知っていましたが、誰にも明かしていません
でした。

 木村中将の次男、木村氣(きむらのぼる)氏も、
記事が出ていることを知らず、友人から聞かされ
ました。しかも、この時点で、氣氏は、木村中将が
キスカ撤収作戦を指揮していたことすら知りません
でした。

 後に、氣氏が木村中将にこの記事をもって会いに
行くと、「知らせようと思ったんだが、言わなかったんだ」
と話していました。

 書道教室の子供たちからも、この記事のことを
聞かれました。「先生は兵学校卒業成績はビリ
だったのですか」と聞かれ、「そうだ。本当の戦の
ことは、本に書いていなかったからね」と応じて
いました(ビリではなかったはずですが・・・)。

 木村中将は、いつも羽織袴で過ごしていたことから、
子供たちからは、剣豪の塚原朴伝のように見えたようで、
「朴伝先生」と呼ばれて、親しまれていました。

 このようなチャーミングな所が、あったからだと言えます。

(追記)
 木村中将の日記には、わずかに記述がありますが、
感想は入っていませんでした。自慢が嫌いな木村中将
らしいといえますが、記事を書いてくれた後輩には、
感謝していました(お歳暮に、干し鮎をお送っています)。

 記事の反響も大きく、手紙が殺到し、防府で撤収作戦に
関する講演まで行っています。このお礼に、品物が届け
られた時、日記に光栄の至りと記しています。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 書道塾を開く [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 木村中将は、塩を売りさばくにあたり、かつての
部下に手紙を送って、協力をお願いしています。

 海軍の関係者だけでなく、東北や関東にも
出張して、町役場に納入する道をつけるという
ようなことんまで行っていました。

 販売した後の集金も、木村中将の仕事でした。
木村中将は、営業活動に精を出していたと
いえます。


 木村中将の、このような生活に対して、潤いを
与えていたのは、書道でした。もともと書が好きで、
部下の転勤や昇進の際に、揮ごうした書を贈って
いました。

 木村中将は、書がうまいということは、塩田
関係者に伝わり、教えてもらうことになりました。
最初の稽古は、1946年でした。最初のうちは、
希望者にその都度教える出稽古の方式でした。

 1951年からは、毎週火曜日に書道塾を開いて
いました。もっとも、月謝は取っておらず、紙代だけ
受け取っていました。

 子供たちには、日曜日に、木村中将宅で開いて
いました。子供たちには、書道だけでなく、手本とした
瀬山陽、李白、杜甫などの漢詩を、書き終えた後に、
朗読するということもしていました。

 木村中将は、子供たちにも腰が低く、丁寧に
教えていました。もっとも、子どもたちは、書道が
終わった後のお菓子が目的だったようなところが
あったようです。

(追記)
 甘いものが不足していた時期なので、子供たちが
喜ぶのは当然と言えます。木村中将の妻貞子氏は、
スイカなどの果物や、駅前の菓子屋で買ったお菓子を
差し入れていました。

 木村中将は、子供たちに、軍隊での経験を話し、
「故郷を出て、外を見ることが大切意だ」と聞かせて
おり、子供たちの成長を楽しみにしていました。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 組合の守訓 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 高島氏から融資された資金を元に、「二の桝
塩田開発組合」を発足し、木村中将は、
副組合長に就きました。

 組合長は、塩業組合長が就任していますが、
その他の経営にあたっているのは、通信学校の
教師や生徒でした。

 この後、銀行の融資と、大蔵省専売局の
認可を受け、正式に塩田事業がスタート
しました。木村中将の日記に、組合の
守訓が記されています。そこには、

 信義誠実をもって一身を製塩報国に捧げよ。
 研鑽練磨もって業界の向上を図れ
 偕和(かいわ)協調もって事業の公正明朗を期せよ
 奮闘戮力(りくりょく)もって社業の発達充実につくせ
 士魂商才もって剛健闊達の社風に生きよ
となっています。

 儲ける事が目的ではなく、塩田経営を通いて、
国や業界のためになることが第一でありると
考えていたようです。


 経営は、塩が専売公社統制下だったことも
あり、順調でしたが、専売公社に納品している
だけでは、売りさばくことができず、厳しかった
といえます。

 木村中将は、自ら先頭に立って、売りさばき先を
開発する必要が出てきました。

(追記)
 数年後、かつて木村中将の部下3人が、木村中将の
ところに尋ねてきました。最初に驚いたのは、ひげが
なくなっていたことでした。木村中将は、かつての
部下に、「今は商人だよ」と答えていました。

 ここで、木村中将は、「我々が戦争したのは、国のため
となっているが、結局は家族を守るためであったと思う。
わしが、塩を作ることで、国のために尽くしているのは、
戦場で戦うことと同じことであると思う」と話しています。

 海軍で闘ったように国のために働くのが、海軍魂だと
考えていたようです。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 製塩事業を始める [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 海軍しか知らず事業を起こす術を知っている
わけでもない木村中将が、借家住まいを続け、
民間人に頭を下げてまで製塩事業を始めた
かったのは、部下に職を提供したいという
一心でした。

 地元の有志の心をつかみ、全面的な協力が
受けられることになりました。地元の人たちは、
木村中将の軍人時代から変わらぬ、分け隔てない
姿勢に感動して、協力したのだろうと思われます。

 技術協力については、地元の有志で賄える目途が
つきました。問題は、事業のための資金でした。
木村中将は、軍人時代から懇意にしている
高島氏の家を訪れました。

 高島氏に製塩事業のために資金援助してほしい
というお願いをすると、最初は、「武士の商法は
成功しない。私がやっている帆船の責任者に
どうですか」と誘われました。

 しかし、部下のために製塩事業をしなければ
ならないと固辞しました。高島氏は、「これで
おやりなさい」とお金が入った包みを渡しました。
木村中将は、中も見ないで受け取り、帰って
いきました。

 防府に戻り、包みを開けると、今の価値で
2000万円ほどのお金がありました。

 証文も書かずに、2000万円ものお金をポンと渡す
高島氏も、それを確認もせずに受取り帰ってきた
木村中将も太っ腹といえます。信頼関係の厚さの
証明といえました。

(追記)
 木村中将と高島氏は、木村中将が、中佐時代に
佐世保で勤務しているときに知り合っています。

 高島氏は、真珠の事業養殖に成功している方で、
長者番付にものるような資産家でした。高島氏が、
軍人関係者を招いて宴会を開いたとき、木村中将は
中佐として末席に連なっていました。

 この宴会後、木村中将は個人的に、返礼をした
ことから親交が生まれました。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)

木村昌福中将 製塩事業 [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

 木村中将は、終戦を山口県防府市で迎えて
います。ここでは、県議会も務めた地元の
名士の尾中家の離れを住まいにして
いました。

 子供達は、鎌倉から学校に通っていましたが、
木村夫妻は、防府に残っていました。

 部下や生徒達の窮状に対し、木村中将は、
なんとかできないかと考えていました。ここで、
木村中将は、かつて校長を務めた通信学校の
使われていなかった土地に目を付けました。

 通信学校を建設するとき、学校を拡張する
予定で、塩田を買い上げていました。拡張
途中で終戦となったため、塩田の一部が
そのまま放置されていました。

 復員軍人の救済と、塩不足による製塩事業
奨励という二つの情勢があり、払下げしてもらえる
だろうと考えました。

 この案を発案したのは、通信学校で内務長を
務めた方でしたが、木村中将は、キスカ撤収と
同様、有能な部下の助言に従って、自ら責任を
もって判断しています。

 ただ、塩田があっても塩がすぐに生産できる
わけではないので、地元の組合長の元を訪れ、
協力を依頼しました。

 木村中将は、この地に赴任したのは、終戦の
一か月前であり、この地に縁もゆかりもない
というのが実情でした。

 本来なら、鎌倉の邸宅に戻り、自慢の庭で
過ごすこともできたといえます。

 しかし、木村中将は、部下を救いたいという
思いから、製塩事業を始めたいという思いが
強くなっていました。

(追記)
 防府は、江戸時代から長州藩の収入源として
製塩事業が行われていました。「防長三白」の
ひとつで、忠臣蔵で有名な赤穂と並ぶ塩の
生産地でした。

 潮の干満を利用した「入浜式」と呼ばれる
方法で、製塩をしており、海水を担いで海水を
運ぶ「揚浜式」より少ない労力で製塩が行われて
いました。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)
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