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木村昌福中将 ブラジル行き [木村昌福(きむらまさとみ)中将]

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 製塩業の廃止が視野に入った1959年(昭和34年)、
木村中将は、職員の就職先に心を砕いていました。

 地元企業に再就職するというものもいましたが、
木村中将は、職員の一人が提案したブラジルに
行くという案に心を動かされていました。

 木村中将は、新天地に行くことを好んでいたので、
自分が率先していこうと考えていました。そのため、
次男の氣氏にブラジルの状況を調査するように
依頼しています。

 この木村中将の動きに対し、二の桝塩田組合の
者だけでなく、他の塩業組合からも希望者が多数
出ました。

 木村中将と一緒なら心強いと感じたからだと
言えます。安心感を与える器の大きさは、軍を
辞めた後も健在だったといえます。

 1959年5月25日の日記には、「ブラジル行きを
人はなかなか本当にしない。自分の年齢をもって、
彼の地に渡り果たして成果をあげるまで生存できる
かということがその一つらしい。

 我が国の現状を思えば、日本人を歓迎してくれる
広大なる天地ブラジルに一人でも多く移住して、
子孫の繁栄の一端となすべきである。

 自分は率先していく決意なり。若い者の希望者を
連れて、自分が斃るれば、あとは若い者たちがついで
やればよい。」と記しています。

(追記)
 礼号作戦を紹介している木俣氏が、木村中将に
お会いしたのは、1959年(塩業廃止の年)春でした。
上記の日記を書いた前後のころだと思われます。

 このとき、木俣氏は、木村中将自身から、「僕のような
方法は、時代遅れなんだ」という言葉を聞いています。
しかし、その言葉を発した中将の顔は、状況をなげく
様なそぶりはなく、転業により新天地に飛躍しようとする
青年を思わせたとしています。

 木村中将は、木俣氏もブラジルに行くことを誘っており、
塩田をやめて新天地でやり直そうとしていたといえます。


紹介書籍:キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯  著者:将口 泰浩(しょうぐち やすひろ)


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