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重巡洋艦鳥海 雷撃処分 [重巡洋艦鳥海]

 鳥海では、前部機械室の復旧を試みていましたが、
意のようにならず操舵できる状態に戻りませんでした。

 この様な状況の中、司令部は、鳥海の自力航行も
曳航も不可能と判断し、駆逐艦藤波に、鳥海の乗員を
収容した上で、雷撃処分するよう命じました。

 午後9時50分、駆逐艦藤波から、「鳥海を自沈させた。
生存者を収容し、コロン泊地に向かう」という連絡がきました。
この収容者の中に、鳥海艦長の田中大佐はいませんでした。

 コロンまでは、普通一日以内の距離でした。藤波は、
損傷していましたが、通常航海には差し支えない程度
だったと見られています。しかし、26日深夜から27日の夜を
迎えても、藤波からは、上記の連絡以降、何も通報がありません
でした。

 状況から、藤波は、27日に、敵空母の艦載機による
空襲により撃沈したとされています。藤波の乗員、及び、
収容された鳥海の乗員共に、一人も助からなかったので、
詳しい状況は分かりませんでした。

 鳥海は、開戦以来一貫して、艦隊旗艦を務め、小沢治三郎、
三川軍一という両提督の戦史に輝かしい一ページを飾りました。

 兵器の新規増設や改造を行うことをしなかったにも関わらず、
重巡洋艦野中でもっとも活躍したといわれる艦となっています。

 鳥海も武勲の艦といえます。

(追記)
 筑摩は以前紹介しました通り、救助した野分が
撃沈され、一人だけアメリカ軍に救助され、その他の
筑摩、野分の乗員は、助かりませんでした。熊野の救助に
向かった早霜も、敵の攻撃を受け撃沈しました。

 艦隊から脱落したり、救助に向かったた艦の中で、
この時脱出に成功したのは、重巡洋艦の熊野と、
鈴谷の乗員の救助をしていた沖波だけでした。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 大破する [重巡洋艦鳥海]

 栗田長官の追撃中止の命令は、最前線で戦っていた
重巡洋艦部隊にとって納得のいくものではありません
でした。

 敵と砲撃戦を演じていた利根と羽黒は、敵から10km以内の
近距離におり、他にも戦艦榛名が敵空母第二群を発見して、
接近中でした。しかし、追撃により、艦隊自体が広く展開して
しまい、栗田長官はまったく状況を把握していませんでした。

 (レイテに突入することが目的で、この砲撃戦は意図した
ものではないので、適当にケリをつければよいと判断した
可能性があります)。

 しかしながら、追撃の中止は問題が多数発生しました。
一つが、広く展開していたため、集合するため2時間の時間を
要したことです。貴重な時間のロスでした。

 さらに、追撃中止の命令を出した段階では、敵機からの
攻撃を受けていたということがあります。そのため、敵の攻撃で
脱落していた鳥海は、さらに攻撃を受けることになりました。

 鳥海は、追撃中止の命令の50分後の午前9時50分に、
前部の機械室に爆撃を受け、大破しました。下甲板にある
機械室が破壊されたということは、甲板を貫いて、内部で
爆発したことを示しており、致命傷と言えます。

 鳥海の警戒のために、かつて鳥海の艦長を努めた
早川少将が率いる第二水雷戦隊から駆逐艦藤波が
派遣されました。

(追記)
 この時、脱落していた重巡洋艦は、鳥海の他、筑摩と
熊野、鈴谷がいました。筑摩については、駆逐艦野分が
ついています。筑摩も、この時は、鳥海と同様に破損して
いました。

 熊野は、早霜が警戒につきました。熊野は、この後、
1ヶ月も奮闘しており、まだ余裕があったと言えます。
 一方で、鈴谷は、誘爆により、この日のうちに撃沈して
います。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 被弾し落伍 [重巡洋艦鳥海]

 鳥海ら重巡洋艦戦隊は、敵を第十戦隊が待ち受ける
海域に追いつめることに専念していました。

 鳥海は、丁度、スコールで視界が妨げられたとき、
上空からの急襲を受けました。午前8時50分、
鳥海は、左舷中央に被弾し、落伍しました。

 続けて、筑摩が、艦の中央に、魚雷を一本受け、
航行不能となり、重巡洋艦戦隊から落伍しました。

 重巡洋艦戦隊は、勝利が目前に迫っていることも
あり、鳥海らの損傷艦のために追撃を中止することは
しませんでした。

 将旗を掲げる羽黒が先頭に立ち、利根が続いて
いきました。距離が近くなったこともあり、命中率が
上昇していきました。

 栗田長官は、海軍部に対して、「われ空母3隻に
砲撃中」と入電しました。戦艦の主砲が届く距離での
戦闘なら、日本軍に有利だと判断し、豊田連合艦隊
司令長官は、全軍に、「敵を猛追せよ」と下命しました。

 そして、栗田艦隊の戦果が、次々と入電してきました。
その中に、エンタープライズ級の空母3~4隻というものが
ありました。これらの戦果は、連合艦隊にとって、久しぶりの
朗報でした。

 ところが、栗田長官は、午前9時、被害は出ている
ものの、日本軍が有利に進めていた状況で、追撃中止を
命じています。

(追記)
 栗田長官の報告を受けた海軍部は、栗田長官が、戦艦に、
軽巡洋艦や駆逐艦を随伴させていることに、疑問を持って
いました。

 空母は、戦艦より速力があるので、追いつくはずはなく、
高速の軽巡洋艦や駆逐艦を、戦艦に随伴していては、
捕捉できないと考えていました(宇垣司令官も同様の
考えでした)。

 サマール沖海戦では、アメリカ軍の空母は軽空母なので、
速力は日本海軍でもっとも遅い長門より遅かったので、
捕捉できたというのが実態ですが、正規の機動部隊と
砲撃戦になっていたら、陸軍部の考えどおりになって
いたと思われます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 追撃戦 [重巡洋艦鳥海]

 敵艦隊は、煙幕をはりながら退避を続ける一方で、
航空機に対して、2~3機の編隊で、分散攻撃を
かけたり、駆逐艦による砲雷撃戦を挑んでくるなど、
混乱しながらも、効果的に時間稼ぎを行っていました。

 (参謀長は、我が艦隊が受けた航空攻撃の中で、
もっとも巧妙だったと述懐しています。)

 午前7時30分、栗田長官は、重巡洋艦部隊に
対して突撃せよの命令を下しています。鳥海と
羽黒は、33ノットの高速をいかして、20cm主砲を
放っていました。

 この時、第七戦隊の旗艦熊野が、艦尾に魚雷を
くらったため脱落し、旗艦を鈴谷に変えましたが、
鈴谷も攻撃を受け、速力が20ノットに減少し、
追撃はできなくなりました。

 重巡洋艦部隊は、利根、筑摩、羽黒、鳥海の順に
並んで、敵を追い砲撃戦を続けました。この砲撃戦の
最中、先頭を走っていた利根が被弾し、一時退避しま
したが、すぐさま復帰し、筑摩の後に続いています。

 巡洋艦部隊は、この海戦では被害が相次ぎましたが、
ひるむことなく、砲撃を続けていました。そして、第十戦隊
(野分や雪風、磯風らの水雷戦隊)と共同して、敵を南西
方面に追いつめつつありました。

 午前8時30分頃から、敵の機動部隊は、航空機による
攻撃を再会しました。第十戦隊や金剛らは、対空戦闘に
おわれることになりました。

 ここで、敵軍は、追撃をしてくる重巡洋艦がもっとも脅威と
認識し、攻撃目標を重巡洋艦に定めました。

(追記)
 敵が猛攻してくるときの殿軍は、重要であり、かなり危険な
任務といえます。サマール沖海戦の、アメリカ軍の殿軍は、
かなり高いレベルで対応しており、見事といえます。

 日本軍も、利根ら重巡洋艦部隊は、かなりの活躍をしており、
この点は、褒められるレベルといえます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 サマール沖海戦 [重巡洋艦鳥海]

 予期せぬ敵艦隊との遭遇に対して、栗田長官は、
「現陣形のまま全速で敵に接近し、敵空母の
発着機能を封殺、機動部隊を壊滅させる」と
決意しました。

 午前6時47分、榛名が敵機に対する対空砲を
浴びせたのを皮切りに、大和も対空砲で対空戦闘に
参加しています。

 同時に、鳥海をはじめとした重巡洋艦部隊は、
進出を開始しました。サマール沖海戦の始まり
でした。

 午前6時59分、栗田長官は、各戦隊に対して
戦闘開始を命じました。これに呼応し、大和が
46cm主砲を放っています。続いて、長門、
金剛、榛名と、栗田艦隊に所属する全戦艦が、
戦闘に参加しました。

 大和と長門にとって、初めての艦対艦砲撃戦
でした。

 敵艦隊とは30km程離れていたので、戦艦は
主砲の射程内でしたが、鳥海には遠すぎました。
鳥海をはじめとした重巡洋艦6隻(鳥海、羽黒、
鈴谷、熊野、利根、筑摩)は、陣形を整えることに
しました。

 栗田長官は、砲撃は戦艦に、追撃は重巡洋艦部隊に、
軽巡洋艦と駆逐艦は、潜水艦に対する警戒に当てることに
しました。日本軍は、積極攻勢ということもあり、徐々に陣形が
整ってきました。

 一方でアメリカ軍は、退避せざるおえませんでした。

(追記)
 サマール沖海戦は、日米双方共に予期せぬかたちで
出会ったため、陣形作りに手間取っています。大和を
はじめとする戦艦部隊は、大和と長門が陣形を整えて
いるときに、金剛と榛名は高速を活かして、敵を求めて
猛進していました。

 そのため、大和の艦首を榛名が横切るというようなことが
発生していました。これを見ていた宇垣司令官は、運用に
疑問を持ち、戦艦については、運用を任せて欲しいという
意見具申を栗田長官にして、了解を得るということをして
います。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 捷一号作戰の決行日 [重巡洋艦鳥海]

 10月24日、午後10時13分、栗田長官は、
「全艦隊は、目的達成のため、全力を戦闘に
傾注せんことを望む」と訓示しています。

 10月25日、捷一号作戰の決行日となりました。
栗田長官は、サン・ベルナルジノ海峡を通過
できるかを危惧していました。狭い海峡で、
大艦隊が縦陣で進んでいるので、砲撃
されたらひとたまりもないと考えていました。

 しかし、何事もなく通過しました。参謀長が、
「キツネにつままれたように感じた」と述懐して
います。これは、アメリカ軍が、日本軍の囮作戦に
引っかかったからでした。

 午前2時30分、西村艦隊からスリガオ海峡に
入ったという連絡がありました。午前5時30分、
栗田艦隊は、夜明けに備え対空警戒のため、
輪形陣をつくり、大和を中心に集結しました。

 午前5時32分、西村艦隊を追っていた
志摩艦隊より、西村艦隊が壊滅したことと、
最上が火災を起こしていることの連絡が
ありました。志摩艦隊からの連絡はこれが
最後でした。

 日の出の直後の6時23分、大和のレーダーが
敵航空機を探知しました。6時40分には、鳥海と
熊野からそれぞれ敵機を認めたという連絡があり
ました。突入するレイテ湾口まで、あと3時間という
場所でした。

 栗田艦隊は、敵に備えて変針したところ、突然、
前方に空母を伴う艦隊を発見しました。栗田長官は、
敵の機動部隊と判断しました。

(追記)
 栗田長官のいた大和の艦橋では、右側に栗田長官が
仮椅子に座っており、その後ろに幕僚が控えていました。
左側には、第一戦隊の司令部として宇垣司令官と、その
幕僚がいました。

 その他に、大和の幹部もつめていたので、総勢30名近くを
数えました。この様な状態では、大和の森下艦長は相当やり
にくかったと思われます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 全軍突撃せよ [重巡洋艦鳥海]

 立て続けに艦を失った第四戦隊で、唯一攻撃を
受けなかった鳥海は、第五戦隊で行動することに
なりました。

 栗田長官は、初動でつまづきを見せ、時間のロスを
生じたものの、その後はほぼ計画どおり航行を続けて
いました。

 しかし、栗田長官の指揮下にいた司令部の通信要員は、
栗田長官のいた岸波ではなく朝霜に移乗していました。

 朝霜は、高雄の随伴で戦場を離れてしまったので、
レイテ沖海戦に参加できませんでした。このことは、
少なからず影響したと思われます。

 10月24日、この日、栗田艦隊は、6回の航空攻撃を
受けることになりました。この攻撃で、戦艦武蔵が脱落し、
鳥海が新たに配属となった第五戦隊の旗艦妙高が
脱落しています。第五戦隊は、旗艦を羽黒に移すことに
なりました。

 他にも、大和が、第一砲塔前部、長門が通信施設などに
被害を受けました。矢矧が、至近弾、清霜が直撃弾による
被害を受けました。これらの攻撃により、栗田艦隊は、予定が
大幅に遅れることになりました。

 この頃、豊田連合艦隊司令長官は、これまでの戦況から
判断して、栗田艦隊が進撃を続ければ、海峡到達以前に
全滅することもありえると危惧していました。

 しかし、すべての艦隊は、栗田艦隊がレイテに
突入することを前提に作戦展開しており、
この時点では、作戦続行をする他なく、
「全軍突撃せよ」を命じなければ
なりませんでした。

(追記)
 アメリカ軍の資料では、愛宕と高雄を攻撃した
潜水艦ダーターは、次の攻撃準備中に、珊瑚礁に
乗り上げ座礁していました。

 ダーターのSOSを受けたのは、摩耶を攻撃した
デースでした。そのため、デースは次の攻撃を中止し、
ダーターを救助に向かっています。

 このことが、鳥海にのみ攻撃がいかなかった理由と
いえます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 旗艦を大和にする [重巡洋艦鳥海]

 栗田長官の、愛宕から岸波への移乗過程で、
司令部に空白が生じ、指揮系統の乱れがあり
ました。このことが、栗田長官に、心理的な
ダメージを与えました。

 立て続けに、愛宕と摩耶が撃沈され、高雄が
脱落となったことも戦力の低下になりました。

 しかも、高雄に駆逐艦を随伴させる必要性も
生じたため、対潜水艦警戒網が、手薄になる
という問題も生じました。

 栗田長官は、岸波の艦内で、第四艦隊で唯一
残った鳥海を第五戦隊(重巡洋艦妙高、羽黒)に
編入し、艦隊旗艦を大和とすることを決めました。

 とはいえ、対潜水艦警戒中に、速度を落として
司令部に移動することは、危険でした。しかも、
岸波の通信能力で、艦隊指揮をとることは、適当
ではありませんでした。

 結局、宇垣司令官が代理で指揮をとり続ける
ことになりました。結局、栗田長官や愛宕の乗員が、
大和に移乗できたのは、薄暮れになる午後3時40分
でした。

 第四戦隊は、戦場に到着する以前の段階で、
4隻のうち3隻が脱落し、戦わず海の藻屑と化
しました。

 重巡洋艦は、開戦以来もっとも撃沈数が少ない
艦種でした。レイテ沖海戦の時点で、撃沈して
いたのは、ミッドウェー海戦で沈んだ三隈と
第六戦隊の加古、古鷹、衣笠の4隻のみでした。

 諏訪氏は、このこと自体奇跡としています。しかし、
レイテ沖海戦では、最も不運な艦種は、重巡洋艦だ
ともいえるほど、ツキがなかったといえます。

(追記)
 高雄は、脱落後シンガポールのセレター軍港に
回航され、終戦まで生き残りました。

 しかし、1945年7月30日のイギリス海軍が、
豆潜水艇で、高雄に侵入し、時限式爆弾を
仕掛けたため、大孔があき、火薬庫が浸水し、
高角砲も旋回不能となっていました。

 このことを知らなかったイギリス海軍は、終戦から
一年以上も経った後、軍港から引き出して爆破して
います。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 愛宕、高雄、摩耶の脱落 [重巡洋艦鳥海]

 栗田長官が座乗する愛宕は、正面から疾走してくる
6本魚雷を見て、艦長は、「面舵いっぱい」の命令を下し、
敵側に転舵し、内側に回避しようとしました。しかし、舵が
効かないうちに、愛宕は激しく振動し、完全に停止しました。
この時、魚雷が4本命中しました。

 残りの2本は、愛宕の艦尾をすり抜け、後ろにいた高雄に
直撃しました。栗田長官は、巡洋艦は、攻撃力は強いが
防御力が弱いことを熟知しており、即時に旗艦の変更が
必要なことを直感し、駆逐艦を呼ぶように命じました。

 第二水雷戦隊の岸波と朝霜が愛宕に、長波が高雄に
駆けつけました。愛宕は、魚雷命中から20分後に撃沈
しています。

 栗田長官や艦長は岸波に、他の乗員は朝霜に移乗
しました。高雄は沈没はしなかったものの、脱落して
います。

 大和に乗っていた宇垣司令官は、次席の司令として、
指揮を引き継ぎ、艦隊に緊急回頭を命じました。

 10月23日午前6時56分(愛宕に魚雷が命中してから
22分後)、摩耶に魚雷が命中しました。摩耶は、魚雷
対策のためにバジルを追加していましたが、4本も
命中しては、効果はなく、4分で撃沈しています。

 (摩耶は、火薬庫に命中して誘爆したと言われており、
艦尾を高くはね上げ、沈没しました)。

(追記)
 駆逐艦岸波は、夕雲型15番艦で、艦これには現時点では
登録されていません。朝霜は、夕雲型16番艦で、艦これに
登録されています。

 岸波は、この後も、栗田艦隊の一員として行動しています。
朝霜は、脱落した高雄をブルネイまで送り届ける役目を命じられ、
上記の後、栗田艦隊から離れてしまい、レイテ沖海戦には参加
していません。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 重巡洋艦青葉の活躍 [重巡洋艦鳥海]

 マニラの湾口についたものの、マニラは敵機の空襲で
入港できなかったので、バターン半島の島陰に隠れて
過ごしました。この時、船体は左に傾斜し、上甲板は、
三番砲塔から艦尾まで水没していました。

 10月25日に、汽船に曳航されてキャビテ軍港沖に
到着し、応急修理を受けることができました。港内には、
レイテ沖海戦に参加して被害を受けていた重巡洋艦の
那智と熊野が停泊していました。

 ここでも空襲が相次ぎ、戦死者を出しています。
那智は、11月5日の空襲により撃沈しています。

 このままでは死を待つだけとなるので、11月7日に、
熊野らと隊列を組み、基隆まで帰投することにしました。
このとき、青葉が出せる速度は、最大で5ノットでした。

 出港3時間後に、潜水艦の攻撃で、熊野が脱落し、
青葉は単独で航行することになりました。熊野は、この後
サンタクルーズで修理中に敵機の攻撃を受け、撃沈して
います。

 青葉は、何とか基隆に到着し、速力を12ノットまで回復し、
12月5日に、呉に帰投しました。この時は、修理されずに
係留され、呉の空襲によって、艦尾切断の状態で着底し、
終戦を迎えています。

 青葉は、何度も満身創痍になるようなの活躍をして、呉で
終戦をむかえた艦といえます。

(追記)
 著者の諏訪氏は不運といっていますが、こうして見ると、
3回も沈没しかねない危機に見舞われながら、自力で
呉まで帰還し、修理後は前線に復帰していることになり、
むしろ幸運な艦と言えます。

 艦これでも、重巡洋艦のなかで見ると、飛び抜けて運の値が
高くなっており、幸運とみていることになります。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)
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