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重巡洋艦鳥海 重巡洋艦青葉 [重巡洋艦鳥海]

 レイテ沖海戦で最初の被弾した青葉について、
著者の諏訪氏は、詳細な記述しています。青葉は、
諏訪氏が、鳥海に乗り込んで参加している第一次
ソロモン海戦に、随伴艦として参加しているので、
印象深かったと思われます。

 青葉は、第一次ソロモン海戦では、第六戦隊
(青葉、衣笠、古鷹、加古)の旗艦として参加し、
鳥海と一緒に重巡洋艦4隻撃沈の戦果をあげて
います。

 第一次ソロモン海戦では、鳥海同様、報道
関係者を乗せて、鳥海と一緒に行動していま
した。しかし、この後は、第六戦隊自体が
不運に見舞われています。

 第一次ソロモン海戦の終了後の帰投中に、
加古が潜水艦の雷撃により撃沈しています。
そして、第一次ソロモン海戦の約2カ月後に、
サボ島夜戦に参加していますが、古鷹が
沈没し、衣笠が小破しています。

 青葉自身中破し、第一次ソロモン海戦で
第六戦隊を指揮していた五藤司令官が
戦死しています。

 この破損により、呉に帰還し、修理と改装を
実施していますが、この間に、衣笠が撃沈した
ため、第六戦隊は解隊となり、青葉は単独行動と
なりました。

 1943年4月3日、カビエン在泊中アメリカ軍の
空襲で被弾し、この命中弾により、魚雷が誘爆
するという被害を受けています。

 艦長は、沈没を防ぐため、浅瀬に擱座させています。
一ヶ月後、サルベージされ、川内に曳航されてトラックに
戻り、応急修理ののち、自力で呉に帰還しています。

 この後、レイテ沖海戦における陸軍輸送任務につき、
潜水艦の雷撃を受けたため航行不能となり、レイテ沖
海戦には参加できませんでした。しかしながら、青葉
自身は、この後も満身創痍になりながら活躍しています。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 最初の蹉跌 [重巡洋艦鳥海]

 1944年10月22日の午後、レイテに向けて航海
していた栗田艦隊は、敵発見の報告が相次ぎました。

 これらの報告は、真偽が不明なものが多く、誤報も
多数あったようでした。鳥海も、敵機を発見しています。
鳥海が発見した敵機は、艦隊に近づくことなく立ち
去ったため、何事もなく終わりました。

 同じ日の午後11時に、対潜水艦ようの運動である
之の字運動を打ちきっています。この後、予定通り
バラバック海峡を望みながら、北上を続けました。

 しかし、アメリカ軍は、日本軍を発見しており、潜水艦を
派遣していました。

 10月23日、陸軍を輸送する任務についていた第二
遊撃部隊の重巡洋艦青葉が、潜水艦の雷撃を受け、
航行不能となりました。

 マニラの目前ということもあり、僚艦の鬼怒に曳航され
マニラに到着しています。青葉は第十六戦隊の旗艦
でしたが、この後は、鬼怒に旗艦を移しています。
レイテ沖海戦における最初に蹉跌となりました。

 青葉が被害を受けつつあった頃、栗田艦隊自体が
敵の攻撃に晒されました。午前5時20分、愛宕は、敵の
潜水艦の無線を傍受していたこともあり、艦隊に対して、
「作戦緊急信を発信中の敵潜水艦の感度きわめて大」
との警告を発しました。

 午前5時30分、日の出の1時間前に栗田艦隊は、
之の字運動を開始しました。

 午前6時34分、之の字運動のため左に転舵しつつある時に、
正面から6本の魚雷が疾走してくるのを確認しました。

(追記)
 上記の時、隊列は、2列縦陣で、左先頭が、旗艦の愛宕で、
二番目が、高雄でした。右先頭が、鳥海で、その後ろが摩耶と
なっていました。

高雄型重巡洋艦が、揃って先頭を走っていたことになります。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 栗田艦隊出撃 [重巡洋艦鳥海]

 豊田連合艦隊司令長官は、1944年10月18日、
捷一号作戰を発動し、航空総攻撃を開始を24日、
艦隊のレイテ突入を25日の夜明けとする旨を、
関係各部隊に打電しました。

 10月21日に、栗田長官は、愛宕に各戦隊と
各指揮官を集め、最後の打ち合わせを行いました。
打ち合わせの後、スルメを肴に冷酒で乾杯し、作戦の
成功を祈っています。

 この時は、皆すっかり打ち解け、作戦はうまくいくと
信じていました。


 10月22日、第一遊撃部隊は、燃料補給を済ませると、
ブルネイを出撃しました。第一遊撃部隊は、大和や武蔵を
はじめとした戦艦5隻、重巡洋艦10隻、軽巡洋艦や駆逐艦
17隻の合計32隻で構成された、連合艦隊に残された決戦
艦隊でした。

 栗田長官は、少し遠回りになるものの、長距離哨戒機に
見つかりにくい、パラワン島西からシブヤン海を経由して
サン・ベルナルジノ水道に至る航路をとっています。

 この航路は、哨戒機には発見されにくいものの、
潜水艦の待ち受ける海峡を通ることになるルート
でした。

 空母が所属しておらず、上空の護衛なしに敵潜水艦が
待ち受けている可能性が大きい海域を突破しようという
無謀とも言える行動であり、この時点で、作戦の成功は
期待できないといえます。

(追記)
 航路は、栗田艦隊が通ったルート以外に、パラバック
海峡を抜け、ミンダナオ海に抜ける最短ルート(西村艦隊が
通ったルート)と、パラワン島東からシブヤン海に抜ける、
栗田艦隊の通ったルートより短距離のルートがあります。

 この2つは、哨戒機に発見される可能性が大きく、
西村艦隊の悲劇につながったともいえます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 栗田司令長官 [重巡洋艦鳥海]

 著者の諏訪氏は、この海戦で、栗田司令長官が、
旗艦を愛宕にしたことに注目いしています。通常、
旗艦は、攻撃力と防御力が優れている艦にして、
旗艦撃沈により司令部が停滞するのを防ぐ必要が
あります。

 マリアナ沖海戦で、旗艦の大鳳が海戦の早い段階で
撃沈したことで、この欠点を露呈していました。栗田
司令長官もこのことは分かっていましたが、大和では
なく巡洋艦の愛宕にしたのは、理由がありました。

 一つは、大和が所属する第一部隊の司令官が、
栗田司令長官と反りが合わない宇垣中将だった
ことです。

 当初、栗田司令長官も、大和を旗艦とすると
連合艦隊司令部に打診しましたが、却下
されています。

 栗田司令長官自身、宇垣中将の乗る大和を旗艦に
するという考えはあまりなく、却下されたのを渡りに船と
考えていた可能性があります。

 栗田司令長官は、旗艦が撃沈するリスクはあるものの、
戦場ならどの艦でも同じだと考えていました。

 二つ目の理由として、栗田長官自身が、水雷の出身で、
軽快な部隊の指揮に長じていたので、戦艦より巡洋艦の方が
性に合っていたということがあります。

 栗田長官は、開戦当初、鳥海と一緒に行動した熊野を
旗艦とする第七戦隊司令官として活躍しており、巡洋艦を
旗艦にすることに、違和感はなかったと思われます。

(追記)
 栗田長官は、海軍大学校も出ず、中央の役職でも
なかったので、進級は遅れており、司令長官に新補
されたとき、「一番驚いたのは自分だ」ともらした
という逸話があります。

 上記の言葉を見ると、栗田長官自身、司令長官という
役職に疑問を持っていた可能性があります。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 捷一号作戰 [重巡洋艦鳥海]

 著書は、レイテ沖海戦に飛びます。

 サイパンやグアム、マリアナ諸島がアメリカ軍に
占拠されたことで、日本軍の南方での防衛戦が
完全に崩れ、マリアナ基地から日本の本土を
直接爆撃する可能性が出てでてきました。

 大本営は、この対応として「捷号作戰」を策定
しました。この作戦は、アメリカ軍の進攻地点を、
本土、北海道、台湾、フィリピンと想定し、それぞれに
番号をつけて準備しました。

 その内、捷一号作戰とよばれたフィルピン方面の
作戦が実施されました。

 1944年9月17日に、アメリカ軍は、レイテ湾口の
スルアン島に上陸し、翌日には、航空攻撃、翌々日
には艦砲射撃も実施していました。

 9月18日に、大本営は、決戦をフィリピン確定し、
陸海空の全力を挙げて進攻に対して決選を指導する
という大方針を決めました。

 この時期は、航空戦力が大幅に不足しており、
積極的な作戦展開はできませんでした。しかし、
このまま手をこまねいていれば、自滅するのは
目に見えており、決戦にでるしかありませんでした。

 この様な中、鳥海は、第一遊撃部隊(栗田艦隊)の
第四戦隊に配属となりました。第四戦隊は、鳥海の
姉妹艦である、愛宕、高雄、摩耶らの高雄型重巡洋艦が
所属していました。

(追記)
 この海戦で、同じ第一遊撃部隊の中に、第二水雷戦隊が
配属されていました。軽巡洋艦の能代を旗艦として、島風や
早霜ら駆逐艦が10隻配属されています。

 この艦隊の司令官は、早川幹夫少将で、鳥海が活躍した
第一次ソロモン沖海戦で、鳥海の艦長を務めていた方です。
しかも、第二水雷戦隊は、レイテ沖海戦で、鳥海とは浅からぬ
関係を築くことになります。鳥海には縁があったといえます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 第一次ソロモン沖海戦終わる [重巡洋艦鳥海]

 第一次ソロモン沖海戦と呼ばれる戦闘が終わりました。
日本軍で、大きな被害を出したのは、旗艦の鳥海だけ
でした。対して、アメリカ軍は、重巡洋艦4隻撃沈、1隻
大破となっていました。

 重巡洋艦数だけで比較しても、日本軍5隻に対して、
アメリカ軍は6隻、総数も日本軍8隻に対して、アメリカ軍は、
17隻と圧倒的に日本軍の方が少なかったといえます。

 そのような中で、重巡洋艦による夜戦という方法で戦果を
あげたのは評価できるといえます。この夜襲における戦果を
聞き、山本五十六長官は、欣喜雀躍しています。

 アメリカ軍は、著書で、「アメリカ海軍が、これまで経験した
ことのある最悪の敗戦の一つである」と嘆かせています。

 問題は、本来の目的である輸送船の壊滅は果たせて
いないことです。加古の艦載機が、輸送船団の上に待機して、
艦隊がくるのを待っていましたが、結局来ることはありません
でした。加古機は、独自の判断で、照明弾を投下していま
すが、無になりました。

 三川指揮官は、既に退避していない敵機動部隊を恐れて、
輸送船団がいるところまで進出することはしませんでした。
このとき、輸送船団の壊滅に動いていたら、この後の
ガダルカナルにおける戦闘の様相は違ったものに
なったといえます。

(追記)
 著書は、この後レイテ沖海戦に場面が飛んでいます。
著者の諏訪氏は、レイテ沖海戦の時には鳥海に乗り込んで
いませんでした。

 第一次ソロモン沖海戦の後は、鳥海は、比叡や霧島が
撃沈した第三次ソロモン沖海戦や、マリアナ沖海戦に
参加し、活躍しています。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 20cm主砲 [重巡洋艦鳥海]

 鳥海は、戦闘開始から一斉斉射で、260発の砲弾を
撃っていました。一番砲塔は、被弾するまでに、52発の
砲弾を撃ったことになります。

 鳥海の主砲は、20cm連装主砲と呼ばれている、
口径20.3cmの砲で、毎分5発の発射能力を持っており、
仰角70度での対空射撃も可能なものでした。僚艦の
青葉や、妙高型重巡洋艦は、仰角が40度なので、
大きな進歩でした。

 しかしながら、主砲で対空射撃をするときは、70度も
上げることはなく、低い仰角で対空射撃する方が有効
でした。そのため、姉妹艦の摩耶は、仰角が55度に
改められています。

 仰角55度は、この後に建造された最上型や戸根型
重巡洋艦にも受け継がれていくことになりました。

 鳥海の主砲において、問題となるのは、装甲の薄さ
でした。鳥海の主砲の装甲は25mmしかなく、これでは
主砲弾はおろか、機銃でも貫通するような薄さでした。

 今回の被弾で、装甲を撃ち抜いて破裂することなく
貫通し、右舷に抜けて言ったのは当然といえます。

 しかし、貫通した砲弾は、主砲の装甲に使っていた
鉄片を、主砲内にまき散らしたことで、旋回手らが
犠牲になってしまいました。

(追記)
 ちなみに、大和の主砲の装甲は650mmもありました。
大和の主砲は、砲塔の重量が駆逐艦1隻分もあるような
巨大なものですので、鳥海の装甲と同列にはなりません。

 しかし、鳥海の装甲は、大和との重量比から換算しても、
薄すぎるといえ、ブリキ細工といわれても反論できないと
いえます。

 鳥海の主砲の装甲が薄いのは、トップヘビー防止と、
主砲の装甲を厚くすると、操作に時間がかかり、攻撃力が
鈍るということから、とられた措置です。

 しかし、砲弾を抱えている主砲が爆発すれば、艦自体が
撃沈するほどの大きな損害となるので、防御を犠牲にした
のは問題と言えます。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 被弾 [重巡洋艦鳥海]

 最初に鳥海に命中したのは機銃弾でした。命中したのは、
檣(ほばしら)なので、人的な被害はありませんでした。
しかし、その後、鳥海は、一番砲塔に一発、艦橋後部
3発の主砲弾を受けています。

 砲塔に受けた砲弾は、装甲を撃ち抜いて破裂することなく
貫通し、右舷に抜けていきました。艦橋後部に命中した
砲弾は、一発は、羅針艦橋を貫通し、抜けていきました。

 残りの2発は、炸裂弾の弾片と被弾箇所の鉄片が四散し、
周辺の乗員をなぎ倒していました。

 砲弾が命中した箇所は、一瞬で修羅場となり、血の池地獄の
様相を呈しました。爆風に吹き飛ばされ折り重なって倒れている
集団があり、壁に叩きつけられて、骨が砕けて息絶えている
下仕官や兵士も少なくありませんでした。

 この被弾で、鳥海は、34名の死者と多数の負傷者を出して
います。

 他に、青葉は魚雷発射管に機銃があたり、小火災を
起こしています。しかしながら、奇襲攻撃であったことで、
日本軍が主導権を握っており、敵軍の方が、多量の
命中弾を浴びていました。

 この海戦では、敵の方が圧倒的に多かったにも
かかわらず、終始優位を維持していました。砲撃は
喰らいましたが、魚雷が命中した艦はなく、この海戦で
撃沈した艦はいませんでした。

(追記)
 鳥海が、艦橋後部に被弾したとき、ここには、
観戦者が混じっており、被弾したことで、死傷
した人がいました。

 この場所は、後ろは艦橋、前は煙突と構造物に
囲まれており、わりあい広くなっているため、
見物には絶好の場所でした。

 ここにいたのは、乗員だけでなく報道関係者も
多数おり、丹羽文雄氏もこの時にいた一人で、
手足に軽い怪我をおっています。戦場であれば、
どこにいても死傷する可能性があることを示して
います。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 敵艦の反撃 [重巡洋艦鳥海]

 この時、主砲はおろか、機銃ですら届くような距離で、
砲撃戦を行っていました。鳥海のみ、探照灯を照射し、
青葉らはこの明かりを頼りに照射砲撃をこないました。

 この夜戦において日本軍は、同士討ちを避けるため、
全艦吹流しをつけていました。そのため、三川指揮官は、
古鷹以下の艦隊が、鳥海らの隊列から分離していることに
気がつきました。そして、同士討ちを避けるため、鳥海との
距離を離すことにしました。

 一方で、中将旗を掲げ、探照灯を使用している上に、
先頭を航海しながら砲撃をしている鳥海は、狙い撃ちの
対象となりました。(三川指揮官や幕僚は、敵の攻撃が
集中するように、あえてこうなるように陣頭指揮をとって
いました)。

 奇襲で混乱していた敵軍もだんだんと陣容を整え、
反撃に転じてきました。高角砲や機銃だけでしたが、
だんだんと至近弾になってきました。

 日付が変わった8月9日零時5分ごろ、ついに、鳥海に、
敵の攻撃が命中しました。そして、この攻撃により、鳥海は
死傷者を出すことになりました。

(追記)
 敵の高角砲や機銃による反撃を受ける頃になって、
見物していた乗員は、艦内に退避しました。

 しかし、全員が艦内に退避したわけではなく、
構造物に隠れて、見物を続行うしていた乗員も、
少なからずいました。

 怖いもの見たさの誘惑と、前代未聞の重巡洋艦に
よる夜戦を知っておきたいという好奇心によるものでした。

 見物していた人たちは、艦上であればどこにいても
死ぬときは一緒だという達観があったようです。

(記述はないので確かなことは言えませんが、見物人と
いう戦闘に関係ない乗員に関する記述が多いことから
すると、著者の諏訪氏自身も、見物人の一人であった
可能性があります)。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)

重巡洋艦鳥海 第一次の攻撃完了 [重巡洋艦鳥海]

 隊列を離れてしまった古鷹の後ろを走っていた天龍は、
古鷹から離れないよう古鷹の進路に合わせて航海を
していました。そのため、鳥海らとは違う航路を
走ることになりました。

 天龍は、敵駆逐艦を発見し、砲撃により撃沈しています。
天龍の後ろを走っていた夕張は、鳥海が最初に雷撃した
駆逐艦に対して雷撃を行い、命中させています。

 この後、別の駆逐艦を発見し、砲撃により撃沈させて
います。しかし、方位盤が故障したため、回頭したとき
偏り、天龍と違う航跡をたどりました。

 最後部の夕凪は、夕張を追尾していましたが、夕張が
予想外の回頭をしたことと、羅針盤の照明が切れたため、
追尾できず独自の航海を続けました。航海中に敵の
巡洋艦と駆逐艦を発見し、交戦しながら北上し、
本隊に合流しています。

 第一次攻撃は約6分間で終わり、日本軍は、一発も
命中弾を浴びることなく、敵の巡洋艦や駆逐艦を撃破
するという戦果をあげました。

 午後11時48分頃、新たに敵艦を発見しました。この時は、
艦載機による照明は消えており、鳥海は、艦に搭載されて
いる探照灯を照射し、あらゆる武装を駆使して攻撃しました。

 探照灯を使用して攻撃しているので、必然的に敵の攻撃を
浴びることになりました。

(追記)
 通常、駆逐艦のような小型艦の場合、戦闘時は、全員特定の
配置につき任務をこなします。例外は便乗者くらいでした。

 しかし、鳥海には、配置があるにも関わらず暇な部署が
ありました。それは、艦載機の整備などを担当する飛行科の
乗員です。

 鳥海は、すべての艦載機を射出しており、飛行科の乗員は
やることがありませんでした。しかも、艦載機がないカタパルト上は、
絶好の観戦場所でした。必然的に、歓声をあげながら見物していました。


紹介書籍:重巡「鳥海」奮闘記 武運長久艦の生涯  著者:諏訪繁治(すわしげはる)
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