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駆逐艦五月雨、総員退去 [駆逐艦五月雨]

 小発が、五月雨から離れていき、ついに五月雨の輪郭が
闇の中に没っしてしまいました。須藤氏は、新兵以来、
五月雨以外の艦に乗ったことはなく、5年半暮らして
きましたが、あまりにも慌ただしい別離となりました。

 須藤氏は、慌ただしいがゆえに感傷すら抱く暇なく去って
きたのは、却ってよかったかもしれないと記しています。
夕立、村雨、春雨とともに第二十七駆逐隊を編成し、
最後まで残った五月雨も総員退去となりました。

 (この時点で、生き残っている白露型の駆逐艦は時雨
のみとなっています)。

 このとき、松原艦長が須藤氏に言っていた「戦争が終わる
まで、檣だけでもいいから水面に出しておきたい」という言葉
を思い出しました。

 五月雨は、前半部が岩に食い込んで、波でもびくともしない
状態であり、痛ましい姿ながらも、松原艦長の言葉を実現した
ことになります。

 8月18日に座礁してからの努力の甲斐なく、五月雨は、
1944年8月26日に座礁したままとどめを刺されました。

 駆逐艦竹は、先発隊としてパラオに向かった28名と、
雷撃時の行方不明34名の戦友を残し、三柱の英霊と
一緒にマニラに向かいました。

(追記)
 須藤氏は、駆逐艦竹の艦上で、先発隊としてパラオに
向かった28名の安否を気遣っていました。パラオに
向かった先遣隊は、駆逐艦竹が残りの乗員を救出
していることは知らず、後から来ると思っています。
マニラに帰ったと知ったらどう思うだろうか
としています。

 日記はここで終っており、この後については、須藤氏が
終戦まで生き残ったことと、パラオに向かった五月雨最後
の艦長大熊安之助少佐は、のちに駆逐艦初春の艦長を
務めていることくらいしか分かりませんでした。

駆逐艦五月雨から離れる [駆逐艦五月雨]

 発電機の止まった暗い五月雨艦内で、士官室に点った
ろうそくの灯りが、死傷者の姿を映してゆらめいていました。
そのような中で、五月雨神社のご神体が外されました。

 先任将校から、「荷物は持って行けないので、体につけ
られるだけの物をつけろ」という叫びが聞こえました。
風呂敷に入れていた乗員は、風呂敷から取り出し
体につけ始めました。

 艦尾の闇の中から発光信号が明滅しました。駆逐艦竹が
来たようでした。竹は、浅瀬を警戒して、大分離れた所に
止め、小発で来ることが知らされました。

 須藤氏は仲間と一緒に、亡くなった班員の遺体を運ぶ
ことにしました。尊い犠牲者は荼毘に付されるまでは、
無事な須藤氏らがともにいなければならないという
考えでした。

 小発がくると、後甲板から乗り移っていきました。右に
傾いた五月雨の左舷を渡る列に、波が飛沫を浴びせて
きました。

 魚雷が命中した中央は、上甲板がようやくつながって
いるのみで、波にあおられ後甲板は、上下するたびに、
きしんで、今にも離れそうでした。

 小発に移ると、士官の意外に多い荷物が放り込まれ
ました。これを見た乗員は、捨てちまえなどと叫んで
いましたが、誰も投げ捨てる者はいませんでした。

 小発が離れると、五月雨の艦影が視界から薄れて
きました。

(追記)
 上記の遺体の搬出について、須藤氏は、自分の班長に
ついては、自分のことに熱心で何の役にも立たないと
評していました。一方で、若い兵士たちは、熱心に
戦友の死体を始末していました。

 この姿を見て、須藤氏は、平時にどんな態度を装って
いようと、このような最期の場合にこそ、その人間性が
現れるということを見せつけられたとしています。

 だからこそ、熱心に戦友の死体を始末している若い
兵士に対し、心から感謝していました。

駆逐艦五月雨、座礁中に雷撃を受ける [駆逐艦五月雨]

 1944年8月26日、昨日のスコールで何日振りかで
着替え、早朝から兵器の取り外しをしていました。
そこに、駆逐艦竹が、午後に救助に来るという
電報が届きました。

 パラオで屍をさらすかもという恐怖を抱いていた須藤氏
らにとっては、吉報でした。

 日が落ち夕食の用意をしていたころ、急激な衝動が、
五月雨を襲いました。座礁した時よりひどい衝撃で、
雷撃が爆撃か判断がつきませんでした。すぐに、
艦中央に雷撃という報告がもたらされました。

 外板はめくれ艦体は亀裂しました。前部が、岩に食い込んで
いるので沈むことはないものの、波に揺れる後部が、上下する
たびに、亀裂が奇異の叫びをあげていました。後部にいた
乗員は、前部へ移動してきました。

 海から叫び声が聞こえ、カッターで救助に行くと、2人助け
られました。そのうちの一人は、須藤氏の班員でした。両股
に重傷を負っており、「このまま殺してくれ」と叫んでいました。

 須藤氏は、「我慢しろ」といって、桶につめて艦に引き上げ
ました。結局、この方は、引き上げたものの、苦しみながら
逝くことになりました。

 今回の雷撃で、行方不明者34名、重軽傷者は10数名を
数えていました。しかし、多くのものは、死傷者はそっち
のけで、竹への移乗準備に精を出していました。

(追記)
 駆逐艦竹は、松型の2番艦です。現時点では、松型
駆逐艦は、艦これに登録されていません。松型は、
戦時に大量生産することを前提に設計された
駆逐艦ですが、速力が低い(27.8ノット)
以外は、良好な性能です。

 駆逐艦竹は、就役が1944年6月16日ですので
最近配備されたばかりということになります。竹は、
終戦時、無傷で生き残っています。

駆逐艦五月雨、雷撃を受ける [駆逐艦五月雨]

 8月24日、25mm機銃やその他の兵器を下ろし始め
ました。魚雷は、浮標をつけて環礁付近に沈めました。
双眼鏡、羅針儀、機密図書等が運び出され、上甲板は、
混雑を極めました。

 夕刻、浅瀬に爆柱が三つあがりました。敵機の高高度爆撃
かと色めき立ちましたが、機影は見えず、爆柱も黒く、爆弾に
しては大きいことから、潜水艦が、浅瀬に気づかず魚雷を撃ち
こんだと考えられました。

 翌日、五月雨乗員は、全員パラオに移動することが決まり
ました。五月雨は放棄されたということです。先遣隊として、
艦長以下28名が、糧食、被服とともに、掃海艇に乗り
移っていました。

 須藤氏は、一日違いとは言え、仲間と離れることに、いやな
感じを持っていました。先遣隊が乗り移った哨戒艇が見えなく
なった頃、パラオに空襲警報が発令されました。B24が16機
来襲したとのことでした。

 須藤氏は、五月雨から、パラオ方面の水平線が、赤黒く
見えるのを確認しています。とはいえ、五月雨乗員にとって、
パラオに移った後どうなるのだろうかということが、最大の
問題でした。

 連合艦隊司令部からは、五月雨乗員は、南西方面部隊に
編入するという命令が発せられていました。しかし、訓練
された駆逐艦乗員を、パラオの陸戦隊に使うのは残念
だというのが乗員の気持ちでした。

 むしろ、新しい駆逐艦に乗せても使えると考えていました。

(追記)
 上記最後の考えについて、須藤氏は、「新しく配乗されるためには、
一旦内地に戻る必要があるという考えが巣食っている」という正直な
心情をつづっています。パラオに残れば、玉砕することは目に見えて
いるので、この感情があることは当然といえます。

 同時に、駆逐艦乗りは死ぬなら艦でということも無意識に考えている
としています。

駆逐艦五月雨、引き下ろし作業 [駆逐艦五月雨]

 座礁した五月雨は、1昼夜、排水と補強作業をして
いましたが、全く動く気配がありませんでした。
パラオで邦人を乗せて帰路にあった鬼怒と
時雨が、近づいてきました。

 五月雨、鬼怒、時雨の艦長が、相談の結果、五月雨の
引き下ろしは、パラオの工作部に依頼することになりま
した。鬼怒と時雨は、任務を続行し、マニラに向かって
いきました。

 8月20日、パラオから22号掃海艇が派遣されてきました。
引き下ろし作業を行ったものの、曳索がきれて不成功に
終わりました。8月21日には、さらに61号駆潜艇、曳船、
大発が来て、引き下ろしの作業を行いましたが、失敗しました。

 工作部の技手は、五月雨の引き下ろしは成算がないと
断言しましたが、艦長は、あくまでやると言っていました。
弾薬、重量物を移しましたが、引き下ろしはできません
でした。

 8月22日、敵機に発見され、発砲しました。敵機は、五月雨の
火器が強いとみて近寄らず、作業していた哨戒艇に攻撃を加えて
きました。これにより、一時航行不能になる被害を受けています。

 一向に動こうとしない艦に対し、兵器を取り外すことになりました。
9月4日の大潮を期して最後の引き下ろし作業をするつもりのよう
でした。

(追記)
 ここまでで、艦これの五月雨がドジキャラ扱いされている事故が
すべて出てきたといえます。

第三次ソロモン海戦での比叡への誤射。
ブーゲンビル島沖海戦での、時雨への魚雷の誤射と
直後の白露との衝突事故。
今回の座礁となります。

 ここまでいろいろ引き起こしている駆逐艦も珍しいですが、
その陰で、かなりの活躍もしている駆逐艦だったといえます。

駆逐艦五月雨、浅瀬に乗り上げる [駆逐艦五月雨]

 艦橋に上がった須藤氏は、五月雨が、浅瀬に乗り上げて
いるのを確認しました。佐世保で交代した新艦長は、すぐ
に被害状況を調べるよう命じた後、狭い艦橋内をあっち
こっちに歩き回っていました。

 士官たちは呆然となりながらも、敵前でないことで安心
しており、浅瀬を眺めていました。

 座礁前、見張り要員は浅瀬に近付いていることを報告
していましたが、艦長と当直将校は、以前から見えて
いた不明の艦影にばかり気を取られて、浅瀬の
報告は一顧だにしませんでした。

 海図上このあたりに浅瀬はなかったということもあった
ためですが、五月雨は流されていました。見張り要員は、
重ねて叫んでおり、この時ようやく艦長が反応しましたが、
28ノットで航海していたため手遅れでした。

 28ノットで、珊瑚礁に飛び込んでしまったため後進を
かけても動きもしませんでした。第一罐室から火災と
いう報告うけ、「総員防火」の命令が来ました。罐室
との隔壁にめがけて海水を放水しましたが、湯気
立っていました。

 第一罐室は、衝撃で割れた下甲板から噴き出した重油が
入り、灼熱していた罐に当たって発火したようでした。
五月雨は、風波に動揺を続ける艦の底を岩に食い
込ませたまま、右に傾いていきました。

(追記)
 艦長らが、不明の艦影として注意をしていたのは、
皮肉にも、五月雨と同じように、珊瑚礁の浅瀬に
誘い込まれて、座礁した商船でした。しかも3隻
もいました。この海域は、座礁しやすかったと
いえます。

 見張り要員の報告を無視して座礁というのは、以前
紹介した雷でも同じことをしていますが、どちらも艦長
の罪は重いといえます。

駆逐艦五月雨、衝撃を受ける [駆逐艦五月雨]

 五月雨が、りンガ泊地にいる間に、テニアン島での
敵軍揚陸を阻止すべく、奮戦していることを伝え聞き
ました。玉砕を覚悟しながら、死力を尽くして戦う
彼らの気持ちに、須藤氏は涙ぐましいと評して
います。

 このようなおり、五月雨は、輸送任務のためシンガポール
へ向かいました。シンガポールに着くと、マニラとパラオ間
の緊急輸送の命を受け、十六戦隊(重巡洋艦青葉、鬼怒)、
駆逐艦浦波、第二十七駆逐隊(時雨、五月雨)はマニラへ
向かいました。

 マニラに着くと、シンガポールの赤煉瓦とクリーム色の壁と
比較し、色が淡いものの、淡白といういより寂しさを漂わせて
いました。市街は、シンガポールにはなかった、一国の首都
としての気品と落ち着きがありました。

 8月15日、マニラを出撃し、パラオの邦人引き揚げの緊急
輸送のため出撃しました。8月18日午前1時15分、暗号当直
についていた須藤氏は、艦橋の慌ただしい叫びを聞くと同時
に、衝撃を受けてイスから転げ落ちました。

 ぐーんと海底にひきこまれるような艦の呻きまで聞こえてきま
した。電灯が消え、須藤氏は、雷撃されたと考え、書類を
つかんで、艦橋に駆け上がっていました。

 艦橋に上がった須藤氏は、五月雨が雷撃を受けたわけ
ではないことを知りました。

(追記)
 マニラが、一国の首都としての気品と落ち着きを持って
ながら寂しさを漂わせていたのは、物価高と紙幣の洪水
による秩序を失った姿があったからでした。

 子供が、紙幣をつかんで、煙草を求め兵隊を追い、煙草は、
一本づつ売られているような状態でした。スリも横行し、片道
の車代が10円、一盛り9円のアイスクリーム、20円のケーキ
などインフレが進んでいました。

 戦争で破壊されると、このようになるということを示しており、
戦後日本も同様な状態になっています。

駆逐艦五月雨、連合艦隊最後の出撃 [駆逐艦五月雨]

 修理のために佐世保に向かった五月雨は、1944年
7月5日まで佐世保で修理を行い、7月6日に午前6時に、
呉に入港しています。連合艦隊が、前線基地のように集結し、
臨戦準備に忙殺されていました。

 陸兵や物資を乗せた大発が、港内を頻繁に往来し、
1万t級以上の各艦に、搭載していました。須藤氏は、
戦艦に陸軍部隊を載せてどこへ運ぼうというのかと
疑問を持っていました。

 敵を見ながら退避した日本海軍と、前線になろうとして
いる内地を思い、今後どのような作戦を展開するのかと
考えていました。

 7月8日に、一戦隊(戦艦大和、武蔵、長門)、四戦隊
(重巡洋艦愛宕、高雄、鳥海、摩耶)、七戦隊(重巡洋艦
鈴谷、熊野、利根、筑摩)、第二水雷戦隊と伴に、呉を
出港し、中城湾を経由して、リンガ泊地に向かいました。

 五月雨は、7月16日に、リンガ泊地へ到着しました。
停泊している艦を甲乙に分けて戦闘を訓練をしており、
五月雨も参加しています。

 五月雨が、リンガ泊地で訓練をしている間の、7月20日に、
大宮島に一個師の兵力を揚陸させていました。7月9日の
サイパン島玉砕の報は伝わっており、東条内閣が総辞職
しているなかで、さらなる揚陸に対して、国民はどう思う
だろうかと須藤氏は評しています。

(追記)
 重巡洋艦筑摩は、利根型二番艦で、艦これに登録されて
います。利根型は、最上型の経験を取り入れて建造して
いますが、ロンドン条約で制限がかかっていた最上と
違い、主砲を20cmにしています。

 筑摩は、20cm主砲をすべて前方に集中させ、後部は、
水上偵察機5機を積んでいました。最後に建造された
重巡洋艦ということもあり、復元性、居住性なども
良好で、理想的な巡洋艦といわれていました。

 レイテ沖海戦の一つのサマール沖海戦で、大破後自沈
しています。

駆逐艦五月雨、艦隊の帰還 [駆逐艦五月雨]

 夕暮れになり、海上は暗さを増してきました。空母を
発進した艦載機は、敵の激しい対空砲火にさらされて、
戦果をあげられませんでした。対して、日本軍は多大
な被害を出していました。

 空母飛鷹は、雷撃を受け、傾斜したまま走っている
のか停止しているのかわからない状態に見えました。

 やがて、飛鷹は、誘爆をおこし、陽炎のように震えると
煙を吐き、火が赤々と輝いていましたが、ついに沈没
しました。艦隊は、沖縄の中城湾へ向かって移動を
開始しました。

 須藤氏は、そこへ集結し、補給の上、再興を計ろうとして
いるのかと考えていました。同時に、膨大な敵の揚陸した
サイパンはどうなるのかと考えていました。孤立した友軍が、
敵を防ぎえるのだろうかと考えていました。

 1944年6月22日午後3時30分に、五月雨は、沖縄の
中城湾に到着しました。一緒にいた艦隊は、内地へ帰還
するとのことでした。

 翌日、五月雨は、海戦で被弾した戦艦榛名と、僚艦の
時雨とともに、修理のため、桂島に向かって出港しました。

 6月24日に、「修理は佐世保で行うように」という命令を
受け、敵の潜水艦に注意をしながら、佐世保に向かいま
した。この頃は、内地付近も、潜水艦が跋扈しており、
艦船の移動には最大の注意が必要でした。

(追記)
 空母飛鷹は、飛鷹型一番艦で、艦これに登録されて
います。日本海軍とアメリカ海軍は、優秀は商船を
空母に改造するという考えを持っており、建造費を
海軍が補助した客船出雲丸を、空母に改造した
のが飛鷹です。

 艦橋一体型の傾斜煙突を採用した最初の空母となって
おり、艦載機数などは、蒼龍や飛龍に匹敵しました。
しかし、防御力や速力は正規に造られた空母には
及ばず、改造空母としての限界を示しています。

 姉妹艦の隼鷹と比較すると、あまり活躍の機会がなく、
上記の通り、マリアナ沖海戦で撃沈しました。

駆逐艦五月雨、戦艦大和の対空戦闘 [駆逐艦五月雨]

 1944年6月20日、午後5時30分に敵機が来襲し、
空に覆いかぶさってきました。艦長から「雷撃機に
気をつけろ」という命令が来ましたが、主力が集結
しているこの状況では、駆逐艦が狙われることは
まずありませんでした。

 実際攻撃は、空母と大和、武蔵などに集中していま
した。大和と武蔵の上空には、網の目のような弾幕が
張られ、急降下に移ろうとする敵機が次々と墜ちて
いきました。

 墜とされても、敵軍はひるむことなく突っ込んできました。
煙突を頂にして艦の首尾に向かって傾斜して備えられた
大和と武蔵の三連装機銃の撃ちまくる弾痕と、46cm主砲
の砲煙が屈せずに四散していました。

 この様子を見ていた須藤氏は、「攻撃と防御が、互いに
全力を尽くしあっている様子は充実感に満ちた見事なもの」
と、評しています。もっとも、これは、攻撃を受けていない
傍観者的な視点で、ものを見ているからでした。

 対空火器が少ない戦艦長門は、直撃をくらって、黒煙を
吐き、列を脱落していました。空母の1隻火災を起こして
おり、補給部隊も、弾幕が見えていました。

 そんなおり、雷撃機ばかり気にしていた五月雨に、機銃
掃射が迫り、慌てて取り舵をとりました。艦橋に、負傷者
1名の報告がありました。

(追記)
 戦艦大和は、大和型一番艦で艦これにも登録されています。
世界最大の戦艦として、日本海軍で最も有名な軍艦といえます。

 設計では、魚雷一本食っても戦闘力を維持し、二本受けても
手当てすれば戦列に復帰できるようになっていました(実際は、
これ以上の能力を発揮していました)。

 有名な艦ではあるものの、海軍が温存したことと、速力がなく、
機動部隊に随伴はできなかったことから活躍はあまりありません
でした。

 上記の通り、空母の随伴として使用していれば、無類の対空
能力を発揮できたと考えられます。
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