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駆逐艦五月雨、機動部隊と合流 [駆逐艦五月雨]

 作戦緊急親展電報を翻訳し、内容を確認した須藤氏は、
呆然となりました。機先を制せられた格好で、主力空母
2隻の喪失は、あ号作戦の結末を物語っていました。
この状況でも、作戦は決行していました。

 須藤氏は、訳してはならない暗号を訳し、この結果を
自分一人で収めておかなければならないことに、不快感
を持っていました。

 6月20日午前9時30分、五月雨は機動部隊と合流しま
した。間もなく補給部隊も来て、艦隊は洋上補給を始めま
した。五月雨の乗員は、旗艦の空母大鳳や空母翔鶴が
見えないことに不安になっていました。

 歴戦の五月雨乗員は、真相はわからぬまでも、被害を
蒙ったのではないかと感じていました。哨戒機が飛びまわ
る中、補給艦以外は、周囲を取り囲んで低速で走っていま
した。

 補給が間もなく終わるころ、旗艦羽黒から「敵機動部隊
接近しつつあり」の信号がありました。この報告を受け、
曳航を慌てて切り離し、各隊ごとに集結すると、退避
していきました。

 五月雨の艦長は、訓示で、「敵に逃げられるのが怖い」と
言っていましたが、現実逃げているのは、日本軍の方でした。

(追記)
 空母翔鶴は、翔鶴型一番艦で、艦これに登録されています。
空母蒼龍を元に、大型化し爆弾庫などを強化していますが、
新機軸はバルバスバウを取り付けたことくらい(一緒に計画
された戦艦大和にもついていますので、翔鶴型のみの特徴
とはいえません)で、平凡な設計といえます。

 戦時では、新機軸は極力排し、戦訓による補強以外の設計
変更は慎むべき(戦場では何が起こるか分からないので、実績
があるものを使用する)なので、平凡な設計の翔鶴型は最も安定
していたといえます。

 実際、日本海軍では、翔鶴と二番艦の瑞鶴は最も活躍した
空母といえます。

駆逐艦五月雨、作戦緊急親展電報 [駆逐艦五月雨]

 五月雨は、駆逐艦の生命というべき魚雷を、一本も
積んでおらず、戦場に駆けつけても襲撃することは
できませんでした。

 しかし、乗員は、興廃の岐路を分かつこの決戦に
一刻も早く参加したいという気持ちであふれていま
した。

 1944年6月18日の夕刻に、輸送船団はルソンと
ミンダナオの間の島嶼地帯に入りました。五月雨は、
油槽船から補給を受けると、海防艦満珠に護衛を
託し、艦隊に合同すべく船団と分離し、東進しました。

 6月19日に、暗号当直をしていた須藤氏は、窓から
放り込まれた作戦緊急親展電報を見つけ、強い興味を
感じていました。あ号作戦決戦の今日、この電報が、
作戦上の重要な何かを示していることは確実でした。

 親展電報は、普通の暗号書では容易に訳せないと
されており、見たところで分かるかは疑問でしたが、
暗号書を開いてみました。やってみると容易に
訳すことができ、一気に訳して、読み直して
みました。

 この内容を読んで、須藤氏は、息をのみました。その中
には、機動部隊旗艦の空母大鳳と空母翔鶴の撃沈が
記されていました。第一攻撃隊発進直後、敵潜水艦
の伏在海面に入り、犠牲になったようでした。

 現在、機動部隊長官小沢中将は、羽黒に移っていま
した。

(追記)
 空母大鳳は、大鳳型一番艦で、艦これに登録されています。

 翔鶴型空母を元に、重防御を施した空母で、不沈性が増したと
言われていましたが、実際は、翔鶴は魚雷4本まで耐えたのに
対し、大鳳は、1本で撃沈しています。

 不運が重なり、誘爆を起こしたためで、艦これで全艦中運が
最も低い艦になっているのはこのためと思われます。

 しかし、詳細にみると、翔鶴型を元にしているとは言いながら、
戦訓を取り入れたとは思えない大幅な変更がみられます。
戦時ということを考えると、無茶な設計変更であり、撃沈
の原因に設計不良もカウントできると思われます。

駆逐艦五月雨、白露沈没 [駆逐艦五月雨]

 1944年6月15日、あ号作戦が発動されました。
連合艦隊司令長官から、「皇国の興廃この一戦に
あり、各員一層奮励努力せよ」の言葉が発せられ
ました。

 サイパン島には、敵軍の輸送船30隻、上陸用
舟艇200隻余りで揚陸し、味方はガラパン市街
から桟橋付近まで後退して激戦中でした。

 連合艦隊参謀長より、第五基地航空部隊に、
敵の空母、飛行機を攻撃せよの命令が下りま
した。

 このような時に、五月雨の僚艦の白露が、油槽船と
衝突し、沈没という事故がありました。艦長も戦死
したということで、第二十七駆逐隊は、時雨と
五月雨だけとなりました。

 この報を受けたときも、皐月が現れず、五月雨は
戦場に向かうことはできませんでした。

 6月17日、日本海軍にとって、背水の陣となる決戦が
数十時間後に迫ってきました。須藤氏は、この決戦が、
どのような結果をもたらすかに考えが向いていました。

 機動部隊と各基地航空隊にが、数倍の敵機動部隊を
撃破し、サイパンを包囲する敵船団に、大和と武蔵の
巨砲が浴びせられ、揚陸した敵を。殲滅できればよし
としていました。

 もし、破れるにしても、勝算疑わしい戦争で、おめおめと
内地を蹂躙されるなら、艦とともに、海底に砕けるという
考えも浮かんでいました。

 なお、五月雨は、ビアク島沖夜戦のおり、魚雷を使い
果たしており、現状一本も積んでいませんでした。

(追記)
 皐月は、睦月型五番艦で、艦これに登録されています。
バタビア沖海戦に参加し、僚艦と協力しながら、巡洋艦
二隻、駆逐艦4隻撃沈に貢献しています。

 ガダルカナルの撤収作戦や、クラ湾夜戦に参加し活躍
しましたが、1944年9月21日、マニラ空襲の際に爆撃を
受け撃沈しています。

駆逐艦五月雨、油槽船の護衛 [駆逐艦五月雨]

 1944年6月9日午後10時30分に、ビアク島沖
海戦を終えた五月雨は、バチャンに到着しました。

 ビアク島沖海戦で、沈んだのは、最初の空襲で
沈んだ春雨だけで、その他の艦は、大した被害も
なく帰還していました。

 6月10日、バチャン集落から、酋長とただ一人
いる日本人とともに、紅茶や貢物を持って、艦長
を訪問してきました。返礼に、五月雨からは、
清酒を渡しました。

 この後、五月雨は、白露に燃料を渡し、代わりに、
春雨の生存者を受け取って、アンボンに向かいました。
ところが、6月10日の午後7時にアンボンに到着すると、
翌日には、バチャンに戻ることを命じられました。

 バチャンに戻ることを命じられたのは、第二十七駆逐隊
(五月雨、時雨、白露)は、連合艦隊へ復帰することに
なったからで、戦闘が近いことを感じさせました。

 6月12日午前3時にバチャンに戻ったのもつかの間で、
午前8時30分に、バリックパパンに向くことになりました。
バリックパパンに入港すると、ここで、防空駆逐艦若月と、
海防艦満珠とともに、油槽船の護衛として出撃しました。

 バリックパパンを出撃してすぐ、若月は、艦隊と合同
するために先行してしまいました。五月雨は、交代を
予定している駆逐艦皐月が到着するのを待って
艦隊と合同することになっていました。

 それまでは、低速の油槽船に合わせて航行することに
なりました。

(追記)
 海防艦満珠は、択捉型と呼ばれた海防艦です。択捉型
海防艦は、駆逐艦より小型ですが、爆雷投射機や、電波
探信儀をそなえた艦です。

 海防艦満珠は、以前駆逐艦天津風の“天津風、香港で
空襲を受ける”で紹介しています通り、香港で空襲を受け、
天津風と一緒に奮闘しましたが、着底しています。

駆逐艦五月雨、集中攻撃を受ける [駆逐艦五月雨]

 敵の射撃を振り切った五月雨でしたが、輸送隊が
襲われているのを見て、輸送隊の時雨とともに
応戦しました。すると、敵の射撃が、五月雨に
集中してきました。電探射撃をしているようで、
危険と感じました。

 日付が変わった6月9日に、次発装填が終わった
魚雷を右後方の敵に向けて放ちました。五月雨は、
離脱を図りましたが、いくら走っても、8,000から
10,000の距離を保って、敵は迫ってきました。

 しかも、後ろにばかり気を奪われていたところ、
右正面から砲撃を食らいました。敵の待ち伏せ
攻撃を受けたようでした。敵に包囲されたように
感じました。

 一方で、敵は一定以上近づいては来ませんでした。
日本軍が誇る酸素魚雷を用心しているようでした
(実際、アメリカ軍は、酸素魚雷を、長槍とよんで
恐れていました)。

 弾着が正確にって来ており、激しい時は、数十の
水柱が取り囲みました。弾着の飛沫が、艦橋に
いた須藤氏にも浴びせられました。

 須藤氏は、一緒にいた白露を探しましたが見つ
かりませんでした。どうやら、五月雨だけが攻撃
目標になっているようでした。

 午前3時に、敵軍はあきらめたのか、反転していき
ました。改めて周りを見ると、僚艦は一隻も見当たり
ませんでした。五月雨は、敵の砲撃を食うことなく
離脱に成功しました。

(追記)
 上記の戦闘で、五月雨の乗員は、ブーゲンビル島沖
(白露と衝突した海戦)の二の舞を行ったようだと言って
いました。

 しかも、「五月雨は、随分と人助けをしているが、五月雨
だけが危ないとなったら、ほっぽり出されている」と憤慨して
いました。このようなことを言えるのは、無事だったからで、
安堵から出てきた愚痴といえます。

駆逐艦五月雨、ビアク島への敵情偵察 [駆逐艦五月雨]

 敵機が去り、敵にこちらの情勢が筒抜けになったので、
須藤氏は、作戦中止かと考えていましたが、再び陣形を
整えるとビアクに向けて出撃しました。午後10時30分に
揚陸地点に到着する予定で、月明かりの海上を突き進み
ました。

 途中で、警戒隊の白露と五月雨が、敵情偵察のために、
先行して湾に侵入しました。すると、右方向に、敵影を
発見しました。巡洋艦1隻と駆逐艦5隻でした。

 五月雨と白露はやり取りをし、敵が気付いていない隙に、
雷撃を行いました。

 五月雨らは、煙幕を張って反転しました。敵は、全く発砲
してくる様子もなく、気味悪いくらい静かでした。魚雷も外れ
たようで、何も起きませんでした。須藤氏は、こちらは視界に
収めているのに、敵が全く気付かないのは迂闊な話だと
感じていました。

 しばらくすると、敵は対空射撃を開始し、上空に発砲の
閃光が見えました。突然、敵弾が、白露と五月雨の間に
落下してきました。最初は、白露と五月雨の中間に落ち
ていた弾が、だんだん五月雨のほうに近づいてきました。

 五月雨は、「最大戦速」の命令がかかり、蛇行運動を
しました。大分走って、射撃が止んだのを確認した後、
艦尾方向で、射撃が起こり、輸送隊が狙われている
のを確認しました。

(追記)
 この海戦に参加していたアメリカ軍は、重巡洋艦1隻、
軽巡洋艦2隻、駆逐艦14隻で、日本軍の駆逐艦6隻
では到底太刀打ちできませんでした。白露と五月雨が、
揚陸を中止、離脱を図ったのは当然といえます。

 このビアク島への揚陸作戦は、第三次輸送が計画され、
その際は、大和と武蔵を投入することになっていましたが、
中止となっています。

駆逐艦五月雨、春雨撃沈 [駆逐艦五月雨]

 1944年6月8日の正午、対空戦闘のブザーが
五月雨内に鳴り響きました。 B25が8機、獲物を
狙う真正面の姿で、五月雨左艦尾から次第に
姿を大きくしていました。

 取り舵をとり、主砲と機銃が、敵機の前に弾道を
曳き、海上に雨のような弾着の飛沫が上がりま
した。

 敵機は、射撃にひるむことなく突っ込んできて、
爆弾を投下していきました。須藤氏はとっさに
身を伏せました。轟音と滑空音ががして、
敵機が去っていきました。

 とたんに、右舷に至近弾が爆発し、須藤氏は、
体が上下に振られ、衝撃でよろめきました。

 五月雨を襲った敵機は、2機は撃墜されたらしく、
その他は去っていきました。その時、須藤氏は、
遥か離れたところに、轟沈したらしい大きな爆柱
が見えました。

 轟沈したのは、春雨でした。敵機が去り、五月雨と
白露は、生存者の救助に反転しました。春雨は、
雷撃と爆撃を同時に受け、轟沈しました。

 以前所属していた第二駆逐隊の4隻も、春雨が
撃沈したことで、五月雨一隻が残ることになりました。

(追記)
 この対空戦闘で、五月雨は、魚雷の一番連管を
爆弾が貫通するという被害を受けています。須藤氏は、
哨戒配置に戻ってから、見に行っており、発射管の楯が、
左右同じ場所が破られているのを発見しました。

 左舷に落とされた爆弾は、水面を跳ねて発射管を
貫き、右舷側の海に落ちて爆発したということでした。
上記の、右舷の至近弾は、これによるものでした。

 薄いとはいえ、鉄板2枚に当たって跳ね返らずに貫通し、
海に落ちて爆発したということです。爆弾の故障ですが、
五月雨から見れば、奇跡というほかありませんでした。

 爆弾が、もう少し下を通っていたら、魚雷に命中して誘爆し、
春雨と同じ運命をたどっていたと思われます。この一件は、
五月雨乗員に、五月雨は何かに護られているという感情を
通わせました。

駆逐艦五月雨、再び渾作戦が再興 [駆逐艦五月雨]

 1944年6月5日、午前6時30分、陸軍部隊の輸送を
終えた、十六戦隊は、ハルマハラへ向かいました。
第二十七駆逐隊と第十九駆逐隊は、補給のため、
アンボンへ向かいました。

 ここで、再び渾作戦が再興される旨の命令が来ました。
補給を終えた駆逐隊が、緊急輸送を行うということでした。

 敵の航空機による蠢動(しゅんどう)により、風雲急を告げ、
陸軍部隊を増強しているにもかかわらず、新兵力を増強
させる敵軍のため危機に直面していました。

 6月6日午前5時に、アンボンに到着し、燃料補給の上、
この日の午後7時に出撃しました。6月7日午前8時30分に、
ミソオル島に到着し、別れた十六戦隊と合流しました。
 午後11時に出撃し、翌日の午後6時30分にソロンに到着
しました。

 ここで、ビアク島で空襲に備えて、誘爆の危険がある
爆雷は、最低の12個だけ搭載し、錨地から1時間ほどの
ところにある対岸まで、深夜までかかって陸揚げしました。

 6月8日午前3時、ソロンを出撃し、ビアク島へ向かい
ました。時雨、敷波、浦波が、輸送任務を引き受け、
白露、五月雨、春雨が、警戒隊となりました。

(追記)
 ビアク島をめぐる海戦は、ビアク島沖海戦と呼ばれています。
この作戦は、陸軍兵の輸送が目的ですが、もう一つ、この後に
行われる「あ号作戦(マリアナ沖海戦)」のための前哨戦という
目的がありました。

 この当時、日本軍は、アメリカ軍の目標が、ニューギニアか
マリアナ諸島か判断できず、それなら、ニューギニアに誘引
して戦おうと考えていました。

 マリアナ方面にしなかったのは、トラック島空襲の際に、
タンカーを撃沈され、燃料が不足していたためです。

駆逐艦五月雨、ビアク島への輸送作戦 [駆逐艦五月雨]

 1944年5月30日、五月雨は、五戦隊(重巡洋艦
妙高、羽黒)及び、戦艦扶桑の直衛として、時雨、
白露、春雨と、第十駆逐隊(朝雲、風雲)とともに、
あ号作戦牽制隊として、ダバオに向けて出撃
しました。この時は、在泊艦の登舷礼を受け
ました。

 翌日、ダバオに入港し、近いうちに、十六戦隊
(重巡洋艦青葉、鬼怒)、五戦隊とともに、ビアク島
輸送作戦に従事することが伝えられました。翌日、
十六戦隊がダバオに入港してきました。

 6月2日、五戦隊、扶桑、十六戦隊、第十駆逐隊、
第二十七駆逐隊(五月雨、時雨、白露、春雨)、
第十九駆逐隊(敷波、浦波)が、ダバオを出撃し、
南下しました。

 6月3日、敵機の接触を受けましたが、攻撃はされて
いないようです。この日の午後11時に、ビアク島への
輸送作戦(通称渾作戦)は中止となり、扶桑と五戦隊は、
原隊へ復帰となりました。

 陸軍を搭載しているその他の艦は、陸兵揚陸のため
ソロンに向かうことになりました。

 6月4日の午後9時にソロンに無事到着し、五月雨は
湾口の警戒にあたりました。ここで、ビアク島付近に
敵の空母2、巡洋艦2、駆逐艦10数隻がいるという
情報が流れ、須藤氏は、中止された理由を知る
ことになりました。

(追記)
 渾作戦は、ニューギニア北岸のビアク島に、アメリカ軍が
上陸したことで、この地に航空隊が配備されれば、フィリピン
や南太平洋での制空権がなくなるので、兵力増強のために
立案された作戦です。

 上記の通り、一回目の輸送作戦は、敵機動部隊の情報に
より、中止となっています。しかし、この情報は、誤報である
ことが後に分かっています。

駆逐艦五月雨、あ号作戦の艦長訓示 [駆逐艦五月雨]

 タウイタウイ泊地に停泊していた五月雨は、この地で、
1944年の海軍記念日(5月27日)を迎えました。
この日、改めて艦長から、作戦に対する訓示が
なされました。

 この作戦は、「あ号作戦」と呼ばれ、5月20日の
午前零時を持って開始されており、須藤氏らが
想像していた作戦が、今までにない大規模な
ものであることが伝えられていました。

 アメリカ軍の反抗は、ハワイ、ソロモン、ニューギニアを
結ぶ線から、フィリピンを経て内地へと向かうことが想定
されていました。そこで、あ号作戦では、敵の矛先を
南洋揚陸作戦へと引きつけ、艦隊決戦を行うという
ことでした。

 同時に、周囲の各島の航空基地を利用した航空決戦を
行って敵を撃滅しようというもので、空母から発艦した
味方機は、空母には帰らず、攻撃終了後、各基地に
着陸して補給し、空母の劣勢を補うというものでした。

 一方で艦隊は、犠牲を顧みずに徹底的にやるということで、
興廃の岐路を分かつ決戦ということでした。ガダルカナルを
奪還されたのを手始めに、反攻され続けた二年間、一挙に
挽回しようという背水の陣を敷いていました。

 艦長は最後に、「我々が恐れるのは、敵が強いことでは
なく、敵に逃げられることだ」として締めくくっています。

(追記)
 艦長の訓示は、勇ましいといえますが、五月雨は、
5月20日以降、なんら変わることなく待機し続けて
おり、訓練に明け暮れていました。

 しかも、五月雨内では、手紙の配送があると聞き、艦内
では、何人もの人が手紙を書く作業に忙しかったようです。

 しかし、須藤氏は、艦隊が集結しているこの状況で、何の
便りも届いていなかったことからして、書いても郵便局に
集められたままだろうと評しており、須藤氏は書いて
いませんでした。
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