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航空母艦「赤城」「加賀」 ブログトップ
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赤城・加賀 あとがき [航空母艦「赤城」「加賀」]

 最後にあとがきを紹介します。赤城と 加賀は、日本海軍の空母発展過程を 語る上で、最も重要な艦といえます。  多段式飛行甲板型の空母として誕生 しながら、この構造は、航空機の発達に 伴い運用困難となりました。  結局単純な一段式飛行甲板型の空母に 改造されることになりました。この頃、 航空兵器や、空母の装備品は、日進月歩 でした。特に航空機は、急速な発達を しています。  赤城や加賀が、建造されていた時の 第一線用の航空機は、5年後には旧式化 していました。そのため、設計当初の 思考は、完成の頃には時代遅れに なっていた恐れがありました。  一段式飛行甲板への改造は、遅きに 失したと言えますが、この間に、大規模な 航空戦がなかったことが幸いでした。赤城と 加賀は、改造により、一流の近代空母に 進化しました。  もちろんのことながら、後の開発された 高性能の空母と比較すれば、欠陥は存在 しますが、煙突や艦橋は申し分のない 設計だったと言えます。  密閉式の格納庫であったことで、実戦に おける悲劇を生みましたが、飛行甲板を 貫通することがないような防御がされて いれば、違った展開になっていただろうと しています。  戦争の禁句であるイフとして、ミッドウェー 海戦が成功していたら(山口少将が、連合 艦隊司令長官としてミッドウェー海戦を 指揮していたら、成功した可能性が 高いといえます。)、赤城や加賀が この後どのような活躍をしたのか ということに、興味が尽きないと 言えます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 歴代艦長 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 著書では、赤城と加賀の歴代の艦長の中で、 主な人を紹介しています。目につくのは、 殆どが、後に提督に昇進し、要職に ついたことです。  赤城は、21人の艦長が就任しています。 有名なところでは、三代目の山本五十六大佐 (後の連合艦隊司令長官)と、草鹿龍之介大佐 (後の参謀長)です。  最後の青木艦長ですが、駆逐艦に避難した ことで、ミッドウェー海戦に参加した 4空母の中で、唯一生き残った艦長と なりました。  しかし、生還したことで、海軍部内から 激しい突き上げがあり、理不尽にも 辞職する責任を取らされています。  加賀は、15人の艦長が就任しています。 最後の岡田艦長は、戦死により、少将に 特別進級しています。これは、蒼龍の柳本 艦長、飛龍の加来艦長も、戦死後、少将に 特別進級しています。 (追記)  赤城の青木艦長に対する処分は、理不尽 としか言いようがありません。ミッドウェー 海戦の敗戦責任は、いい加減な作戦を 決行した上に、敵前逃亡している 山本五十六長官が筆頭であり、 死刑相当と言えます。  次の責任は、赤城に乗っていた、南雲機動 長官と、司令部の草鹿参謀長、源田参謀らだと 言えます。辞職の責任を取る必要があるのは、 これらの人物だと言えます。  南雲長官や草鹿参謀長は、敵前での兵装 転換という、山口少将が絶対すべきでないと 進言していたことを実行しており、その結果の 敗戦ですので、重罪といえます。  山口少将を見習って、赤城と運命を共に すべきだったと言えます。ミッドウェー海戦の 敗戦責任者である、山本長官や草鹿参謀長 が赤城の艦長だった事あるというのは、 皮肉と言えます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 両空母撃沈 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城格納庫内は、爆弾や燃料などの 可燃物が散乱していました。ここに、 中央エレベータ付近に命中した爆弾が、 飛行甲板を貫通し、格納庫内で 爆発しました。  この爆発で、床に転がっていた爆弾が 誘爆し、ガソリンに引火しました。上段と 中段格納庫は、たちまち破壊され、 艦内は大火災となりました。  この爆発は、日本空母の密閉式格納庫 という構造の弱点を露呈することに なりました。  爆弾の誘爆による爆圧は逃げ場がなく、 格納庫の床や壁、さらに飛行甲板を破壊し、 艦内は収集がつかなくなりました。  機関室にも炎は侵入し、機関室やボイラー室 からの機関科将兵の脱出は不可能な状態に なっていました。  赤城には、機動部隊司令部が乗艦して いましたが、駆逐艦に一旦移乗して 避難することになりました。  赤城は、全艦が炎上する凄まじい姿となり、 最終的には、味方駆逐艦の魚雷で処分され ました。この時、赤城の艦長青木泰二郎艦長は、 乗組員の強引な説得で一旦駆逐艦に避難 しました。  一方、加賀も無事では済みませんでした。 加賀の被害状況は、情報が混乱して諸説 あるようです。おおよそ分かっていることは、 敵機の急降下攻撃は、加賀がまっ先に 受けたということです。  来襲した敵機は30機とされており、爆弾 10発が命中したようです。このことから、 赤城以上の被害になったと推定されます。  加賀は、大火災に包まれ、二度の大爆発の後 沈没し、岡田次作艦長以下800名を超える 乗員が戦士しました。  赤城と加賀は、1942年6月5日に、 同時に生涯を閉じました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 ミッドウェー海戦 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城と加賀の最後の出撃となるミッドウェー 海戦は、1942年6月となります。この 海戦の発端は、4月6日の日本本土攻撃 でした。  この攻撃により、本土防衛に対する抜本的な 見直しが、迫られることになりました。その柱は、 本土東方の太平洋上に新たな防衛ラインを 設けることでした。  防衛ラインは、アリューシャン列島から、 太平洋中部のミッドウェー島にかけてで、 日本本土に接近するアメリカ軍勢力に 対する哨戒線を、構築することでした。  可及速やかに、この作戦は実行に 移されることになり、アリューシャン 列島の東端の要衝のダッチハーバーの 攻撃と、ミッドウェー島の占領から 作戦を実施することになりました。  この内、ミッドウェー島の占領作戦から 実施することになりました。この後の展開は、 何度か紹介している通りです。  概要は、ミッドウェー島への第一次攻撃で 戦果不十分だったため、敵機動部隊用に 待機中だった攻撃に兵装転換しています。  しかも、この後、機動部隊発見で、再度、 兵装転換するという愚策と、帰還した第一次 攻撃隊の収容が重なり、このスキを突いて、 敵の急降下爆撃隊が、赤城と加賀、蒼龍に 襲いかかっています。  赤城は、艦橋左舷に至近弾1発、中央 エレベータ付近に直撃弾1発、飛行甲板 左舷に1発命中しました。  この時、赤城の格納庫には、雷装作業中の 攻撃機18機、爆装中の爆撃機18機、弾薬、 燃料補給中の零戦3機が収容されていました。  そのため、格納庫の中は、交換作業中の 爆弾が床に転がり、燃料補給用のホースが 交錯していました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 ハーミーズ撃沈 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日本軍の艦上爆撃機は、60kg爆弾6発 積んだ攻撃隊が地上攻撃に、800kg爆弾を 搭載した攻撃隊が艦船攻撃を行いました。  当然、この日の襲撃を予想していた イギリス軍は、艦艇を退避させていました。 当日港にいたのは、貨物船1隻、砲艦1隻、 浮きドック1隻だけで、この3隻は、攻撃隊の 餌食になりました。  陸上攻撃は、港湾施設や、海軍工廠、 燃料貯蔵施設などが徹底的に破壊されました。 空中戦は、敵機9機を撃墜し、零戦3機が 撃墜されました。赤城の攻撃隊から損耗は ありませんでした。  ツリンコマリ攻撃が終わり、攻撃隊が 帰途につく頃、洋上哨戒中の水上偵察機から、 空母1隻と、駆逐艦1隻発見したという 報告がありました。  直ちに攻撃準備に入り、待機していた 艦上爆撃機45機と、戦闘機6機が、目標に 向かって出撃しました。発見された空母は、 ハーミーズで、この時、航空機は搭載して いませんでした。  攻撃隊がハーミーズに向かっている頃、 ハーミーズは、コロンボのイギリス軍司令部に、 戦闘機の派遣を緊急要請していました。この 要請は、平文で行われたため、日本軍も 傍受しました。  この要請により駆けつけた戦闘機が 来る前に、日本軍は、攻撃隊を突撃 させていました。45機の攻撃隊から 投下された爆弾の内、40発が命中し、 ハーミーズはたちまち撃沈しました。  攻撃が終了する頃、要請を受けた 戦闘機が到着し、日本の攻撃機4機を 撃墜しています。しかし、この後、 援護にきた零戦により、2機が撃墜 されています。赤城の出撃隊に被害は ありませんでした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 コロンボでの空中戦 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 迂回行動をとっていた日本軍は、全力が コロンボ上空に到達し、直ちに港に在泊する 艦船や、付近の空軍基地に対する攻撃を 開始しました。  しかし、この時、コロンボのイギリス 極東艦隊は、退避しており、もぬけの殻 でした。それでも、駆逐艦1隻、特設 巡洋艦1隻を撃沈する戦果を上げて います。  しかし、この攻撃の最中に、急報を 受けたイギリス戦闘機が殺到し、6機の 爆撃機が撃墜されました。  途中から零戦が駆けつけ、一大空中戦が 展開され、零戦1機撃墜されましたが、 敵戦闘機15機を撃墜しています。赤城の 出撃機からの損害はありませんでした。  空母に艦載機が帰還した直後、巡洋艦 から洋上偵察に出撃していた偵察機から、 「敵巡洋艦らしきもの2隻発見」という 緊急無電が入りました。  機動部隊は直ちに反応し、赤城、蒼龍、 飛龍の待機中の爆撃機53機が出撃 しました。  この巡洋艦がいた位置は、敵戦闘機 行動半径の外でした。2隻の巡洋艦に、 爆撃機が殺到し、爆弾の命中率が、 それぞれ86%、93%という驚異的な 数字を出し、10数分で2隻とも 撃沈しました。  この当時の艦上爆撃機のパイロットの 練度がいかに高かったかを証明するもの でした。  機動部隊は、コロンボ攻撃の4日後、 ツリンコマリ港を襲いました。この時は、 赤城から戦闘機6機、攻撃機18機が 出撃しています。  イギリス軍は、コロンボ迎撃戦の残存 戦闘機の全機を出撃させて待機して いました。  日本軍は、赤城の戦闘機も含めて 30機の戦闘機に対し、イギリス軍は、 23機しかありませんでした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 インド洋作戦 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 1942年4月に入り、日本陸軍は、 タイ国よりビルマへ向けて侵攻を 開始しました。  これは、ビルマ・インド方面に戦力を 集中しているイギリス軍に対する 攻勢作戦でした。  ただ、この作戦を実施するには、 イギリス軍の後方補給路を遮断しておく 必要がありました。  攻撃先は、ベンガル湾に面したインドと ビルマの港湾施設と、北インド洋と、 ベンガル湾からのイギリス輸送船群 でした。  さらに、この補給作戦を支援するであろう イギリス極東艦隊のインド洋とベンガル湾からの 駆逐も重要な使命でした。この作戦は、二方面 作戦で実施される事になりました。  一つは、ベンガル湾沿岸の港湾攻撃と、 在泊及び航行船舶への攻撃を実施する 攻撃隊を編成し、作戦を実施すること。  もう一つは、イギリス極東艦隊の撃滅を 目的とする攻撃隊を編成し、作戦を実行 することでした。  港湾の攻撃は、龍驤を中心に、重巡洋艦5隻、 軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、給油艦2席が編成 されました。主力攻撃隊は、赤城、蒼龍、飛龍、 翔鶴、瑞鶴の5隻の空母と、戦艦4隻他で 編成されていました。  加賀は、パラオで、艦底触礁のため、修理 しており、この作戦には当初から参加して いませんでした。  1942年4月、日本軍は、コロンボ港に 攻撃隊を出撃させました。赤城からは、 戦闘機9機、攻撃機27機が出撃 しています。  イギリス軍は、日本の来襲を予測しており、 46機の戦闘機を出撃させ、上空に待機 していました。日本軍も、イギリス軍が 待ち伏せしていることは予期して、 迂回行動をとっていました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 ポートダーウィン攻撃 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 ポートダーウィンには、多数の艦船が 在泊していました。これは偶然にも、 オーストラリアとアメリカの両陸軍が、 日本の先手を打って、チモールを 攻略すべく、集結していたからでした。  アメリカとオーストラリア混成部隊は、 2月15日にポートダーウィン港を出発 していました。しかし、翌日に日本軍の 哨戒艇に発見され、ポートダーウィンに 引き返しています。  2月19日に、日本の空母4隻から 攻撃隊が出撃しました。赤城からは、 戦闘機9機、攻撃機と爆撃機各18機、 加賀からは、戦闘機9機、攻撃機27機、 爆撃機18機が出撃しました。  この日に、赤城と加賀から出撃した 攻撃隊は、全攻撃隊の60%に 達しました。  攻撃機は、800kg爆弾を搭載し、 爆撃機は、250kg爆弾を搭載 していました。  攻撃は、午前8時40分頃始まり ました。オーストラリア軍は、9機の 戦闘機で迎撃しました。  この当時、日本は、高い練度を誇る パイロットがそろっており、実戦経験の ないオーストラリア軍の戦闘機は、全て 撃墜されることになりました。  さらに、日本の戦闘機は、周辺に存在する 飛行場に超低空から機銃掃射を行い、在地 航空戦力全て破壊しました。艦船への攻撃も 徹底して行われ、駆逐艦1隻、貨物船8隻、 油槽船1隻を撃沈するという戦果を 上げています。  この後、ポートダーウィンが、日本軍に 対する反撃を行うのは、1943年5月頃からで、 航空部隊の戦力増強ができてからとなりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 ラバウル、カビエンへの航空攻撃 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 1942年1月23日にソロモン諸島への 上陸作戦が予定されていました。3日前の 1月20日に、赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴から、 出撃しました。  赤城からは、戦闘機9機、攻撃機20機が、 加賀からは、戦闘機9機、攻撃機27機が 出撃しています。攻撃目標は、ラバウルで、 小規模なオーストラリア陸海空軍部隊が 駐留していました。  攻撃対象は、飛行場と施設、市街地の 軍事施設、防空砲台、停泊中の艦船でした。 この日、飛行場には数機の練習機がいる だけで、湾内には、小型貨物船が停泊 しているだけでした。  有り余る攻撃隊に対して、対象物を探して 投弾しただけという、大きな戦果を得る べくもなく、攻撃を終了しました。  翌日、カビエンに、航空攻撃を実施して います。赤城からは、戦闘機9機、攻撃機 18機が、加賀からは、戦闘機9機、攻撃機 16機が出撃しています。  しかし、カビエンは、ラバウルより攻撃目標が 少ないものでした。2回の航空攻撃で、敵からの 反撃はなく、艦載機の損害は皆無でした。  2月になり、ジャワ島東方のチモール島攻略を 計画しました。上陸作戦の予定は、2月20日 でした。  この作戦に先立ち、チモールの東南700kmの 位置にあるオーストラリアの拠点ポートダーウィン 周辺の基地や艦船に対する攻撃計画を立てました。  攻撃部隊は、赤城、加賀、蒼龍、飛龍で、 第一目標は、ポートダーウィン港内に在泊する 艦船と港湾施設で、第二目標は、ダーウィン市 郊外に点在する航空基地でした。  ポートダーウィンには、偶然が重なり、多数の 艦船が在泊していました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 真珠湾攻撃 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 真珠湾攻撃は、2回に渡る攻撃隊を 出撃させています。  第一次攻撃隊では、赤城は、戦闘機9機と、 攻撃機27機の合計36機を、加賀は、戦闘機 9機と、攻撃機26機の合計35機を出撃 させています。  攻撃隊は、800kg魚雷と、800kg 徹甲爆弾を搭載しており、停泊中の大型艦が 目標でした。  第二次攻撃隊では、赤城は、戦闘機9機と、 爆撃機18機の合計27機を、加賀は、戦闘機 9機と、爆撃機27機の合計36機を出撃させて います。  攻撃隊は、全て艦船用の250kg爆弾を 搭載しており、停泊中の艦船に対する 急降下爆撃が目標でした。  真珠湾攻撃による戦果は、沈めた戦艦は、 大半は修理後復帰しており、アメリカの工業力 からすると、一時の効果しかありませんでした。  総合的には大したことはなく、大博打の割に、 実入りがないと言えます。しかも、日本海軍が もくろんでいた敵空母への攻撃ができず、 全く戦果がなかったことが、この後の作戦に 大きな影響を与えています。  被害は、赤城が戦闘機1機と爆撃機4機の 合計5機、加賀は、戦闘機4機と攻撃機5機、 爆撃機6機の合計15機となっています。  加賀の被害は、参加航空隊の被害の 半分に達するほど大きかったと言えます。  真珠湾による開戦と同時、南太平洋の 遠隔地に前進基地を構築する必要があると 判断し、ラバウルや、カビエンへの攻略 部隊を出撃させていました。  上陸作戦に先立ち、海軍航空隊も攻略 地点周辺の航空攻撃をすることになり、 赤城と加賀は、翔鶴、瑞鶴らと出撃 しています。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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