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赤城・加賀 96式25mm連装機銃 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城の竣工時、航空機による雷撃や爆撃は 想定されており、攻撃機撃退のために、高角砲を 装備することになりました。赤城は、45口径 10年式12cm連装高角砲を装備していました。  赤城改造時、航空機の発達は著しく、この 高角砲では対応できない事は明白でありながら、 このまま太平洋戦争に突入しています。  加賀は、89式12.7cm連装高角砲に切り 換えたにもかかわらず、赤城はそのままだった ということになります。  高角砲で対応できない敵機の接近攻撃に 対する武装として新たに機銃が装備される ことになりました。機銃は、加賀と同様の 96式25mm連装機銃でした。  この機銃は、毎分220発で、15発の 弾倉を4秒で空にしました。全力射撃の時は、 弾倉交換が、極めて厳しい作業となりました。 さらに、この機銃には大きな問題がありました。  それは、連射時に、射撃の反動で、砲身が 大きく振動し、有効射程内の弾丸の散布界が 広がり、命中精度を低下させるというもの でした。  にもかかわらず、高性能機銃の開発はなく、 改良もすることなく、終戦まで使い続ける ことになりました。近接戦闘用の火器の 不毛は、日本海軍の際立った欠点と 言われました。  高角砲は、新型の65口径98式10cm高角砲と、 60口径98式8cm高角砲が開発され、高速化する 敵機に十分対応できる性能になっていました。  1941年頃より、新造の巡洋艦や空母に搭載 されました(実際に空母で装備されたのは、 確認した限り大鳳くらいです)。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 日本海軍のカタパルト [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日本海軍がカタパルトを導入したのは 比較的早く、1925年ごろには、軽巡洋艦 以上の軍艦に、装備され、水上偵察機の 発艦のために利用されました。  日本海軍が使用したカタパルトは、全て 火薬の爆発力で飛行機を発進させる方式 でした。これは、比較的軽量な水上偵察機 には、十分活用できました。  しかし、重量のある艦上機の発艦に 使用するには問題がありました。それは、 重量がある航空機を発進させるためには、 爆発力を大きくしなければならず、強力な 爆発力で、飛行機を破壊したり、パイロットに 限界以上の圧力がかかり、死亡する危険が あったことでした。  日本海軍は、火薬式に代わるカタパルトと して、高圧の圧搾空気を使用する方法を 実現させようとしていました。  このカタパルトは、大戦中の1943年に 実用化にこぎつけました。しかし、25mも あり、火薬式に比べ大型化した上に、飛行機を 飛ばすための圧搾空気の蓄圧に時間がかかり、 短時間での繰り返し動作が困難でした。  結局、日本海軍のカタパルト開発は、この 段階で行き詰まリました。  一方、イギリス海軍は、1920年代に 油圧式カタパルトを実用化しており、 アメリカは、1930年代に就役した ヨークタウン級の空母には、カタパルトが 装備されていました。  日本軍が、油圧式のカタパルトを開発 できなかった理由は、油圧装置に不可欠な シール材やオイルシール周辺装置の開発が 遅れたためでした。  軍用機の油圧装置の油漏れが常態化 しており、これより大型のカタパルトの 油圧装置を作れなかったのは、当然と 言えます。  日本が自力で油圧シリンダーを実用化 させたのは、1950年代でした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 赤城の艦橋 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城も、加賀同様、一段式飛行甲板にした 時点で、甲板舷側に、艦橋を設置しています。 しかし、右舷側にある巨大な煙突とのバランスを 考え、艦橋は左舷側に設置しています。  これは、気流の乱れを防ぐという意味が ありましたが、実際は、左舷に置いたことが、 飛行甲板後部の気流を乱す結果になりました。 左舷に艦橋があるのは、赤城のほかは 飛龍のみとなりました。  艦橋は加賀の経験を活かしてコンパクトに なっており、高さは7.7mしかありません でした。  飛行甲板には、赤城も加賀も、海軍工廠開発の 横索式着艦制動装置が装備されました。横索を、 飛行甲板から20cmくらいの高さで、艦橋付近まで 等間隔に張っていました。  この装置で制動できる飛行機の最大重量は4tで、 この当時の最大重量は、3tだったので、停止は 十分に可能でした。赤城は10本、加賀は8本 張られていました。  なお、横索にフックを引っ掛けられず、飛行甲板 前方に飛び出してきた飛行機を強制的に止める 制止索も、設けられていました。制止索は、 テニスコートのネットのようなもので、基本 原理は、横索式制動装置と一緒でした。  赤城は、前部エレベータの手前に2箇所、加賀は、 中央エレベータの手前に3箇所配置されていました。  加賀の改造の際に、日本海軍は、発進促進装置、 いわゆるカタパルトを装備する計画がありました。 しかし、各種の問題があり、加賀はおろか、この後 建造された空母にすら装備されることはありません でした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 赤城の改造 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城の飛行甲板一段化の改造は、加賀から 2年遅れて、1935年11月に、加賀を 改造した佐世保海軍工廠で、開始され、 1938年9月に完成しています。  赤城の一段化は、加賀に準じて行われて いますが、一部違いがありました。飛行甲板は、 全長249.2m、全幅30.5mとなり ましたが、加賀と違い、赤城の全長より 短くなっています。  飛行甲板の形も、先細りの加賀と違い、 中央部が最大幅となり、前後に向かって、 細められた形となっていました。  先端を支柱で支えている点や、鋼板4.5cmの 厚さに、20cmの松の厚板が敷かれているのは 同じでした。  側面から飛行甲板を眺めると、加賀は、 傾斜はなく水平でしたが、赤城は、中央 艦首寄が一番高く、「へ」の字構造となって いました。艦首に2度、艦尾に1.5度の 傾斜になっていました。なぜこのような傾斜が つけられたかは不明としています。  格納庫は、加賀同様拡大していますが、 総面積は、加賀より狭く、その分、艦載機の 搭載数は減ることになりました。  赤城、常用機66機、補用機25機の合計91機で、 加賀より5機少ないという結果になりました。  エレベータも、一基増設することになりましたが、 前部のエレベータは撤去され、新たに、中部と前部に 設置しています。  前部のエレベータは、当時の日本最大規模の 産業用エレベータで、艦上攻撃機が、主翼を 広げたまま、収納できました。  赤城の改造で、加賀と最も違っているのは、 艦橋の位置でした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 高角砲 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 加賀の武装で大きな変化があったのは、 高角砲でした。  竣工時に装備していた高角砲は、10年式 45口径12cm連装砲6基で、片舷に3基ずつ 搭載していました。  この高角砲は、手動装填式で、発射速度は 毎分11発、砲座の旋回はモーターで行われ、 旋回速度は、毎秒10度、俯迎角変更速度は、 毎秒6.5度でした。  この当時の航空機の最高速度は180km だったので、この高角砲の速度で、充分 対応できました。  しかし、加賀の大改造を行う1933年 時点で、航空機の最高速度は280kmを 超えるまでになっており、対応できなく なっていました。  そのため、大改造に合わせ、高角砲も 最新のものに換装された上に、増強を 図りました。  当時の最新高角砲は、89式40口径 12.7cm連装砲で、これまでの6基を 8基に増やしました。  しかも、砲座を嵩上げして、反対舷も 砲撃できるようにしたので、片舷16門の 射撃が可能になりました。  発射速度も向上し、毎分14発となり、 砲座の回転速度や、俯迎角操作速度も 2倍近く高速化しました。  これに合わせ、近接攻撃してくる敵攻撃機の 要撃用の武装として、機銃が搭載されることに なりました。機銃は、新たに開発された 96式25mm連装機銃で、1分間220発 発射でき、有効射程距離は、2.5kmでした。  この機銃は、終戦まで使われることに なりましたが、終戦の頃は、500kmで 飛行する航空機も出ており、一秒間に 3.7発の機銃で対応するのは 困難となりました。  火器開発の遅れという日本陸海軍の 弱点は、終戦まで改善されませんでした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 加賀の速度アップ [航空母艦「赤城」「加賀」]

 改造前、加賀の主機関は、タービン機関 4基で、アメリカ製のカーチス・ブラウン式 タービン機関が採用されていました。  1基あたり22,750馬力でしたが、 改造にあたり、2基撤去して、国産の 艦本式GT型タービンに換装しました。  この機関は、39,750馬力を誇り、改良後の 加賀の機関は、34,000馬力アップし、 127、400馬力となり、最高速度を 1ノット以上増加させることができました。  速度増加のためのもう一つの改良が、 艦尾の8m延長でした。この延長により、 推進効率が高まり、機関出力アップとの 相乗効果で、速力増加に貢献しました。 最終的に28.3ノット確保できています。  加賀の飛行甲板延長に合わせ、既存の エレベータの他に、既存のエレベータの さらに36m艦首よりに、エレベータを 増設しました。  3基の大きさはそれぞれ異なり、最大の 中央エレベータは、最大寸法の97式艦上 攻撃機を主翼展伸したまま使用できました。  多段化から一段下に伴い、新たに艦橋を 設置する必要が生じました。位置は、甲板 全長3分の一の艦首寄りで、気流の乱れを 抑えるために、コンパクトに作られました。  さらに、パイロットへの障害物意識を 極力さけるために、飛行甲板から、右舷に 張り出すように設けられました。  加賀の大改造時でも、方針が決まらな かったことが、主砲の取り扱いでした。 艦隊戦の想定を外すことはなく、加賀の 20cm主砲10門という装備数は変えない という方針が出されました。  しかし、連装砲を積む場所はなく、 単装砲に変更して装備することに なりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 格納庫の拡大 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 加賀は、一段飛行甲板への改造に伴い、 既存の上段格納庫は、艦首側に58m、 中段格納庫は、艦首側に38m延長 されました。  既存の下段格納庫はそのまま使用され、 補用機を置くために使われました。格納庫を 延長する際、床面積拡大のために、壁面の 変更が行われ、搭載機数の増加に努めました。  改造が完了した時点の加賀の搭載機数は、 戦闘機12機、攻撃機36機、爆撃機24機の 合計72機で、補用機24機と合わせ、96機と なっています。  この搭載数は、当時世界最大のレキシントンや サラトガ(90機)を上回っており、世界最大の 搭載機数を誇る空母に、変身したことに なりました。  しかし、この後、航空機の大型化が進み、 主翼を折りたたんでも占有率が増し、 搭載機数は減少することになりました。  太平洋戦争突入時の加賀の搭載数は、 補用機も含めて75機であり、改造直後より 減少しています。  加賀の改造で、多段式飛行甲板の次に 大きな変化としてあげられる排煙は、 大改良が行われました。煙路周辺の 艦内温度を40℃台に上昇させる 結果となり、居住環境を損ねていました。  さらに、艦尾付近の気流を乱して、飛行機の 着艦を困難にさせていました。これが、 「海鷲(艦載機)の焼き鳥製造機」という 悪評をまねいており、改造は必須と 言えました。  艦尾に向けた誘導式排煙装置は撤去され、 赤城同様、右舷中央に集められ、海面に 向けて直接排煙する方式がとられました。  煙突出口の海水噴霧も行い、排煙温度を 下げて、気流の乱れを防止する方式が、 採用されました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 加賀の大改造 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 加賀が、一段式の飛行甲板の改造に着手 したのは、1933年10月で、1935年10月に 完了しました。加賀を改造するのは、排煙 システムの問題解消の他に、増速も求められた からでした。  そこで、一段式飛行甲板に改造するにあたり、 以下の点が改良されました。  「飛行甲板を、最上段の一段にする。」  「二段目と三段目の飛行甲板を廃止するこで、 既存の一段目と二段目の格納庫を、艦首方向に 延長する。」  「煙突を赤城同様、船体中央部右舷に設けて、 排出口を下向きにする。」  「主機関の一部を高出力の機関に置き換え、 速力アップを図る。」 「船体を、艦尾で8m延長し、推進効率向上を図る。」 「エレベータを2基から3基に増設する。」 「飛行甲板右舷前方に、艦橋構造物を配置する。」 「敵の航空戦力強化を予想し、対空砲火の強化を図る。」 「20cm連装砲を撤去する代わりに、単装砲を装備して、 砲戦力の低下を防ぐ。」というものでした。  これによリ、飛行甲板の長さは、171.2mから、 248mとなり、77m延長されたことになります。 これは、船体の長さより、長くなります。  幅は、30.5mで変更はありませんでしたが、 艦首に向かうほど狭くなっており、最前端は、 14.3mでした。  格納庫は、艦首から25mの位置に あったので、この分、飛行甲板の先端は、 宙に浮く形状になり、4本の支柱で、 支持されました。  加賀の飛行甲板は、水平甲板で、全面 鋼板構造ですが、77mから艦尾までは、 松板が敷き詰められていました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 エレベータ駆動システム [航空母艦「赤城」「加賀」]

 エレベータの駆動システムは、電動機の 回転を、変速ギアで減速し、連結ギアに よって、直角に交差するエレベータ駆動用の、 太い回転軸に回転が伝達されました。  回転軸は、数個の回転ドラムが取り付けられ、 回転軸の動きにより、回転ドラムに取り付けられた ワイヤーが、巻き取られたり、巻き戻したりする ことになります。ワイヤは―回転ロールを介して、 エレベータに連結されています。  エレベータは、電動機の動きに従ったワイヤの 動きにより、ガイドレールに沿って、上下しました。 この構造は、鳳翔からこの後に建造された空母まで、 基本的に変わるところはありませんでした。  一段式に改造された赤城と加賀のエレベータは、 3基となり、30tを超える重量のものになって います。  赤城と加賀が、建造された時に使用された 多段式航空甲板は、設計段階ではメリットがあると みられていましたが、就役後、数年後に、飛行機の 重量が増したことで、下段の飛行甲板からは 飛び立てないという問題が発生しました。  当初想定されていた13式攻撃機の場合、 武装して2.9tなので、全速で向かい風を 作れば、下段からも飛び立つことが可能でしたが、 この後、作られた89式攻撃機は、3.6tと なったので、赤城からでは発艦は危険でした。  まして、赤城より速度の遅い加賀は、不可能という 状態でした。ここに、横索式着艦制動装置が開発 されたので、一段式に改造することになりました。  そして、排煙システムの問題を抱えていた加賀が、 最初に改造を受けることになりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 赤城のエレベータ [航空母艦「赤城」「加賀」]

 空母の独特の設備として、エレベーターが あります。エレベーター自体は、岩や水を バランサーに使用した装置が、1000年 以上前には作られていました。  電動式のエレベータは、1889年に アメリカで実用化されています。電動 エレベータは、その後、ニューヨークで 8階建て以上の高層ビルができるように なると、急速に発達しました。  日本では、1890年に、東京の浅草に 建設された高層ビルに、直流電動式の エレベータが設置されています。  その後、産業用エレベータも開発され、 大型エレベータに関する基本構造や、 動力システムの開発も日本で進められ ました。  空母に搭載された世界最初の エレベータは、イギリスの アーガスでした。  飛行甲板と格納庫を連絡するもので、 世界最初の重量級(10t)エレベータであり、 日本やアメリカにも、たちまちこの技術が 伝わりました。  鳳翔には、2基のエレベータが装備され、 前部は、8.5mと12.8mの方形で、後部が、 11mと13.7mの変則的な形をしたものでした。 エレベータの重量は、10~15tで、駆動電力は、 100馬力前後でした。  赤城は、2基のエレベータを搭載し、前部22t、 後部20tとなり、この当時の14式攻撃機に、 魚雷を搭載した重さは、24.9tになりました。  130馬力で駆動しており、毎分40mの速度 でした。この速度だと、格納庫から飛行甲板まで、 7秒で上がることになります。  一段式に改造された赤城のエレベータは、 30tに達し、出力は160馬力という 大型のものに置き換えられていました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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