SSブログ

赤城・加賀 初飛行 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 ライト兄弟が、1903年に世界で初めて 動力飛行に成功して以来、アメリカを始め、 フランスやイギリスなどで、続々と充分に 飛行に耐えうる動力飛行機の試作を始め、 飛行に成功しました。  1910年、日本陸軍は、フランスから 購入したアンリ・ファルマンⅢ1910年型 飛行機で、東京の代々木練兵場において、 徳川好敏陸軍大尉の操縦により、日本で 初めての動力飛行に成功しました。  海軍も、陸軍にわずかに遅れて輸入した 飛行機で試験飛行に成功しました。  一方、水上機は、1910年に、フランスの ル・カナール水上機が、世界で初めての離水と 飛行に成功しています。以後、水上機も、 イギリス、アメリカが中心となって、 開発が続けられました。  日本は、フランスから購入し、試験飛行の 準備を開始しました。1912年10月に、 フランスよりモーリス・ファルマン 1912年型2機を、購入しました。  同年11月に挙行される東京湾における 天皇陛下臨席下での大演習観艦式で、 水上機を飛ばす計画でした。  10月12日、金子養三海軍大尉は、 同機を操縦し、観艦式のお召艦である 巡洋艦筑波のそばに着水し、再び離水する という離れ業を演じました。  二機目も、河野三吉海軍大尉の操縦で、 観艦式の上空を低空で飛行させて、飛行機の 威力を見せつけました。  海軍は、このときの経験から、偵察や攻撃に 活用できると判断し、さらに一機購入し、各種の 運用実験を始めました。  一方で、国産下作業もスタートさせ、 フランスより、別途搭載するエンジンを 購入して試作を開始しました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
nice!(0)  コメント(0) 

赤城・加賀 上海事変から、ミッドウェー海戦まで [航空母艦「赤城」「加賀」]

 上海事変に投入された加賀でしたが、 この実戦からも多段式飛行甲板は、 多くの問題点が存在することが 明確となりました。  その後の様々な、航空母艦の装備の 発達もにらみ、2隻を一段式飛行甲板型の 航空母艦に、大改造することになりました。  加賀は、1935年に、赤城は1938年に、 一段式飛行甲板型航空母艦となりました。 そして、この改造に際して得られた様々な ノウハウは、その後建造された日本海軍の 航空母艦の設計に生かされる事になりました。  太平洋戦争の緒戦、赤城と加賀は、日本 海軍の主力航空母艦として活躍することに なりました。  しかし、1942年6月に展開された ミッドウェー海戦で、飛龍、蒼龍と共に、 敵艦上爆撃機の攻撃で多数の命中弾を 受けて、沈没しました。  ここまでがまえがきで、水上機母艦若宮から、 赤城と加賀が、一段式飛行甲板型航空母艦に 改造され、ミッドウェーで撃沈するまでの 概略となります。本編は、これらを詳細に 紹介しています。  著者の大内氏は、赤城と加賀について、 その誕生から大改造を経て終焉までの ありさまを、紹介する資料が以外に 少ないとしています。 (追記)  鳳翔、赤城、加賀が完成した時に、日本軍が 考えていた運用は、「航空機を艦船で運んで、 思うままの位置から発艦させる事ができるの だから、哨戒や偵察にもってこい。」という ものだったようです。空母は、補助艦艇という 扱いだったと言えます。  それを、空母集中運用による多数の航空機に よる攻撃を行うという機動部隊という運用を 考え出したのは日本海軍でした。しかし、 機動部隊同士の海戦を想定していなかった 甘さから、ミッドウェーでの大敗北に つながったと言えます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。