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赤城・加賀 航空母艦が軍艦となる [航空母艦「赤城」「加賀」]

 イギリスと日本で、全通甲板式の空母を 完成させたことは、主要海軍国に、将来の 海戦には、航空母艦が大きな役割を、 担うであろうことを想定させることに なりました。  1921年のワシントン軍縮会議で、 航空母艦が、軍艦として認められ、 アメリカと日本は、それぞれ大型の 空母を保有することが認められました。  この軍縮会議により、大艦巨砲主義を 土台とした主力艦である戦艦と巡洋艦の 建艦構造に終止符が打たれました。  そして、新たに軍艦の枠の中に航空母艦を 組み入れ、廃艦処分される予定の巨艦の 一部が、航空母艦として改造されることを 認める条項が、許諾されました。  日本海軍は、廃艦が予定されていた 巡洋戦艦赤城と戦艦加賀を、航空母艦として 生まれ変わることが、認められる事になりました。 アメリカも、巡洋戦艦レキシントンとサラトガが、 航空母艦に生まれ変わることになりました。  この4隻の航空母艦は、基準排水量が、 3万t台の大型艦で、航空母艦として完成後の 1927年以降は、両国海軍のシンボル的な 存在となりました。  赤城は、1927年、加賀は1928年に 完成しました。この時は、イギリスの多段式 飛行甲板型航空母艦フユーリアスの影響が 多分に見られ、両艦とも世界に類を見ない 三段式飛行甲板型航空母艦として 完成しました。  この多段式飛行甲板型航空母艦は、完成 された思考の航空母艦とは言えず、その後の 運用で、多くの問題を抱えることになりました。  そして、1932年、加賀は、三段式航空甲板の 状態で、上海事変に投入されることになりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 水上機母艦の変遷 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 空母の始祖は、水上機母艦で、水上機は、
ライト兄弟が、1903年に動力付き飛行機で
初飛行した直後の、1905年に、出現
しています。

 世界各国の海軍は、水上機は身近に存在する
強力な航空兵器であると認識していました。
1911年に、アメリカのカーチス航空製造会社が、
実用に耐える水上機を生み出しました。

 同時にフランスもファルマン航空製造会社が、
同じく実用的な水上機を送り出しました。
日本海軍は、1912年に両水上機を購入し、
運用試験を開始しました。

 そして、1914年に、第一次世界大戦が勃発し、
連合軍側として参戦すると、日本海軍は、直ちに
この水上機を実戦投入することを考え、計画を
実行に移しました。

 海軍は、4機の水上機をドイツ軍が守備する
青島攻略作戦に投入することを考え、水上機を
搭載する特設水上機母艦「若宮」を準備しました。

 これが、世界最初に実戦投入された、航空母艦
ということができます。この作戦は、航空機運用の
有用性を証明するものとなり、以後、航空機を
海上戦闘に積極的に使うことの検討が、開始
されました。

 同じ頃、アメリカとイギリスは、車輪付きの
航空機を軍艦の上から発着させる構想を
実現させるための試験を繰り返していました。

 様々な実験を繰り返した後、その可能性が
確認され、イギリス海軍は、1918年に
客船改造の全通甲板式航空母艦アーガスを
完成させました。

 日本海軍は、これに刺激され、1922年に、
世界最初の正規設計の航空母艦鳳翔を、
完成させることになりました。


紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」
著者: 大内 健二
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