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巡洋艦最上 艦齢を終える [巡洋艦最上]

 曾禰氏は、最上を離れる時がきました。
内火艇が遠くなるまで、岸壁に行儀よく
並んで見送ってくれた乗員の振る帽子が、
いつまでも、曾禰氏の眼中に残りました。

 曾禰氏が、最後の艦内神社に参拝して
祈ったことは、「艦霊よ。ながく最上の
将来を見守ってください。」という
一言だけでした。

 最上が損傷部の修理を終えて出動した
ことは、後日、那智で北方海域での活動を
している時に、知ることになりました。
武運長久であれと祈らずにいられません
でした。

 最上は、1943年に4番5番主砲を撤去
され、水上偵察機11機を搭載するように
改装されました。曾禰氏は、この改装された
姿を見ることはありませんでした。

 最上は、1944年のレイテ沖海戦において、
曾禰氏の恩師といえる西村祥治中将の指揮下で、
戦闘に参加し、敵艦隊の射撃により多数の
戦死者を出した後、航行不能となり、
駆逐艦曙によって、沈められ、9年3ヶ月の
艦齢を終えました。

 西村中将も戦死され、その温顔は、戦後に
なっても、曾禰氏の前にちらついていると、
しています。

 最上の最期を後日聞いた曾禰氏は、
艦長室にあった御製額が海に沈んで
しまったであろうことを考え、限りない
感慨を覚えたとしています。

 最上の奮闘を、曾禰氏は、
「広い海に鎮まりませど 船霊に直安かれとおろがみまつる」
という歌にして慰みとしています。

 最上において戦死された将兵、および、僚艦の
三隈と共にミッドウェー沖に眠っている戦友の
霊安らかれと、お祈りして手記を終わりに
しています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 退任 [巡洋艦最上]

 曾禰氏は、最上入居中、毎日のように
愛児の治療を見るように、アチコチで
修理されてゆく箇所を見てまわりました。

 さぞいたかったであろうと、手でなでる
ような気持ちで、最上の各部を巡り歩き
ました。艦内神社には、内地帰還の
報告とともに、お祭りもぬかりなく
実施して、感謝の祈りは怠りません
でした。

 入渠中は、艦内の施設を使うことはできず、
船渠わきの特設のものを使用することに
なります。なので、何かと不便が多く、
船渠に墜落するという事故もよくあるので、
うかうかできなかったという状況でした。


 しかし、曾禰氏は、転任の命を受けて
いたので、最上に長く留まることは許され
ませんでした。那智は、北方海面の任務に
あたっており、早く赴任して任務に当たる
必要がありました。

 曾禰氏は、後任の最上艦長佐々木静吾
大佐の着任の前に、総員を船渠に集合させ、
長い訣別の言葉をつぎました(最上でできな
かったのは、入渠中は、一箇所に重いものを
置くことを、禁じられていたからでした)。

 愛児と別れる辛さと、文字通り生死を
ともにした乗員の顔が、曾禰氏を覗き
込んでおり(むしろ凝視しているように
感じたとしています)、一言も聞き逃す
まいと聞き入ってくれていました。

 その真剣な顔や、目つきは、戦後に
なっても忘れることができなかったと
しています。

 やがて、新艦長の着任を一同で迎え、
艦長公室で申しつぎを済ませました。

 佐々木新艦長のことは、曾禰氏は
よく知っており、手負いの愛児の
後事を託すには、持ってこいの
人でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 内地に帰還 [巡洋艦最上]

 仮修理が終わった最上に、「明石を
護衛して佐世保に回航せよ。」の命令が
下りました。

 8月5日午前8時、今までやっかいに
なった明石を護衛して、トラック基地を
発進し、帰還の途についたのでした。

 最上は、明石に先立って出発し、環礁
北口付近の対潜哨戒を厳重にし、爆雷を
投下して、威嚇警戒を行いつつ、明石の
安全出港を見守りました。

 外洋に出ると単縦陣をとり、之字運動を
実施しながら北上しました。この時には、
明石の修理のおかげで、波切りができたので、
軽やかに航行することができ、運動も
自由になりました。

 鼻柱を強打して、うちひしがれていた
最上が、外科手術によって整形手術を
行い、どうにか外観上は、昔日の姿を
とりもどした形になっていました。

 幸い会敵することなく、九州に西岸の山々を
指呼の間にながめつつ、北上した時には、
親の懐にでも抱えられるような、なんとも
言えぬ和んだ気持ちでした。

 最上は、8月11日に、佐世保の工廠に
たどり着きました。岸壁に横付けされると、
すぐに工廠側から工廠長、造船、造兵などの
係員が来艦して、最上の状況を見て
回りました。

 その当時の様子は、工廠員が、「これは、
すごかですたい。」という九州弁の言葉が、
よく表現していました。

 最上は、入渠し、本格的な外板修理と、
艦首部の復旧修理を行うことになりました。
後日、水上機母艦を兼ねたような大改造
修理をすることになったと聞かされました。

 この入渠中の11月に、曾禰氏は、
那智の艦長に転任の命を受けました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 仮修理 [巡洋艦最上]

 曾禰氏は、トラック入港後、後始末で
多忙でした。しかし、乗員は、気分も
落ち着き、刺々しい殺気立った異様な
気分も薄らいできたようでいた。

 そのため、曾禰氏は、6月5日以降の
出来事を、ゆっくり考え直してみる
余裕が、生じました。

 曾禰氏は、艦長としての責任を考え、
好きだったタバコをのんきにふかす
気持ちになれず、あまり愉快な
顔つきをしていませんでした。

 そのことを、福岡副長に指摘され、
しきりに慰めてくれました。


 最上は、内地に帰還するだけの航海に
耐える仮修理を、工作艦明石の手によって
実施されることになり、最上に明石が
横付けされました。

 曾禰氏は、この間、最上の乗員に、
短時間の陸上散歩を許可したり、日没後の
短時間の艦上映画会を催すなど、できるだけ
無聊を慰め、かつ休養をとらせるように
心がけました。

 明石工作長以下、直接の係の真剣な
努力により、最上の水中破損状況の撮影や、
破損部の水中切断、外板損傷状況の調査から、
型取り、青写真の作成などに、なみなみならぬ
不休の努力が始まりました。

 仮修理ではあったものの、艦首の波切り
部分を工作してつけられるまでに、できあがり
ました。この間二ヶ月にわたる工作でした。
修理が完了した日、試運転のために出動し、
工作の効果を試してみました。

 結果は、サンゴ礁内の静かな海であった
ものの、大成功をおさめ、最上は、すべるように
航行し、何ら抵抗もなく操縦も容易であり、
内地へ帰還するくらいならば、充分に
耐えることを確認しました。

 曾禰氏は、仮修理完了の報告をして、
後命を待つことにしました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 トラック泊地の奇遇 [巡洋艦最上]

 曾禰氏は、トラック泊地で、同期で
衣笠の沢艦長とお目にかかれたことを、
ありがたいと感じていました。

 固い握手もそこそこに、曾禰氏は、
艦長公室に沢艦長を案内し、彼からの
言葉を、情ある武士のなぐさめとして、
気持ちよく受け取りました。

 久しぶりの対面とあって、話に花が咲き、
小一時間ほど続きました。やがて、艦を
長くあける訳にはいかないとして、
そそくさと舷梯を降りて、内火艇で
帰途につきました。

 曾禰氏は、舷側からこの様子を見て
いましたが、沢艦長とは、これが今生の
別れとなりました。

 沢艦長、この後、ソロモン方面に向かい、
敵飛行機と会敵し、衣笠の艦橋に命中した
爆弾により、壮烈な戦死を遂げていました。

 衣笠も沈没するに至り、このことを後日
聞いた曾禰氏は、夢のような心地がしたと
しています。


 その後、巡洋艦加古の高橋雄次艦長が、
最上に来艦してきました。高橋艦長も、
曾禰氏と同期でした。

 全く予期せぬ戦友の訪問を受けて、
甲板に並べてあった椅子に腰掛け、
短時間の話し合いが数時間に
なりました。

 曾禰氏は、高橋艦長からも、沢艦長と
同様に、激励を受け、嬉しく受け取って
います。

 加古は、ソロモン他で、武勲を重ね
ましたが、戦場から引き上げの途中で、
敵潜水艦の攻撃により撃沈しています。

 しかし、高橋艦長の判断と処置により、
艦長以下大多数の乗員は救助されました。

 高橋艦長は、戦後、「鉄底海峡」の
著書として戦闘記録を残しています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 光り輝いた錨 [巡洋艦最上]

 投錨後、引きずって右側の錨を引き上げ
ました。すると、各リンクが、研磨したかの
ように、ピカピカに光っていました。

 曾禰氏は、長い海軍生活の中でも、
こんなに光り輝いた錨は、見たことが
ありませんでした。

 トラック北水道から、錨地までの何海里かの
海底サンゴ礁で、磨かれたということですが、
乗員もこの錨を見て、驚きを味わいました。


 まずは、無事に安着したということで、
何日間かの戦塵を洗い落とすべく、総員と
共に、久しぶりに入浴し、休養を取らせる
ことにしました。

 曾禰氏も、何日ぶりに入浴しました。
カラスの行水ではありましたが、この日ぐらい、
さっぱりした気分になったことはありませんでした。

 下着類も新しいものと取り替え、生き返った
ような気分となりました。乗員も、安心して
何日ぶりかの熟睡をとったと思われます。


 トラック泊地は、内地と、南東方向に
広がっていた戦域や、南方最大の基地で
あったラバウルなどの中間に位置し、
大抵の水上部隊は、ラバウルや、
ソロモン方面に向かう途中、補給
休養のために立ち寄りました。

 そのため、トラック在泊中、珍しい戦友と
会うこともありました。その中で、曾禰氏と
同期の巡洋艦衣笠艦長の沢正雄大佐との
出会いは、印象的でした。

 衣笠は、ソロモン方面への出撃のため、
トラックに立ち寄りました。沢艦長は、
内火艇を出して、曾禰氏に会いに
来てくれました。

 曾禰氏は、副直将校より、報告を受け、
沢艦長に違いないと確信し、甲板に出て、
待っていました。

 沢艦長は、ニコニコと笑みを浮かべ
ながら、舷梯を登ってきました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 トラック泊地到着 [巡洋艦最上]

 最上は、給油後、会敵することなく、
6月13日に、トラック諸島の島影を
確認しました。

 トラック泊地は、広大な環礁に囲まれた
内海みたいなところで、適当な深さをもち、
多くの島が散在した絶好の泊地でした。

 ここへ出入りする入り口は、南北一箇所と、
ほか以下所の水路だけで、すぐ外海は、
何千mの深海になっていました。

 最上は、最も操艦がしやすい北の水道を
選んで、泊地に向かいましたが、ここは最も
危険な水路でもありました。

 敵潜水艦の絶好の待ち伏せ地点であり、
出入りする艦船は、いずれかの水道を
通らなければ、なりませんでした。

 曾禰氏は、環礁に近づくに従い、特に
対潜警戒を厳重にするように下令し、
北水道に近づいていきました。

 海面は、濃紺(深海)から、淡緑海(浅海)に
なりました。問題の出口に近づいてきました。

 ここで、最上は急に速度を落としました。
曾禰氏は、おかしいと思ったものの、どうする
こともできず、やむなくそのまま航行を
続けることにしました。

 この時、曾禰氏は、速度が落ちた原因を、
思い浮かべました。三隈と接触したときに、
錨鎖庫が壊れ、錨鎖がぶら下がっている
ということでした。これが、環礁に
ぶつかっていると思いました。

 ここで、最上は、何十tもある錨鎖を
180mもぶら下げながら、何日も航海
してきたなと、15万馬力の力強い機関に
驚きました。

 環礁内は、岩はないので、引きちぎることは
ないと判断し、そのまま航海を続けました。
夕暮れになり、奥まった錨地に到着し、無事に
使用できる左舷側の錨を投入して、安着しました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 西村祥治少将 [巡洋艦最上]

 艦首をもぎ取られた最上は、重い足を
引きずるようにして、トラック島泊地を
目指したものの、この航海は苦労の
連続でした。

 曾禰氏は、毎日のように、機関長から、
当日の燃料消費量と、残量を報告して
もらっていましたが、6月5日~7日は、
ほとんど全力運転に近い航海をしたので、
燃料残高は心細いことになっていました。

 敵の空襲圏外に出たと判断できたので、
できるだけはやく、燃料補給をしようと
懸命でした。補給船の日栄丸と連絡を
取り合い、会合地点を打ち合わせた上で、
洋上補給をすることにしました。

 洋上給油には、縦に並ぶ方法と、横に
並ぶ方法がありましたが、横に並ぶと、
針路と速度を合わせる必要があり、現状の
最上では、技術的に難しいと判断し、縦に
並ぶ方法を取ることにしました。

 このことを日栄丸に通告して手配し、
何百tほどの燃料を補給することが
できました。

 この日、最上に、ミッドウェーから引き
上げる第四水雷戦隊が近づいてきました。
第四水雷戦隊の司令官は、曾禰氏が
若い頃お世話になった西村祥治少将
でした。

 西村少将から、「連日のご奮闘ご苦労さま。
ここに武運めでたい貴艦に会し、感慨無量なり。
乗員一同によろしくお伝え乞う。」という信号が
送られてきました。

 曾禰氏は、昔の温情を、今日そのままにみる
気持ちにおそわれ、胸が熱くなりました。すぐに、
「ご厚情を深謝し、貴隊のご武運めでたからんことを
祈る。」と返信し、お別れしました。

 西村祥治少将は、この後、レイテ沖海戦で、
戦死しています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 艦霊の慟哭 [巡洋艦最上]

 棺が、海を永久の墓場として静まっていく
様子を、曾禰氏をはじめ、乗員一同は、
遺体一人ひとりに挙手の礼を持って、
お送りしました。

 曾禰氏は、最初から最後の一体まで、
挙手の礼の手を降ろすことはできません
でした。

 曾禰氏は、いつまでも長く続く航跡流に
目をとどめ、遠くに目を移し、白く消えていく
航跡流を追っていました。

 水漬く屍となることが、海上武人の本来の
姿とはいえ、暗然たる気分にならざる
をえませんでした。

 しばらく直立不動のまま、熱い太陽の直射を
浴びながら、後甲板から立ち去ることが
できませんでした。

 これは、乗員も同じで、曾禰氏が解散を
命じても、なかなか立ち去らず、海に目を
やっていました。

 水葬の間、絶え間なく弔銃とラッパの音が
交錯しましたが、曾禰氏には、礼式というより、
最上の艦霊の一つ一つの慟哭としか
聞こえませんでした。

 しかし、曾禰氏は、艦長としての役割が
ありました。また、いつどんなことが起こるか
分からないと思い直し、急ぎ足で艦橋の
指揮所に帰りました。

 この日の航海日誌には、「最上戦死者91柱の
水葬を執行す。」と記載されました。地点は、
ミッドウェーとトラックのほぼ中間地点でした。

 戦死者の遺留品は、分隊員の手によって
整理保管され、内地帰還後にそれぞれの
御遺族のお手元に届いたと思っていると
しています。

 なお、三熊の崎山艦長は、トラック入港
直前に、戦傷死されました。曾禰氏は、
これを伝え聞いた時、悲運の艦長で
あったと、敬弔の祈りを捧げることしか
できなかったとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦最上 水葬の礼 [巡洋艦最上]

 6月8日午後3時、「海行かば」の軍歌の
ように、水葬の礼で送ることになりました。

 後甲板に運び出された遺体を囲むように、
配置にいるもの以外は、総員が整列して、
開始を静かに待っていました。

 形ばかりにしつらえた祭壇には、当時、
艦内に貯蔵してあったじゃがいもや、
玉ねぎ、缶詰類、堅パンまで、
供えてありました。

 香の代わりに、蚊取線香が代用してあるのも、
痛々しさを感じました。導師は、乗員の中の、
お経に心得のある何人かが、代わりを
努めていました。

 曾禰氏は、後甲板の一段高いところにたたずみ、
読経の済むのを待って、あたかも生きている
乗員に呼びかけるように、
「諸君の示した武勲の働きは、軍艦最上の
伝統として他の乗員の範となるものである」
と、武勲をたたえました。

 さらに、「遺骨を故郷に届けたいが、
いつ会敵するか分からない今日、水葬の礼を
もって送るほかはないことを許してくれ。」
と切ない胸の中を、訴えました。

 言葉としては、短いものでしたが、曾禰氏の
頬には、いつの間にか涙が伝って流れて
いました。そして、曾禰氏は、副長に、
水葬の執行を命じました。

 一列に並んだ、銃隊と、ラッパ隊も沈痛の
面持ちで、その瞬間を待っていました。

 やがて、庶務主任の読み上げる戦死者の
官氏名が終わると、関係分隊員の手で、
最後部に備え付けた滑板まで運ばれ、
弔銃と、「命を捨てて」のラッパに
送られて、一体、一体、滑るように
航跡流の中に落下していきました。

 しばらくは、航跡流の白い渦の上に
浮かんで、最上に追いすがるように
見えていましたが、ついに、海中に
沈んでいきました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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