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巡洋艦大淀 東条首相の視察 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、土俵上での激突を見ていましたが、 村の選手が帰ってしまったので、楽しさは、 半減していました。それと、村の青年学校の 生徒全員に非常招集がかかっているかも 知れませんでした。結局帰ることにしました。  村に戻ると、東条首相が来るにしては、道路は 掃き清められておらず、出迎えの様子など少しも 感じられませんでした。家々の間に打ち水がして ありましたが、それもホコリ止めにいつもやって いることでした。  小淵氏は、腰巾着のようについてくる少年と 一緒に、家まで歩いていました。すると、家まで 700mくらいのところで、後ろから車が来ました。  道端によって立ち止まると、陸軍大将の制服姿も いかめしい東条首相が、オープンカーに立って いました。  小淵氏は、慌てて挙手の礼をしました。オープン カーの将官は、キビキビとした動作で答礼の挙手をし、 通り過ぎていきました。その後に、黒塗りの乗用車が、 一台続いていました。しかし、先導や護衛のオートバイは ついていませんでした。  少年が、「あれが東条さんかい。」と聞いてきました。 「そうだよ。」と返事すると、「おらおじぎしなかったよ。」と、 さも悪いことでもしたかのように、少年は、小淵氏の顔を 見つめてきました。  戦争が始まってから、「ガソリンは血の一滴」と言われ、 貴重なものになっていました。その代用に木炭やマキで 自動車が走っていました。東条首相は、沢渡温泉の 5km程奥にある木炭の生産状態を視察に来たよう でした。  東条首相は、四万温泉に一泊して、翌朝村を 去っていきました。この時も、見送る物は少なかった ようです。こんな山奥の寒村を、総理大臣が視察に きたというので、村の人達は、みな感動していました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 青年学校生徒の相撲大会 [巡洋艦大淀]

 7月初旬に、郡内の青年学校生徒の相撲 大会が中之条町で開催され、村からも5名の 選手が出場しました。みんな最上級生なので、 体躯も堂々としており、すでに他校を威圧して いました。  「これならいい成績で優勝できるぞ。」と 試合が始まるのが、待ち遠しくなりました。 集合がかけられ、それぞれの選手が、マワシを 締めて土俵の周りに集まった時、突然、 「沢田村の選手は至急村に戻れ。」という 連絡がありました。  選手はしぶしぶ引き揚げました。他校の 選手から、「勝ち目がないので逃げ出す のか。」「どうせ負けるんだから早く帰った ほうがいいよな。」と盛んに野次をとばし 始めました。  引き揚げたのは、東条英機首相が視察に 来るので、青年学校の生徒は、非常呼集を かけられたからでした。数日前から噂は ありましたが、村の人達は半信半疑でした。  戦時のそれも未曾有の大戦を戦っている 最中、時の首相が何の目的でこの村を視察 するのかという思いでした。  特産物はなく、軍需品を生産しているわけ でもなく、ありふれた山村で、汽車が通って いない不便な郡の山村に過ぎませんでした。  しいてあげれば、異質の温泉に恵まれ、 山容や清流などの景色には見どころが あると言えますが、総理大臣が激務を さいて視察するほどの景観とは言えません でした。  小淵氏も帰る必要がありましたが、相撲や 陸上競技が好きな小淵氏は、そのまま見物 していました。見物人の中で、村から来た ものは、小淵氏国民学校の4年生児童 一人でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 青年学校の行軍訓練 [巡洋艦大淀]

 学校を卒業すると物足りなくなり、中学 講義録に熱を入れてみましたが、あまり 続きませんでした。  初夏になると、農家が忙しくなるので、 この頃は、時々しかお呼びがかからない 青年学校の招集日が、待ち遠しくなりました。  ある日、青年学校の生徒が全員参加し、 草津温泉まで行軍が行われました。沢渡 温泉を過ぎ、幕末の高野長英が隠れていた 洞窟近くを通り、草原を分け入り、暮坂峠に でました。  ここは、若山牧水も峠越えをしたという ところで、新緑に映える山野の景色は 素晴らしいものでした。同じ村内とは とても思えない雄大な風景でした。  行程は40kmでしたが、日没前に 全員無事に指定された旅館に 着きました。  そこで一泊し、翌朝は帰路の行軍につき ましたが、コースを変えて花敷温泉を 通りました。  この辺りは、温泉が到るところで 湧き出しているので、冬でも子供たちが 温水浴するということでした。  山の中に分け入り、道のない山を登り、 休憩もせずに降り始めました。戦地でも このような山中の行軍があるとか、その 訓練のために道路を避けて進むのだ ということでした。これが、小淵氏は、 かえって楽しかったとしています。  木の葉のトンネルを抜け、ヤブの中に 分け入り、岩山をよじ登って、落葉の上を 滑り降りたりしながら進むのは、格好の 遊びでした。しかし、校庭についた時には、 さすがに疲れ、足が思うように動きません でした。  小淵氏は、海軍入団までの青年学校の 楽しさを、存分に味わっていました。 入団する日が近づくにつれ、故郷の 生活を十分に味わっておかなければ という思いでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 入団日決定 [巡洋艦大淀]

小淵氏が受け取った採用通知には、 9月1日に入団すべしとありました。 翌日一緒に志願した人達に聞くと、みんな 来たということでした。年配者は5月1日で、 年少者は9月1日だったようです。 待ち焦がれていた採用通知が来たには 来たものの、9月1日入団では、4ヶ月以上 待たされることになります。一緒に志願した のに、年齢により9月になり、大いに不満が ありました。 この頃は、村でも多くの人が軍隊に行く ようになり、千人針を出征兵士に送るのが 流行していました。 しかし、小淵氏には、千人針を作って くれるような人はおらず、千人針が、弾除けに なるとは信じられませんでした。 入団する日が決まり、種々知っておかなければ ならないことがありました。しかし、海軍出身は村に 2人しかおらず、今はどちらも不在でした。 小淵氏が知っていたのは、海軍では泳げないと 苦労するということくらいでした。海をあまり見た こともない山奥の農村で、海軍のことを 知っている人が少ないのは当然でした。 それに、小淵氏の村は、本州を縦から測っても 横から測っても中心になると言われており、海から 最も離れている海なし県の山中ということを 思い知らされました。 小淵氏は、小さい頃近所の川で泳いだことがあり、 泳ぎには自信がありましたが、海を見たことは ありませんでした。海軍出身の叔父が生きて いたらと思うことがしばしばあったとしています。 4月の終わり頃、東京に就職した人達から手紙が 届きました。そこには電車のドアが自動で閉まる ことや、東京の珍しい様子等が一杯書いてあり、 羨ましくなったとしています。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 国民学校卒業 [巡洋艦大淀]

海軍の志願兵試験は、合格しても必ず採用 されるとは限らないと聞かされ、早くどちらかに 決まってくれないかと感じていました。 小淵氏は、考えあぐねた末に、村に残って、 海軍の採用を待つのが一番良いと決心し、 担任の先生に就職を取りやめたいと申し 出ました。すると、職安に行って断ってきて くれということ、放課後職安に向かいました。 係の人に、「海軍からいつ採用通知がいつ 来るかわからないので、就職を取り消して もらいたい。」と言うと、いまさら取り 消せないので、海軍に入るまで、 働きなさいと言われました。 小淵氏は言葉に詰まり、とっさに、母が 死んで家も忙しいのでという言葉がついて 出ました。すると、母を思い出し、涙が溢れ 出しました。係の人は、涙ぐんでいる 小淵氏を見て、取り消しを了承して くれました。 肩の荷が下りた小淵氏は、夕陽が沈み かけた砂利道を走り出しました。残雪に おおわれている三国山脈から吹きおろして 来る風は冷たかったものの、体は汗ばんで いました。 小淵氏は、息を弾ませながら、「海軍に 行くまでうちにいる。」と声をかけました。 小渕氏の心は、晴れ晴れとしていました。 やがて国民学校卒業式も終わり、村に 残った小淵氏らは、この年から義務教育に なった青年学校に入校しました。 青年学校は、軍隊の予備校的な存在で、 教鞭は、退役軍人が指導に当たっていました。 普通学は、国民学校の教員が兼務しており、 週2、3回招集されました。 待ちに待った海軍の採用通知は、4月の中旬でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 就職に対する不安 [巡洋艦大淀]

 国を挙げての戦時体制の中で、国民学校の 卒業が迫っていました。この頃も、日本軍が勝ち 進む様が相次いで発表され、海軍に入る前に 戦争が片づいてしまうのではないかと、 思うようになりました。  小淵氏は、採用通知が来るのを一日千秋の 思いで待っていましたが、音沙汰がありません でした。この頃は、長男として農業に従事する もの以外は、軍需工場に就職するようにという 職安からの強制的勧誘が行われていました。  そのため、友人は、皆就職先を決めて いましたが、小淵氏は、いつ海軍から採用 通知が来るかわからないので、迷っていました。 小渕氏も、あまりに勧誘されるので、東京に ある軍需工場に就職することを承知しました。  上の学校に行きたいと思っていた小淵氏は、 工場に入れば、青年学校があるので、働き ながら学べると巧妙に誘われたからでした。 しかし、この日から、いつ採用通知が来るか、 不安な毎日を怒っていました。  兄からは、すぐに海軍に行くようになるの だから、それまで家の手伝いをして待てば 良いと言われ、父からは、好きなようにしなと 言われました。母が死んでから、父は、 一層無口になっていました。  一緒に志願して合格した人達は、村の 青年学校に在学中なので、村を離れて 就職することに不安を感じました。東京に 行ってすぐに帰ってくるのもやっかいだし、 どうしたらよいか心配していました。  そして、卒業式が迫り、就職者の集合日が 通知されてきました。気が気でない毎日が 続くことになりました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 母の死 [巡洋艦大淀]

 家の中もだいぶ冷え込み、じっとしていると、 背筋が続々してきました。もっと暖かくしないと、 母が寒がるだろうと思って、薪を取りに行った時、 「しっかりして」という姉の叫ぶ声が聞こえました。  兄も母の枕元に駆けつけ、大声で母を 呼んでいました。しかし、母は答えてくれません でした。ほんの少し間をおいて、かすかに目を 開けた母は、二度ばかり小さく歯ぎしりをしましたが、 それっきり静かに目を閉じてしまいました。  母は、それっきり眼を明けることはなく、永遠の 眠りについたのでした。小淵氏は、炉端で炎を 見つめていました。涙がつたいましたが、鳴き声は 出しませんでした。  「男児は滅多な事で鳴き声など出すものでは ない。」と常々母からたしなめられていたから でした。同時に、母がそんだのは、自分が 海軍に志願したことで、病気になったのでは ないかと感じました。自分が親不孝だったから 苦しめたと思いました。  父がようやく帰ってきましたが、母の最期を 看取ることはできませんでした。翌朝、妹は、 止めてもらった家から泣きじゃくりながら帰って きました。死んだことを知らないはずが、虫の 知らせがあったようでした。  小淵氏は、母は息を引き取るまで、死ぬとは 思っていませんでした。きっと生きてくれると 祈り続けていましたが、虚しく打ち砕かれて しまいました。まだ53歳と若く、近所の人からは、 これから楽になると羨ましがられた矢先の死でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 恐ろしいほど静かな夜 [巡洋艦大淀]

 小淵氏の父親は、農業の合間に茅葺き屋根の 請負仕事をしており、頼まれるとどんな遠方にも 出掛けていき、帰りが遅くなりました。時として 泊まりになることもありました。  義姉が兄に言われて、近所の人に父を 迎えに行ってもらうように頼みましたが、 自転車ででかけたその人は、父のもとにも ついていないだろうと、思えました。  こんな時に父が不在なのは、なんとも心細い 限りでした。兄と姉も途方に暮れて、言葉も ありませんでした。医者を見送った後、 近所の叔父に頼んで、親族に電報を 打ってもらうように頼みに行きました。  病床の母は、顔数カ所を切開されたらしく、 眼鼻口以外包帯でおおわれていました。 苦しそうにしていましたが、熱が出てきた らしく、「寒い、寒い」と言って震えだし ました。そして、炬燵に入れてほしいと 頼まれました。  小淵氏らは、静かに移して足の方を 炬燵に入れてあげました。母の震えは おさまりましたが、呼吸は激しく、普通の 5倍も多い回数で呼吸していました。  その苦しそうな息づかいの中で、母は、 3ヶ月前に生まれた孫のことを心配して いました。おとなしく眠っていると 返事すると、母も眼を閉じました。  小淵氏は、母のそばを離れ、炉端で 父が帰ってくるのを待っていました。 その後、母は、静かに眠ったよう でした。  父はなかなか帰ってこず、いらだちが 出てきました。たまらず、義姉が迎えに行く といって出掛けていきました。焚き火の爆ぜる 音以外は何も聞こえない恐ろしいほど静かな 夜でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 手術 [巡洋艦大淀]

 面疔の恐ろしさを聞いた小淵氏でしたが、 母の容態に結びつけて理解することは 容易にできませんでした。  しかし、自分たちにはどうにもならない 病気であるとわかればわかるほど、頼るのは 医者しかいませんでした。  何らかの処置はできていなければなりません でしたが、外科医の話は、手遅れと言っている ように思えました。  兄が、「どんなことをしてもいいので助けて ください。」と頼み込むと、「顔に傷が残りますが、 切開手術すればあるいは・・・」ということでした。  父は、仕事から戻ってきていませんでしたが、 残った家族は同意し、兄と姉が手術に立ち会う ことになりました。妹が、突然大声で泣き始め ました。いくらなだめても泣き止むことは、 ありませんでした。  小淵氏は、妹を連れて、表通りに向かって 走りました。行くあてはありませんでしたが、 丁度近所のおばさんが通りかかりました。 母と親しくしている人で、今手術している ことを話すと、事情を察し妹を連れて、 戻っていきました。  片割れの月が、山の端にかかり、無数の 星がきらめいており、凍った道がおばさんの 下駄を鳴らし、泣きじゃくりながら手を引かれて 行く妹の藁草履の音まで、妙に胸に染み込む ような夜でした。  家に戻ると、手術は終わりかけていました。 小淵氏は炉端に座り、燃え盛る焚き火を じっと見つめながら、手術の成功を 祈りました。  やがて、手術を終えた医者は、「知らせる ところがあるなら、早く知らせておいたほうが 良い。万一ということもありますからね。」と 言葉を残し、そそくさと帰っていきました。  父親はまだ帰ってきませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 面疔 [巡洋艦大淀]

 母の病状は少しも快方に向かう様子は ありませんでした。かなり苦しいはずですが、 我慢強い性格の母らしく、じっと耐えて いるのが、看護する子供にもよく 分かりました。  小淵氏が病床に言った時、母から、 「海軍はどうなった。」と聞かれました。 小淵氏は、「合格通知がきたよ。」というと、 母は、眼を閉じて、「お前も海軍に行って しまうのか・・・」とつぶやくように言いました。 小淵氏は、母の気持ちがわかり、切なさを 感じました。  翌日、学校から帰ってくると、丁度往診に きている医者が帰るところでした。医者が こういて毎日往診に来ているので、間もなく 快くなるものと考えていました。  しかし、母の唇には吹き出物ができ、日増しに 膨れ上がってきました。痛みもますます激しくなる ようでした。面疔という病気がどのようなものなのか 家中の者、誰ひとり知りませんでした。  母が床についてから4日目、様子が 思わしくないので、かかりつけ医の他に、 外科医もついてきて、二人で往診して いました。  大したことないと言われていた母の 容態が只事ではなくなってきましたが、 外科医が手術すれば良くなるだろうと 期待しました。  往診を待っていた家族は、診察を終えた 二人の医師に母の容態を確認しました。 内科医が、「どうも思わしくない」と 低い声で答えました。  受け継ぐように外科医が、「面疔は厄介な 病気で、毒素を防ぐリンパ腺がないので、 心臓に毒が回ってしまう。顔以外のできものは、 その毒のリンパ腺が喰い止めるのだが・・・」と 面疔の恐ろしさを話し始めました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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