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巡洋艦大淀 終戦後 [巡洋艦大淀]

 小淵氏が、諸磯で勤務していた時に、 夜光虫を大艦隊と勘違いして興冷めした という出来事がありましたが、平穏な 日々が続いていました。  8月15日に、突然の玉音放送があり、 戦争の終結を知りました。その日を境に、 徹底抗戦を叫ぶ厚木航空隊の指揮下に 入った諸磯砲台では、にわかに猛訓練が 開始されました。  小銃の不足分は、鉄片で、穂先を作り、 竹槍よりだいぶましな銃剣ができました。 それを武器にとして、突撃戦闘訓練が 連日繰り返されました。  小淵氏ら警備隊員は、戦うことに何の疑念も 抱かなったというより、激しい意欲を燃え 立たせていました。  こうして、終戦以降が、前にも増して活気に 満ち、充実した毎日となりました。しかし、 それも長く続きませんでした。9月になると、 現役下士官5名を残して、他は帰郷の命令が 出ました。  残った下士官は、アメリカ軍が砲台を引き 取りに来るまで残留し、砲台を管理するように、 命令されました。小淵氏は、残留の5名に 入っていました。  復員が決まった人達は、喜々として身の 回りの物を集めて、胃嚢に詰め込み、分配 された物品の荷造りに、大わらわでした。  年配の国民兵が、復員支度するのを眺めて いた小淵氏は、初めて敗戦の悲しみが前進を 駆け巡りました。  小淵氏はいたたまれなくなり、ごった返して いる兵舎を離れて、砲台のある丘に行きまし たが、体中の力が抜け、歩くことさえ、困難 な感じがしました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 横須賀空襲 [巡洋艦大淀]

 B29と潜水艦の救助撃があった日の 夕食後、いつもと変わりなく入湯上陸が 許されました。  昼の出来事など、誰も気にしている様子も なく、「こんなことでいいのだろうか」と思い ながら、当直者と、新兵だけが残る兵舎を、 あとにしました。  諸磯の警備隊員は、入湯上陸の時、大部分が 三崎町の旅館に泊まりました。兵舎はこの宿の 別館でした。  旅館には、妙験先生と呼ばれる老婆が寄宿 しており、霊媒術で神霊のお告げを聞くという 噂でした。  その妙験先生が、「8月になると日本は 大変なことになるぞ。」「世の中がガラリと 変わってしまうぞ。」と言ったという噂が 隊内に広がっていました。  7月になると、敵の艦載機が、関東地方にも 来襲し始めました。小淵氏が隊の備品を受け 取りに横須賀に行ったのは、7月17日でしたが、 この日、横須賀市も初空襲に見舞われました。  工廠を始めと、艦船や港湾施設などが だいぶやられました。空襲の様子を高台で 見ていた小淵氏は、恐怖心などは全く 起きませんでした。  一緒に来ていたものを防空壕に退避 させると、頭上高く軍港に向かう敵機を じっと見つめていました。敵機は大胆な 急降下爆撃を繰り返しました。  それに対し、対空砲を発砲していましたが、 一機も撃墜されることはありませんでした。 ただ一つ珍しいことは、機体から離れた ばかりの数発の爆弾が、砲弾の炸裂により、 誘爆しました。  この空襲で、長門が損傷しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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