赤城・加賀 艦上攻撃機と艦上爆撃機による攻撃 [航空母艦「赤城」「加賀」]
損害を受けた加賀は、敵戦闘機の優秀性を
悟り、直ちに搭載していた90式戦闘機より
格段に性能が上の96式艦上戦闘機を
加賀に送るように求めました。
航空本部は、直ちに態勢を整えた新型戦闘機を
加賀に送りました。96式戦闘機は、九州から、
東シナ海を渡って、加賀に搭載されました。
8月17日、加賀から12機の89式艦上
攻撃機が出撃しました。攻撃目標は、上海周辺の
鉄道施設でした。そして、その日から、加賀は、
連日艦上攻撃機と艦上爆撃機が出撃し、上海
周辺の各種の施設を攻撃しました。
8月23日、陸軍部隊が呉淞海岸に上陸作戦を
敢行しました。この時加賀は、艦上戦闘機が出撃し、
上陸地点の上空警戒を行いました。一連の作戦が
終わり、加賀は、一旦佐世保軍港に帰還し、整備と
補給を終えると、再び出撃していきました。
次の作戦は、南京周辺の航空基地や地上軍用
施設に対する艦上攻撃機と艦上爆撃機による
精密爆撃でした。この作戦に際して、上海西方に
ある地上基地がありましたが、より大規模に
するため、加賀に派遣応援を求めていました。
この要請に対し、加賀から艦上戦闘機15機と、
艦上攻撃機12機を送り込みました。南京までは、
450kmもあり、洋上から攻撃するには限界に近い
距離でした。陸上基地からの展開は、有利になると
判断されました。
南京周辺施設に対する大規模爆撃行動は、
9月15日から展開されました。
紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」
著者: 大内 健二
赤城・加賀 厳しい痛手 [航空母艦「赤城」「加賀」]
日中戦争が勃発した当時、日本海軍は、
航空戦隊を編成し直していました。
第一航空隊は、鳳翔と、1933年に
完成した空母龍驤となり、第二航空隊が、
赤城と加賀で編成されていました。
しかし、日中戦争勃発当時、赤城は、
大改造の途中だったため、第二航空隊は
加賀のみ出撃しています。
1937年8月14日、加賀は、揚子江河口
東方沖に到着すると、翌日から作戦を開始
しました。
この日、加賀は、45機の攻撃機を出撃させて
います。日本海軍が、空母から大量の航空機を
一気に出撃させたのは、これが最初です。
この日の目標は、3箇所の飛行場で、
各飛行場に13機~16機向かいました。
日本軍機は、飛行場の一箇所が、視界不良で、
別の飛行場に目標を変更するということが起きて
います。中国空軍も迎撃態勢をとっており、
攻撃直後に、攻撃部隊に襲いかかって
きました。
この攻撃で、6機が撃墜され、2機が
帰還途中に海上に不時着しています。
最初の攻撃で、8機の損害は、加賀の
航空隊にとって厳しい痛手でした。
戦闘機も付けずに出撃させ、敵の
迎撃をくうという、敵を侮った失敗と
言えます。
(追記)
空母龍驤は、鳳翔に次いで、日本海軍が
最初から空母として建造した二番目の艦
です。当初、議会では水上機母艦として
予算通過していたようです。
当初の排水量は8000tですが、復元性が
悪く、改造を重ねて1万tを超えることに
なりました。速力29ノット、艦載機は
36機搭載できました。
第二次ソロモン海戦で、艦上機の爆弾と
魚雷を浴びて、撃沈しています。
紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」
著者: 大内 健二