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巡洋艦大淀 生家に到着 [巡洋艦大淀]

 渋川駅にたどり着いた小淵氏は、駅頭に 立って故郷の山河を確認しました。  変わりはないように見えましたが、本土 決戦を前に慌ただしく帰郷した時と、現在 との違いはどうだろうかと考えていました。  上毛三山を仰ぎ見ることなく、荷物を 抱えて、人の流れに乗って、吾妻線に 乗り換えました。  吾妻線は、蓋がある貨車に木製の椅子が あるだけの路線でしたが、前回は歩いて 移動したことを考えると、乗れるだけ ありがたいと感じていました。  1時間ほどで、中之条に到着し、駅から 1kmほどのところにあるバス停に向かい ました。バスを待っていると、女性車掌が 切符を切りに来ました。  小銭がなかった小淵氏は、100円札を 出すと、釣り銭がないと言われました。この あと押し問答があり、小淵氏はバスに乗らずに、 3kmほどの道のりを歩いていくことになりました。  胃嚢は重く、肩にのしかかってきました。 先に復員したものよりは荷物は少ないものの、 重いということに代わりはありませんでした。  800mも歩いて、一休みし、また歩きだすと、 乗りそこねた満員のバスが追い抜いていき ました。しばらく歩いていると、前から、 高校の担任の先生が、自転車で走ってきました。  挨拶すると、「しっかりやってくれ。」と 返事をもらいました。さらに歩いていき、 すっかり夕闇がおりた頃、ようやく生家に たどり着きました。  表戸を開け、「只今帰ってきたよ。」と 入っていくと、「やっぱり帰ってきた」 「特攻隊にでも志願して死んでしまった のかと思っていた。」等の言葉が一斉に 集中しました。  終戦になってから、一度も手紙を出して いないことに思い至りました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 ガラリと変わった日本 [巡洋艦大淀]

 翌日、小淵氏らは、身の回りの物を まとめ、お世話になった人達へ挨拶に 行き、浜諸磯の集落をあとにしました。  弥助じいさんからは、「暇をみつけて また来いよ。」と手を振ってくれました。 小淵氏は、弥助じいさんの伝馬船に乗って、 タコ取りをしたことがあります。  しかし、山育ちの小淵氏は、タコが 保護色になれる事も知らなかったので、 見つけることはできませんでした。  相模湾を埋め尽くしていた連合軍の 艦艇は、東京湾に移動したので、以前の ような静かな海に戻っていました。  この浜諸磯に来て、半年しか経っていない ものの、長く住み着いたように分かれがたく 感じる人が多かったとしています。  小淵氏は、横須賀市内にある下宿に 行き、翌日帰郷する予定でした。市内は、 進駐軍の兵士が、旧日本軍にとってかわり、 街にあふれていました。  下士官兵集会所や軍関係の施設は、 全部接収され、港内に連合軍の艦艇が ひしめき合っていました。  歩いているアメリカ軍兵士の大半は、 派手な服装の日本人女性を連れてふざけ あっていました。  日本は、8月15日を境にして、ガラリと 変わってしまっていました。妙験先生の 予言は、見事に的中していました。  翌日、小淵氏は、上野から乗れるだけの 人員を詰め込んだ汽車に乗り、故郷に 向かいました。身動きもできない車中で、 汗くさい戦闘帽が、眼の前をふさぎ、 車窓から外の風景を眺めるよしも ありませんでした。  すし詰めの列車で4時間、やっとの思いで、 渋川駅にたどり着きました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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