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硫黄島決戦 横須賀に帰還 [硫黄島決戦]

 横須賀に帰ることになった橋本氏に、指揮官は
お金を渡し、「横須賀に着いたら、横笛と楽譜を
送ってほしい」と頼まれました。

 橋本氏は、戦争が終わっても、この時の指揮官の
幼な顔と、さびしげな姿が思い浮かぶとしています。

 指揮官が、横笛を頼んだ真意は分かりませんでし
たが、平敦盛や白虎隊のように笛を吹いて、心を
洗って戦いに臨みたいと考えておられたと、考え
ました。

 そして、「無事に横須賀へ帰る。輸送船が沈んでも、
泳ぎ着いてやる」という決意をしました。橋本氏は、
10月28日の輸送船で、硫黄島を出発し、横須賀
に向かいました。

 幸運の女神に認められたのか、何事もなく10月2日に、
横須賀に到着しました。

 橋本氏は、横須賀に上陸し、最初にしたことは、
水道の水を飲むことでした。水道水を飲むことで、
祖国に帰った安らぎと、ありがたさに涙が流れて
きました。

 橋本氏は、海軍病院の迎のトラックで、野比海軍
病院へ向かいました。三浦半島にある山を見て、
「このような山が硫黄島にあれば頑丈な防空壕が
掘れるのに」という感想を持ちました。

 別れの晩に会いに来た司令官や、一緒に戦った
機銃兵の顔が浮かび、今も空襲を受けているで
あろうとことを想像すると、一人内地に戻って
きたことが申し訳なくなりました。

(追記)
 橋本氏は、看護婦に頼んで、横笛と楽譜を購入して、
送ってもらいました。この後、橋本氏らがいた機銃陣地は、
1945年2月27日に、攻撃を受け、全滅したと思われます。

 橋本氏は、この後、いくつかの病院を転々とし、回復して
からは、館山砲術学校に勤務後、鈴鹿航空隊勤務となり、
この地で、終戦を迎えています。戦後は、海上自衛隊で
勤務しています。


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硫黄島決戦 思いがけない任務 [硫黄島決戦]

 徐々に体力も回復した橋本氏は、敵空襲の際に、
自力で防空壕に逃げ込めるまでになりました。
回復するにつれ、生きなければならないという
思いに突き動かされることになりました。

 そんな折の9月27日の診療の際に、軍医長から
思ってもいなかったことを告げられました。「明日、
横須賀に帰る便があるので、患者を送る。その
指揮官を兼ねて送院する。」というものでした。

 橋本氏は、この時点では微熱は続いており、まだ
ふらふらするものの、回復したものと考えており、
その後は現場復帰と思っていました。そのため、
軍医長の言葉が、最初分からず、呆然としました。

 さらに、一緒にいた看護兵が、「断ることはできるが、
硫黄島に残れば、病気全快は難しい。むしろ静養
どころか、体力の消耗となり、回復より悪くなる
だろう。」と忠告してくれました。

 橋本氏は迷って返事することもできなかったため、
了承とされてしまい、横須賀に帰ることになりました。
陣地にその旨の報告をすると、その日の夜に、
指揮官が訪ねてきました。

 指揮官からは、名残惜しいが、がんばるようにという
言葉をもらいました。そして、指揮官から一つ頼みごとを
託されました。

(追記)
 患者輸送指揮官は、硫黄島から内地に帰れるという
ことで、希望者が多く、普段なら人選に困るほど志願者が
出ますが、この頃は、敵軍の包囲をかいくぐって横須賀に
つける確率は、3回に1回くらいとなっていました。

 そして、今回は順番的に撃沈される可能性が高いと
いうことで、志願者はいませんでした。橋本氏は、
患者の一人ですが、歩けるのと下士官でもあるので、
選ばれたようでした。


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硫黄島決戦 下痢を引き起こす [硫黄島決戦]

 9月の下旬に入ると、戦況は、フィリピン方面に
移ったため、硫黄島は、小康状態に戻りました。
硫黄島は重要な拠点なので、壕堀りは進められ
ました。

 上陸時、水には注意するようにという命令を
出していた橋本氏も、この頃には横着になって
いました。

 以前は、何回も煮沸した上で、最低限の量だけ
飲むようにしていましたが、この頃は、ゲンノ
ショウコを入れて、一回煮沸しただけで飲んで
いました。

 しかも、汗をかくので、がぶ飲みすることも
多くなってきました。頑健を自負していた
橋本氏も、下痢を引き起こすことになり
ました。

 二日ほど宿舎で休んでいましたが全く直らず、
病院に行くことにしました。病院は海軍が
所有しているものですが、陸軍兵も多数
いました。

 その中には、骨と皮だけになった兵隊が
多数いました。

 診断の結果は、アメーバ赤痢で二週間入院と
いうものでした。一緒に来てもらっていた兵士に、
指揮官にこの病状を伝えることと、次に来る時は、
自分の所持品を持ってきてほしいと頼みました。

 その後、橋本氏は、40度を超える熱により、肺炎も
併発し、さらに、肺浸潤も併発することになりました。


 橋本氏は、駆逐艦雷で、2年間戦場を渡り、硫黄島
でも空襲と艦砲を食っても、緊張した中でのことだった
ので、絶望に陥ったことはありませんでしたが、病気は
どうにもできず、死の恐怖を感じることになりました。

(追記)
 橋本氏は、この時のことは記憶があまりなく、何日間
病気で苦しんでいたのかはっきりしていないとしています。
この中で、家族のことを思い出したり、這いつくばりながら
用便を果たしたことだけは確かだとしています。

 この甲斐あってか、橋本氏も体力は徐々に回復して
きました。


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硫黄島決戦 納得いかない叱責 [硫黄島決戦]

 橋本氏が、砲台本部に戦果の報告をした
数時間後、警備本部から、弾薬保管責任者
の少尉と、駆逐艦雷で橋本氏と一緒に行動
していた佐々木伍長が、自動車でやって
きました。

 橋本氏は、よくやったの一言でももらえるかと
意気高々で迎えました。ところが、少尉から
発せられたのは叱責でした。

 「この馬鹿もん。一日に千発も消費しやがって。
お前んとこの弾丸はあとどれだけ残っているのか
考えてんのか」というものでした。

 最初、橋本氏は、この少尉は、佐世保出身
なので、関東出身の橋本氏らが、戦果を出す
ことにやきもちを焼いているのかと思い、
憤然としていました。

 続けて、「硫黄島には、一万発も機銃弾は
ない。一日300発と決められているのを知ら
ないのか」と、発しました。

 納得いかない橋本氏は、少尉をにらんでいました。
このような態度は、問題を起こします。少尉は、
橋本氏に制裁を加えるべく、踏み出しました。

 その時、佐々木伍長が、「こいつは、一緒の
艦に乗っていたんだ」と言いながら、少尉と、
橋本氏の間に入っていきました。

 佐々木伍長は、下士官とは言え、戦場を
歩いており、貫禄という点では、少尉には
到底及ばないものを、持っていました。

 少尉もあきらめ、佐々木伍長と帰って
いきました。

(追記)
 硫黄島には、25mm機銃は一五七梃と言われて
いました。橋本氏はこの数字は知っていましたが、
一日300発というのは聞いたことはありません
でした。

 聞いていたとしても、戦闘中に弾数を数えながら
戦闘することは不可能でした。

 橋本氏がいる陣地の隣には、弾薬庫があり、
そこに機銃弾は山のようにありました。

 橋本氏は、これは、自分の陣地の機銃弾だと
思っていましたが、実際は、警備本部の銃弾で、
橋本氏は勝手にギンバイしていたということに
なります。


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硫黄島決戦 敵の攻撃の跡 [硫黄島決戦]

 空襲と艦砲射撃による敵の攻撃がやっと終わり、
機銃陣地の周りに転がっている、艦砲射撃で
飛んできた大岩をどかすという作業があり
ました。

 これが終わり、次の作業は、機銃の機能回復
でした。機銃は、訓練ではしょっちゅう故障して
いたので、手入れは怠りなくやっておく必要が
ありました。

 しかし、今回の戦闘で、機銃は一度も故障する
ことなく働いていたことに、橋本氏は驚いていま
した。実戦で生き返る機銃に恐怖すら感じて
いました。

 今回始めて戦闘に参加している召集兵は、
始めて見た戦争の凄惨さを垣間見て、痴呆に
なったように破壊の後を眺めていました。

 この時は、敵が上陸してくるということを、
考えないようにしていました。

半年年期で徐隊といわれ
勇んできた島、硫黄島
温泉どころか水さえ飲めず
雨は雨でも弾丸の雨
というざれ歌が、現実になってきたという実感を持っていました。

 人員や兵器への損害はありませんでしたが、弾薬、
燃料、糧食などへは甚大な被害が出ていました。
貯水槽の破壊が、特に響きました。

 橋本氏は、今回の戦闘での戦果として、「敵機撃墜3機、
撃破2機、人員機材異常なし、発射弾数1080」と、砲台
本部に報告しました。敵機を撃墜しているので、橋本氏ら
機銃員は、鼻高々でした。

(追記)
 この後、アメリカ軍の機動部隊は、硫黄島への
上陸作戦は行わず、小笠原諸島を離れていき
ました。

 空襲と艦砲による攻撃を受けた硫黄島でしたが、
この攻撃による死者はなく、軽微な傷者が数名いた
だけでした。

 硫黄島の要塞は、空襲や艦砲射撃では問題ない
ほど堅固であることを証明しました。硫黄島の指揮
統制と、兵員の即応力が見事に合致した結果でした。


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硫黄島決戦 艦砲射撃の恐怖 [硫黄島決戦]

 防空壕に飛び込んだ橋本氏でしたが、今回は
防空壕の電気は消え、真っ暗な状態でした。

 明るいところから暗い所に飛び込んだので、
何も見えず、その場にしゃがみこむしか
ありませんでした。

 後から来た兵士たちも、暗闇ではどうにもならず、
橋本氏と同じようにその場にしゃがみ込むことに
なりました。

 そのため、さらに後から来た兵士が、しゃがんだ
兵士にぶつかって躓き、転んだりしていました。
今回は、艦砲射撃の恐怖を肌で感じたせいか、
冗談を言うものはいませんでした。

 航空隊も、暗闇ではすることもなく、防空壕の隅に
固まっていました。この間、硫黄島全体が、艦砲射撃
のために、大時化の中を進む船のように揺れ続けました。

 艦砲射撃が終わり、一息ついた時、橋本氏は、
兵士たちに、「昼飯はどうなった」と声をかけました。
みんな、朝食以来なにも食べていませんでした。
橋本氏は、余裕を持たせるため、あえて尋ねたようでした。

 橋本氏が戻ろうとすると、「闘配置つけ」の砲台本部
からの伝令が怒鳴りました。橋本氏は、「そりゃ行くぞ」と
号令をかけたものの、橋本氏自身動作が緩慢で、みんな
を叱咤することもできず、陣地へ向かいました。

(追記)
 機銃陣地に戻った橋本氏は、艦砲射撃で吹き飛んだ
岩や砂に覆われた機銃陣地を見ることになりました。
硝煙のにおいで覆われ、陣地は大きく裂けていました。

 今回の艦砲射撃は、新規の召集兵に対して、恐怖を
経験させることになりました。同時に、防空壕に逃げ
込まなかった指揮官や動けなかった兵士は、生きた
心地がしなかったと思われます。


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硫黄島決戦 再度の艦砲射撃 [硫黄島決戦]

 艦砲射撃が終わり、機銃陣地に戻ると、また
空襲警報が鳴り、配置に着くことになりました。

 例の如く、飛行隊から、「砲台さん、おめでとう」と
いう皮肉交じりの励ましの言葉を、もらうことになり
ました。

 橋本氏も、「走れ」の号令を下すものの、機銃兵
たちの動きは、先程防空壕にかけていった時の
ような俊敏性は、見られませんでした。

 よそに連れていかれる羊のような行動で、機銃にも
のんびり着くという有様でした。

 橋本氏は、それでも、さっきの要領で機銃を使う
ように命じました。艦砲射撃が終わってから一時間も
しないうちの再度の空襲なので、闘争心はありました。

 敵の搭乗員が見えるほど低く飛び込んでくる
敵機に対し、銃撃を浴びせ一機撃ち落としました。
敵機に対する余裕が出てきた時、橋本氏は銃身を
冷やすように命じました。

 あらかじめくんでおいた泥水に、米袋を浸して、
銃身に乗せると、ジュ―という音とともに水蒸気が
出てきました。

 これでは足りないと判断した橋本氏は、油を
ぶっかけるという乱暴な指示を出し、冷却して
いきました。

 空襲が始まってからぴったり一時間後、「総員退避」の
命令が下りました。今度は一斉に、陣地を飛び出し、
元山防空壕に急ぎました。しかし、今回は着く前に、
砲撃が始まってしまいました。

(追記)
 砲撃が始まると、橋本氏は反射的に伏せてしまい
ました。異常事態に対し伏せるのは、最も生存確率が
上がる対処方法ですが、艦砲射撃は、百雷どころか、
万雷とも言えるものなので、伏せていたら、やられて
しまうことは確実でした。

 砲撃の中を、防空壕めがけて走るしかなく、慌てて
防空壕に飛び込むというのが実態でした。


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硫黄島決戦 防空壕の奇妙な光景 [硫黄島決戦]

 元山の防空壕には、橋本氏より先に、飛び立って
いない航空兵がいました。しかも、トランプ遊びに
熱中していました。

 これを見た機銃兵の一人は、「こちらは戦している
のに、この人達はバクチしてやがる」と悔しそうに言い
放ちました。この時も、戦艦の艦砲射撃が続いており、
島は振動して悲鳴を上げていました。

 橋本氏にしてみれば、この世の終わりという状況
でしたが、防空壕でトランプに熱中している兵士が
いるとうのは、奇妙な戦場でした。

 航空隊は、飛ぶ飛行機がなければやることがなく、
戦闘はいい骨休みと考えているようでした。

 橋本氏は、消耗品と言われた駆逐艦で3年間過ごし、
その間、一発の砲撃や雷撃で艦と運命を共にする
といいう緊迫感の中で過ごしていました。

 ここにいる兵士の大半は、戦場で過ごしたことがなく、
そのような緊迫感を持つことができないようでした。

 一方で、橋本氏は、駆逐艦と違って、硫黄島の場合、
頑丈な防空壕にいれば、戦艦の砲撃だろうとB29の
爆弾であろうとやられることはないという事実に気が
付きました。

 壕に転がり込んでいれば安全と判断でき、常に
緊迫感を持つ必要はありませんでした。橋本氏は、
この戦場とは思えない光景に、頭を抱え悩むことに
なりました。

(追記)
 橋本氏が悩んでいた時、橋本氏の下で機銃を扱って
いる兵士たちは、飛行隊がトランプに興じているのを見て、
一緒になって、花札や将棋をおっぱじめてしまいました。

 これを見て、橋本氏も、兵隊とは何ぞやという思いが
出てきました。明日の命も知れないという恐怖感の中で、
いかに生きていくかという生きざまを見せつけられたような
気分でした。


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硫黄島決戦 別の防空壕へ移動 [硫黄島決戦]

 戦艦の砲撃だと察知した橋本氏は、「戦艦だ」と叫び、
同時に、全身に冷や汗が流れました。そして、この壕では
耐えられないので、200mほど離れている元山防空壕まで
走って逃げることにしました。

 橋本氏は、兵士に怒鳴り、夢中で200m先の防空壕
まで走りました。戦艦は、砲撃の間隔が数分かかることを
知っていたので、200mなら走れるという判断でした。

 橋本氏は最初に元山防空壕に飛び込み、その後
3~4人が飛び込んできたところで、再び、戦艦の砲撃
による地鳴りと轟音がきました。その後、何人かの兵士が
転がりこんできました。

 橋本氏が、人員点呼すると、19名しかいませんでした。
残りは、身体を壊して宿舎で軽い作業や病室にかよって
いる兵士で、ここまで走る体力はなかったようでした。

 橋本氏は、「下手に移動するより、安全かもしれない」と
言いながら、残った兵士たちのことは気になりました。

 艦砲射撃は1時間ほどで終わり、幸い残った兵士も
含め全員無事でした。しかし、橋本氏は、この元山
防空壕で、奇妙な光景を目にすることになりました。

(追記)
 橋本氏は、200m先の防空壕に走っている時、
「おおい、待ってくれ」と、誰かが叫んだのを
聞いていますが、振り返る余裕はありません
でした。戦場では、走れなくなったら、それ
だけで死を意味することになります。

 橋本氏は、子供のころから、かけっこで選手に
選ばれるほどだったので、足には自信があり
ました。

 この時は、戦艦の砲撃の怖さにより、必死に
走っていたので、誰もついてこれなかったよう
でした。


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硫黄島決戦 艦砲の巨弾に仰天 [硫黄島決戦]

 橋本氏は、艦砲射撃は、この世の終わりのような
地獄絵図だとしています。

 敵艦は、日本軍からの空襲を考慮することなく、
まるで訓練のように、計算通り、各セクションに
1時間ごとに攻撃していきました。

 不沈空母を豪語する硫黄島もその猛攻の前には、
島全体が、砲撃に鳴動しました。橋本氏は、
ミッドウェー海戦で沈んだ赤城や加賀の
最後の悲鳴を連想しました。

 橋本氏が、艦砲射撃を見た時、駆逐艦と巡洋艦が
4隻で砲撃をしていました。こうなると、機銃に
ついているわけにはいかず、未完成の防空壕に
飛び込んで、うずくまっているしかありません
でした。

 しばらくは、元山砲台の方には砲撃がなかったので、
壕の中でも余裕がありました。皆、ちぢみあがって、
地面に伏せていました。とたんに、元山砲台の
近くで、耳をつんざく破裂音が響きました。

 橋本氏は、大砲屋の経験で、これが、戦艦の36cmか
40cm砲であることを瞬時に察知しました。同時に、この
未完成の壕では、戦艦の艦砲射撃には耐えられないことも
わかりました。

(追記)
 橋本氏らが、硫黄島で防空壕掘りをしていたころ、
日本海軍は、レイテ沖海戦に向けた準備を行って
いました。

 硫黄島守備隊の栗林陸軍兵団長や、市丸海軍
司令官らは、日本海軍の結果を待ちながらも、
豪掘りに徹すると追う方針を貫いていました。

 この頃は、橋本氏らは、生命力が強く、
手入れしていないにも関わらず色づき、
水を蓄えているサトウキビを、陸軍の
部隊農耕地の看板を無視して、収穫
していました。


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