SSブログ
駆逐艦野分 ブログトップ
前の10件 | -

駆逐艦野分 終戦処理 [駆逐艦野分]

 終戦になり、小沢長官の統率力により、海軍の解体が
始まりました。最初は、航空機から復員が開始されました。
極寒のロシアに配属された佐藤氏の同期生は、食もなく
苦労したということでした。

 残った駆逐艦には、海外の残された軍人や一般人を
復員させるという業務が待っていました。一部大型艦も
当たりましたが、この当時残っており、動くことができた
のは、大半は、駆逐艦以下の水上艇のみでした。

 佐藤氏は、終戦時は、駆逐艦桐に乗艦しており、終戦と
同時に武装解除し、関係書類を焼却処分しています。
呉に戻るときは、爆雷を漁場に投げ込んで、鯛を取る
ということをしていました。

 終戦となり残された遺族に対して、紙に「英霊」とだけ
書かれて届けられました。遺髪も遺品もなく、肉親の死を
紙一枚で認めなければならない無念さは、やるせないと
いえます。

 この紙を受け取った人は、「早い時期に戦死した人は、
村葬をしてもらい、大事にしてもらっていたのに、同じ
国のために散ったのに、遺骨の出迎えすら禁じられた。
国のために奉公させたが、今は年金より、肉親を返して
ほしい。」という言葉を残しています。

 無意味の戦争を継続した人達の責任は、重大だと
改めて思います。

(追記)
 佐藤氏は、あとがきで、歴史は繰り返すといわれるが、
歴史教育の欠如がしているからだとしています。さらに、
戦時中も、この本を書いているバブル経済崩壊時も、
上層部が、真実を隠すために嘘をつくという体質が
変わっていないとしています。

 かつての戦争については、GHQによる東京裁判以外、
まともに検証されているとは言えない状態です。日本人の
手で、国土を焦土にした戦争がなぜ始まり、継続したのか、
その責任は誰にあったかを、今からでも明確にしていくべき
といえます。

 これがないと、戦争の歴史を繰り返すことになります。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 終戦 [駆逐艦野分]

 海軍総隊に、小沢中将がついた後も、尊い犠牲を
払いながら、戦局は悪化していきました。

 結果的に、戦闘は本土防衛ということになったため、
国土の焦土化が進んだことになります。結局、原爆が
使用されたことで、継戦能力がなくなったことをようやく
自覚し、昭和天皇の御聖断となりました。

 ニミッツ長官は、ただちに、全艦艇に攻撃行動の
即時停止の電報を発しました。ハルゼ―提督は、
駿河湾に入っています。

 ハルゼー提督は、1908年に、ザ・グレート・ホワイト
艦隊の一員として、日本を訪れています。これは、
アメリカの国力を示す示威行為ですが、この時は、
アメリカ側も、迎える日本側も最大級の配慮をして
います。

 この時、東郷元帥の英語のスピーチを、当時少尉だった
ニミッツ長官とハルゼー提督は聞いています。ハルゼ―提督は、
ミッドウェー海戦前に行われたドウーリトル爆撃機を率いて
日本を初爆撃し、その後2年半かけて、焦土作戦を実行した
ことになります。

 世界最強と言われた日本海軍は、ニミッツ長官の戦略と、
ハルゼー&スプルーアンス両提督の前に敗れ去ったといえ
ます。

(追記)
 アメリカが、広島と長崎に原爆を投下したことについて、
日本国内では非難があるようですが、していなければ、
アメリカは11月に鹿児島、翌年の3月二本州に上陸
するつもりでした。

 当然、ソ連も参戦しているので、日本は完全に滅んで
いたといえます。原爆が終戦を早め、日本が滅ぶのを
防いだというのは事実であり、この点については
アメリカに感謝しなければならないといえます。

 原爆投下を感謝しなければならないような状況に、
日本を追い込んだ当時の指導部の罪は、許せるもの
ではありません。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 喪失認定 [駆逐艦野分]

 野分は、行方不明となったものの、生存の可能性を
考慮して、すぐには沈没の認定は行われませんでした。

 レイテ沖海戦後、フィリピンにマッカーサーが上陸し、
日本がB29の爆撃で焦土と化していき、大和が水上
特攻隊の沖縄突入作戦で、栄光の連合艦隊水上
部隊が壊滅した頃の昭和20年4月26日に、野分の
喪失が認められました。

 総員273名全員が、戦死と認定されました。遺族には、
戦死公報が伝達されました。

 昭和20年5月29日、海軍総隊が創設され、小沢
治三郎中将が、軍令部次長から就任しました。海軍の
終戦処理を混乱なく進めるために、海軍の残りの全部隊の
最高指揮官にしたものです。

 多くの先輩を差し置いての抜擢であり、日本では
珍しいといえます。しかし、戦争では、能力が高い人を
抜擢するという柔軟な人事が欠かせないものであり、
今更遅いとも言えます。

 アメリカでは、これは当然行われており、ニミッツ長官は、
少将から大将に抜擢されています。その分、失敗に
対しても厳しく罰せられ、一度の失敗で、社会的に
抹殺されたような人もいます。

(追記)
 佐藤氏は、野分乗員の遺族に出された戦死公報を、
戦後確認しています。これを見ると、戦死した日である
1944年10月25日は正確に記載されており、場所は
フィリピン東方海面という漠然とした書き方ながら、
正確な記述がされていました。

 しかし、乗り込んでいた艦の名称である野分は、
一文字も出てきておらず、機密保持のため、艦名は
知っていても一切漏らすなという付記がされていました。

 これが、アメリカ向けの機密保持ではなく、一般国民
向けのものであることは間違いなく、B29で本土が
爆撃されているような時期になってまで、隠し
通そうとしているのは、呆れしか出てきません。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 稀有の体験 [駆逐艦野分]

 ハルゼ―提督の記述を見ると、野分は、まれに見る
稀有な体験をしたことになります。

 それは、スプルーアンスとハルゼーという2人のアメリカ
海軍の提督に、同じ艦であるニュージャージーから、直接
目撃されたということです。

 スプルーアンス提督とは、トラック島空襲の際、
ニュージャージーの砲撃からのがれており、この時、
スプルーアンス提督は、ニュージャージーの提督席
から野分を目撃しています。この時は、佐藤氏も野分に
乗っており、昨日のように思い出せるとしています。

 ハルゼー提督も、スプルーアンス提督が座っていた
同じ席で、野分が爆発したているところを、直接見て
いることになります。

 アメリカ軍は、戦後、海戦を詳細に確認しており、
スプルーアンス提督が逃がした駆逐艦と、ハルゼー
提督が目撃した艦が、同じ艦名で記述されており、
つき合わせれば、同じ艦であることは分かったはず
でした。

 しかし、それぞれをまとめた人が別だったせいか、
気付かなかったようです。

 佐藤氏は、救助活動は、3時間くらい行っていたと
考えていますが、1時間で切り上げていれば、助かった
としています。

 一方で、守屋艦長や野分の乗員のことを知る佐藤氏は、
救助を途中で切り上げるということはしなかっただろうとして
います。

(追記)
 戦艦ニュージャージーですが、モスボール(配員はいない
ものの、すぐに使えるように保存しておく)という状態でしたが、
1980年代の中近東の緊張により、現役復帰しています。

 昭和63年に、オーストラリアのメルボルン港を訪問した際に、
海上自衛隊の遠洋航海実習船部隊と友好交換しています。

 この時、実習部隊の旗艦は、トラック空襲の際、ニュージャージー
から攻撃された香取の名前を引き継いでいる艦でした。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分の最期 [駆逐艦野分]

 アメリカ軍は、補給が完了後、戦艦2隻と、
軽巡洋艦8隻、駆逐艦を分けて、臨時編成
しました。

 そして、この艦隊を先行させ、その後ろに、
ハルゼー提督の旗艦ニュージャージーが続き、
残りの戦艦4隻が、後方に控えて航海して
いきました。

 これは、夜間に、栗田艦隊と鉢合わせし、砲撃戦を
することが予想されたための編成でした。この艦隊を
編成したリー司令官も、砲撃戦を再現したいという
望みを持っていたと考えられます。

 空母部隊は、サルベジノ海峡を封鎖する形で待機し、
出てくる艦を撃滅するように命じられました。しかしながら、
この部隊が待機する3時間前に、栗田艦隊は、すでに
サルベジノ海峡を越えており、接敵することはありません
でした。

 アメリカ軍は、艦隊から落伍した艦を一隻仕留めただけ
でした。この一隻が、野分でした。野分の最期については、
ハルゼ―提督自身が、自分の伝記で記述しています。

 「ニュージャージーの艦橋から一隻の落伍艦を見つけた。
巡洋艦群は、一斉にその落伍艦に砲撃し、駆逐艦が魚雷で
とどめを刺した。魚雷は、火薬庫に引火したようで、30km
離れたニュージャージーの艦橋からも確認できた。」として
います。

(追記)
 ハルゼー提督をはじめ、この時アメリカ軍の将兵は、
この落伍艦の艦種が分からず、戦艦から駆逐艦まで、
各艦長ごとにバラバラでした。そのため、間をとって
巡洋艦として報告しています。

 戦果を自分の都合のいいように大きく報告することは、
アメリカでも行われており、これくらいの誤報はあり得ると
いえます。

 佐藤氏は、落伍艦というのは失礼は言い方だとして
いますが、夜間に、1隻のみで航行していたことで、
誤解されても仕方ないとしています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 アメリカ軍の動き [駆逐艦野分]

 野分が筑摩の救助をしていた頃、アメリカ軍も
合理的とは言えない行動をしていました。

 ハルゼー提督が、意見具申を無視してまで、
囮の空母部隊に突進していたは、この機動部隊に
いた戦艦の伊勢と日向を、砲撃戦でしとめようとして
いたためでした。

 航空機が主流になったこの頃に、時代錯誤とも
言えますが、アメリカ海軍は、日露戦争でバルチック
艦隊を完膚なきまでに打ち破った東郷元帥に憧れを
もっており、艦隊戦で戦艦を沈めることに、一種の
こだわりがあったようです。

 これは、冷静沈着といわれるスプルーアンス提督も
持っていたようなので、ハルゼー提督が異常という
わけではありませんでした。

 戦後に、この判断誤りを自ら認めており、その点では、
日本軍の将兵よりはマシといえます(もっとも、かなりの
言い訳はしており、沈黙を守った栗田司令官と比較すると、
潔いとは言えません)。

 ハワイにいたニミッツ長官は、通信状況から、レイテ沖
海戦の全容をしっかり把握しており、サマール沖海戦で
日本海軍と闘っている部隊に対し、行動するよう促して
います。

 アメリカ軍は、リー司令官が、6隻の戦艦で、行動を
起こし、12時に燃料補給をしています。この頃に、
野分に筑摩救助の命令が下ることになります。

(追記)
 上記の点について、佐藤氏は、いくつかのIfを
提示しています。

 燃料補給をせずに突進していれば、栗田艦隊と
会敵しただろうとしています。そうなると、数からいっても、
栗田艦隊に勝機はなく、全滅しただろうとしています。

 スプルーアンス提督が、この海戦も指揮していた場合、
囮艦隊に見向きもしなかった可能性があり、サマール沖の
戦闘で、栗田艦隊は、全滅していただろうとしています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

筑摩を助けに行った野分の状況 [駆逐艦野分]

 佐藤氏は、当初、栗田長官の反転は批判的でした。
しかし、この海戦を調べるうちに、この状況で反転しても、
非難はできないと思えるようになったとしています。

 航空機の支援のない海域を、他の艦隊との通信も
不通で状況も分からないとなると、戦闘目的を
放棄して退避することも自然だとしています。

 この時、突入していれば、戦場に戻ってきたハルゼ―
艦隊と鉢合わせすることになり、レーダー射撃で
全滅したと思われます。退避したことで、野分が
この艦隊につかまり、撃沈されることになりました。

 筑摩を助けに行った野分の状況は、筑摩で一人だけ
助かった方が証言しています。野分は、危険をかえり
みずに、海に漂流していた筑摩の乗員を救助していた
としています。

 助かったこの方は、軍人なら死ぬべきと考えたらしく、
野分とは逆方向に泳ぎ、皮肉にもアメリカ軍に救助
されたため、唯一の生存者となったということです。

(追記)
 退却における殿(しんがり)は、最も重要な役割です。
敵は、勢いづいて攻撃してくるので、本体を逃がすために
踏ん張るのはかなり危険な任務といえます。

 この時、救助のための要員を後方に配置しておけば、
殿で戦っている部隊は、けが人の収容ができるので、
安心して戦えます。

 この戦いでも同じことが言え、栗田長官も、野分らに
救助を命じていたなら、巡洋艦クラスを、2~3時間
海峡の入り口に待たせ、収容してきた駆逐艦から
移乗できるようにすべきだたっといえます。

 佐藤氏も、反転については同情できても、野分を
置き去りにしたことは、許せないようです。駆逐艦の
ような小型艦は、犠牲になっていたとしています。

 戦後、栄光の艦隊として、大型艦が放映される
たびに、駆逐艦乗りだった佐藤氏は、違和感を
感じるとしています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 行方不明の真相 [駆逐艦野分]

 栗田艦隊が、謎の反転をしたことで、戦場に取り
残された艦は、悲惨な結果になっています。

 栗田長官は、各艦宛に電報を発して、現在地点と
行動予定の報告、及び、被弾した艦は極力自力航行し、
見込みのない艦は処分し、乗員を収容の上、コロン湾に
帰投するように下命しています。

 この電報に対し、鳥海を護衛していた藤波(夕雲型
駆逐艦)と、鈴谷の乗員を収容していた沖波(夕雲型
駆逐艦)からは返答があったものの、野分、早霜(夕雲型
駆逐艦)、秋霜(夕雲型駆逐艦)は、報告がなく、行方不明と
なっています。

 記録を調べると、筑摩の救助は、雪風に命じられた
ようですが、途中で野分と交代するようにと言われて、
交代したということを、雪風航海長の田口氏は残して
います(以前、雪風の中で紹介しています)。

 このことを、佐藤氏が、田口氏に直接確認したところ、
この交代は、十七駆逐隊司令の意向ということでした。
これは、司令は、十七駆逐隊の3隻を残すために、
野分に命じたということになるのではないかとして
います。

 第四駆逐隊が、バラバラになり、野分のみ、十七
駆逐隊に付属するような形になったことが、悲劇
だったといえます。だとすれば、野分の乗員は
浮かばれないとしています。

(追記)
 上記の点については、別の説明もできるとしています。

 艦隊を主導していた主席参謀が、部隊編成に、
旧友である野分の守屋艦長を指名したため、
野分のみ、短艦での出撃になったということ
でした。

 筑摩の救助も、危険を伴うので、帰心の知れた
野分に頼んだということではないかとしています。
この通りならば、野分は、駆逐艦司令ではなく、
艦隊司令部の意向で動いたことになり、納得が
いくとしています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 栗田艦隊の謎の反転 [駆逐艦野分]

 筑摩が落伍した時、旗艦大和から、「水雷戦隊は、
続航せよ」という指令を受けています。野分は、
十七駆逐隊の後ろに続きました。

 航海の途中、十七駆逐隊(野分も含めます)は、
敵駆逐隊と遭遇し、砲雷撃戦により、敵駆逐艦を
撃沈しています。佐藤氏は、このことを、磯風にいた
一期先輩の水雷長から聞いていました。

 この戦闘については、アメリカ軍にも同様の報告が
あり、十七駆逐隊が、駆逐艦を撃沈したのは確実の
ようでした。この後、敵が退避したので、戦闘は中止し、
レイテ湾へ進撃を開始しました。

 その後、筑摩から、「我、出し得る速度9ノット。いずれに
向かうべきや」という電報が来ました。筑摩の通信について
いたのは、佐藤氏の同期生でしたが、同期生ならこのような
通信を打つはずはないので、この時筑摩は、主要な幹部は
戦死していたのではないかとしています。

 栗田艦隊は、目的地を返信し、筑摩からの返答を
待ちましたが、返答はありませんでした。そのため、
野分に筑摩の救助命令を出したということになります。

 野分派遣の約2時間後、後世で「栗田艦隊の謎の反転」と
いわれる艦隊の反転が起こりました。この行為は、救助に
向かった野分らを置き去りにして、避退したことに
なりました。

(追記)
 雪風の紹介をしていた、雪風航海長の
田口康生氏は、佐藤氏とは同期で、
親友同士だったようです。

 田口氏も、戦艦榛名から雪風に移ってきており、
時期も、佐藤氏とほぼ同じでした。

 後に、田口氏から、この時、野分は、雪風に着いて
きていたと聞かされています。雪風は、直前まで
野分と一緒に行動していたので、野分の最期に
ついて、田口氏の証言も参考にしています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 筑摩被雷 [駆逐艦野分]

 レイテ沖海戦について、野分に関係しそうなことを
概要のみ示します。

 栗田艦隊が、一度反転した時、ハルゼー提督は、
北方にいた小沢機動部隊を撃破すべく、艦隊を
引き連れて進撃しました。小沢機動部隊の囮に
釣られたとうことで、日本海軍の思惑通りという
ことになります。

 このため、機動部隊がいないレイテ湾東方海域で、
砲撃戦が展開されることになります。これが
サマール沖海戦で、この時期では、起こる
ことが奇跡に近い海戦でした。

 日本海軍は、進撃中に撃沈していた愛宕、摩耶、
武蔵の無念をはらすとばかりに、全軍突撃を敢行
しています。この攻撃で、敵空母「ガンビアベイ」を
撃沈しています。

 この海戦中、巡洋艦筑摩が、敵の艦載機により雷撃を
受け、1本が命中し、大火柱と火炎が立ち上がり、後甲板に
あった機銃が吹き飛ぶ姿を、巡洋艦利根から遠望できました。
これにより、筑摩は、速力が落ち、艦隊から落伍しました。

 この時、野分は、雪風、磯風、浦風が所属する第十七
駆逐隊と行動を共にしていました(十七駆逐隊のもう一隻
浜風は、この時落伍していました)。以前磯風を紹介した
著書の井上氏は、この時、野分は十七駆逐隊に所属と
なったとしています。

 これが悲劇につながったとも言えます。

(追記)
 上記のハルゼ―提督の行動は、後に批判の対象と
なっています。輸送部隊を率いていたリー司令官は、
ハルゼー提督にこのようなことが起こることを、意見具申
していましたが無視され、サマール沖海戦のような珍事が
発生することになりました。

 ハルゼー提督は、猪突猛進型で、思いたたら即行動
というタイプの人でした。そのため、ハルゼー提督の行動に
意表を突かれて、日本軍は苦戦したといえますが、この時は、
逆に仇となったといえます。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語
前の10件 | - 駆逐艦野分 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。