SSブログ

駆逐艦野分 レイテ沖海戦 [駆逐艦野分]

 レイテ沖海戦における第四駆逐隊の動きを紹介します。

10月18日、栗田艦隊は、燃料補給のため、野分と
満潮にシンガポールにいた油槽船の護衛をするように
命じられます。

 アメリカ軍の動きを受け、リンガ泊地からブルネーへ
移動した栗田艦隊は、一日遅れで入港した野分、満潮の
護衛した油槽船から燃料補給を受け、10月22日に出撃
しました。

 第四駆逐隊は、野分のみ、栗田艦隊(本体)に配属となり、
残りの満潮、山雲、朝雲の3隻は、西村艦隊に所属しました。
第四艦隊が分断されたことになります。

 西村艦隊は、栗田艦隊とは別ルートで、レイテ湾突入を
果たしますが、待ち構えていた敵駆逐艦の雷撃により、
撃沈されています。西村艦隊は、駆逐艦時雨を除き
全滅しています。これが、1944年10月25日の午前
零時過ぎのことです。

 この3隻に乗っていた乗員は、数名はアメリカ軍に救助
され、レイテ島の捕虜収容所に収容されましたが、残りは、
戦死しています。陸に泳ぎ着いた乗員も置いたと思われ
ますが、生死は不明としています。

 この時、待ち構えていた敵駆逐艦の1隻が、海上自衛隊
発足時に貸与され、護衛艦ありあけとして佐藤氏が一時期、
艦長を務めました。

(追記)
 以前、このような、最終決戦の時、豊田連合艦隊司令長官が、
参加していないのはどうなのかという疑問を呈していた方を
紹介しています。

 この時、豊田長官は、マニラの視察の後、台湾に
帰進していた時、ハルゼー提督の陽動作戦のための
空襲にあい、台湾から出られなくなるという失態を
演じています。

 一度マニラに来ていたのであれば、滞在して、艦隊指揮を
するのが長官の役割だろうといえます。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 台湾沖航空戦 [駆逐艦野分]

 ハルゼー提督の陽動作戦は、この後も続けられました。
9月12日に、セブ基地の空襲、15日には、マニラを空襲を
しています。これに呼応して、日本軍は、台湾沖航空戦と
呼ばれる航空戦を展開しています。

 この航空戦は、マリアナ沖海戦の「七面鳥撃ち」以上に
悲惨な結果になった大敗北ですが、とんでもない大戦果を
あげたと発表されたため、日本軍は、混乱を極めることに
なりました。

 この後、「神風特攻隊」、「T攻撃部隊」などが出撃して
います。この時期、佐藤氏の同期の航空隊が、訓練不足の
まま出撃し、42名が初陣で戦死するという、悲惨な状況に
なっています。

 佐藤氏は、横須賀に着任したものの、すぐには任務がなく
休暇をとって、故郷に帰省したり、野分の守屋艦長から
託された手紙を奥さまに届けるということをしていました。

 上記の42名の戦死者のことは戦後知り、自分が休暇中
だったこともあり、申し訳なさを感じたとしています。

 佐藤氏が、横須賀の水雷学校で、水雷長講習が始まった頃、
レイテ沖海戦が起こりました。この海戦で、第四駆逐隊の
野分、満潮、山雲、朝雲は、全て撃沈することになります。

 この時点では、日本軍はどんな策を取ろうと勝てることは
ないといえる状況であり、結果は推して知るべしでした。

(追記)
 佐藤氏は、野分で退艦後の行動で、抜け出した後に、
その地が空襲を受けるという状況になっています。
野分での活躍時も、佐藤氏が着任時は、野分は
大きな損害は受けていません。

 野分は、佐藤氏着任前は、大規模な修理が必要な損害を
受けており、佐藤氏退艦後、撃沈しています。こうしてみると、
武運の強さを持っていたのは、野分ではなく、佐藤氏自身
ではないかという気がします。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 ハルゼー提督の猛進 [駆逐艦野分]

 佐藤氏は、アメリカの資料から、野分の最期を
再構成しています。

 1944年9月11日、アメリカ軍は、占領したばかりの
ウルシー環礁に進出しました。ここで、前線の指揮官が、
スプルーアンス提督から、ハルゼー提督に交代しています。
これにより、艦隊は第三艦隊と変わっています。

 スプルーアンス提督とハルゼー提督という、性格が
全く違う提督を交代で指揮させることで、日本軍に
息もつかせぬ攻撃を仕掛けるという、ニミッツ提督の
戦略は、的中しているといえます。

 ハルゼー提督は、旗艦をスプルーアンス提督と同じ
戦艦ニュージャージーにしています。このことが、野分に
とって運命的な出来事を引き起こしました。

 9月12日~16日に、フィリピンやダバオ地区に空襲を
かけ、マッカーサー将軍の陸軍部隊が9月15日に、
ペリリュー、モロタイ両島に上陸しました。

 その後、マッカーサー将軍のフィリピン攻略を支援
するため、ハルゼ―提督は、日本軍の指揮を混乱
させるべく陽動作戦を開始しました。南鳥島の
艦砲射撃、奄美大島、南大東島、宮古島への
空襲などでした。

(追記)
 佐藤氏は、9月22日に、野分を退艦したあと、
シンガポールで、内地への航空便を待って
いました。

 この航空便は、佐藤氏のような士官しか利用
できませんでしたが、新米士官といえる佐藤氏は、
10日間も順番待ちをすることになりました。

 その間シンガポールの観光をしていますが、
現地の人は、日本の敗北を予想しており、
日本円では渋い顔をされました。

 結局、煙草と物々交換をしてお土産を入手
しています。

 上記の奄美大島、南大東島、宮古島への空襲が
あった日に、九六式陸上爆撃機に便乗して九州へ
向かっていましたが、佐藤氏が通過後に空襲され、
機内がざわめいたとしています。

 佐藤氏は、この翌日、無事に横須賀鎮守府に
着任しています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 永遠の別れ [駆逐艦野分]

 佐藤氏は、野分を退艦する時、自ら天職として選んだ
駆逐艦で、千載一遇の決戦に参加できない不運に、
無念の気持ちが先立っていました。そして、今まで
野分で戦陣を走ったことが、走馬灯のように
蘇っていました。

 前日の送別会でも、士官室と第三分室の両方で行われ、
それぞれから、湯のみ茶碗にそそがれた酒を痛飲して
いました。この時、仲間とは、交わす言葉はなく、暗黙の
別れでしたが、十分に意志は通じていました。

 佐藤氏が、野分に乗り込んでいた10ヶ月の間、ラバウル
への船団護衛を2回も行い、トラック島で、航空機と戦艦の
艦砲から逃れ、マリアナ沖海戦の時、飛鷹の護衛で野分は
爆撃を受けずに済んだ、今回の出撃で魚雷が艦底をすり抜けた
など、武運の強さを確信しました。

 シンガポールに向かう補給艦から、遠ざかる野分を、
後ろ髪を引かれる思いで見つめていました。そして、
これが、佐藤氏にとって野分を見た最後となりました。

 野分はレイテ沖海戦に参加し、行方不明となっており、
日本では戦後も、しばらくは行方不明のまま永い間放置
されていました。

 佐藤氏は、戦後海上自衛隊の幹部学校に入り、レイテ沖
海戦のことを、戦史研究のテーマに選んで調べていた時、
アメリカのモリソン戦史に野分の最期が記述されていることを
知ることになりました。

(追記)
 アメリカ軍は、当初フィリピンは攻略せずに、直接沖縄に
向かうつもりでした。その通りに作戦が実行されていたら、
もっと早く終戦を迎えていたといえます。

 フィリピンを攻略したのは、マッカーサーの意向が大きく
働いたためでした。フィリピンの攻略は、戦争目的上は
無意味な攻略であり、そのために戦死した日米両兵士と
フィリピン国民の犠牲は、小さくないといえます。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 佐藤氏野分退艦 [駆逐艦野分]

 猛訓練になると楽しみは、補給船による新鮮な食事
ということになりますが、この時期は、食料不足であり、
シンガポールから来ている補給船には、食料として
水牛の肉が積まれていましたが、おいしいものでは
なかったようです。

 唯一の清涼飲料水は、艦内で作れるラムネくらい
でした。このような訓練の中の、1944年9月15日に、
電信室は、佐藤氏にとって運命を変える電報を、
入電しました。

 ここにあったのは、人事異動発令でした。佐藤氏は、
航海長を解任され、横須賀鎮守府で勤務することに
なりました。後任の野分の航海長は、野分の乗組員が
シフトすることになったので、そのまま引き継ぎました。

 艦外からの着任の場合は、作戦終了まで延期される
ことになります。この時期に移動の人事が発令されたのは、
駆逐艦で15隻、巡洋艦2隻、戦艦2隻の計19隻で、
人数は41名でした。そのうち、佐藤氏のように退艦
したのは20名でした。

 佐藤氏は、作戦終了まで、退艦を延期してもらいたいと
艦長にお願いしていますが、艦長に拒否され、9月22日に、
補給艦で、退艦することになりました。佐藤氏は、総員
帽振れの見送りを受け、野分を去っていきました。

(追記)
 佐藤氏が、事例をうけた9月15日に、アメリカ軍は、2か月早く
レイテへの上陸を決定しています。

 日本軍は、アメリカ軍の陽動作戦に振り回されていたようで、
時期が到来したと判断したようでした。

 そして、9月21日に、マニラが空襲されることになりました。
このような時期に、佐藤氏は野分を退艦することになり、
上記のようなお願いをしていると言えます。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 リンガ泊地でも猛訓練 [駆逐艦野分]

 リンガ泊地には、すでに艦隊が集合していました。
リンガ泊地は、産油地帯のパレンバンに近く、
静かな海と、白い砂浜、ヤシの樹木などが繁る
場所でした。佐藤氏が双眼鏡で島を覗くと、猿が
戯れている姿が見えました。

 泊地は、戦艦が自由に航行して、射撃訓練が
できるほどの広さがありました。風光明媚といえる
場所ですが、野分を含め、乗員がすべきことは、訓練
でした。訓練と食事と就寝のみの日課が、毎日続きました。

 日の出一時間前に、総員起こしとなり、艦長の指揮で、
黎明下での各種訓練を実施しました。赤道直下という
こともあり、太陽が昇ると、酷暑となりました。
月月火水木金金そのものの猛訓練でした。

 今回の作戦は、敵の港に突入するものであり、
今までこのような作戦をしたことはありませんでした。
そのため、この部分については、特に重視して訓練を
行いました。

 鉄板で覆われた艦内は酷暑、露天甲板も酷暑という
状況で、甲板に張った天幕や砲塔、魚雷発射管の下が、
休息場でした。赤道直下での昼間と夜間の訓練が続く中で、
いかに休むかも課題といえます。

 訓練が終わると、作戦の打ち合わせが行われ、
今回の作戦の勉強をすることになります。

(追記)
 今回の作戦で、日本軍は、初めて輪形陣を採用した
航空訓練と、爆撃回避訓練をこなっています。航空攻撃に
対しては有効な陣形であり、採用が遅すぎるといえます。

 その他にも、大被害に対する応急処置の訓練、
レーダーを併用した夜戦における星弾射撃、
機銃と三式弾の使用による対空射撃などに
重点を置いています。

 どれも、ミッドウェー海戦後にはやるべきものであり、
遅きに失してるといえます。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 最後の配乗者 [駆逐艦野分]

 野分が、魚雷を受けた夜の哨戒長を命じられていたのは、
著者の佐藤氏でした。この時、猛烈な降雨の闇夜で、
旗艦の包囲を見失っていました。

 本来なら、潜水艦の攻撃を避けるべく、の之字運動を
するべきでしたが、所定の位置に着くことに腐心して
いました。

 佐藤氏が哨戒に当たっていたのは、零時から早朝4時までの
最もきついといわれる時間帯でした。逆探の感度はあった
ものの、慣れない作業と連日の疲れで、慌てているうちに、
攻撃を食らったということでした。

 艦底通過後に爆発し、海面が盛り上がり、闇夜が開けた
ように感じたとしています。旗艦の榛名から問い合わせが
あるほど、艦隊内も慌ただしくなっていました。今だから
笑い話になる失敗談だとしています。

 野分は、シンガポールで整備を受けるため停泊し、満潮、
山雲は先に出発しました。野分は、シンガポールで、
野分最後の配乗者となる機関兵を乗せています。

 この方は、シンガポール勤務だったので、母港が横須賀の
艦に乗れたことは喜びだったようです。佐藤氏は、戦後に
野分乗員の足跡を確認していて、この事実に気付きました。

 数日遅れで、野分は、単艦で航行し、大艦隊が集結して
いるリンガ泊地に到着しました。

(追記)
 この時、野分は、レーダーを装備していましたが、
使い物にならないので、担当者が相当苦労して
いたようです。

 しかも、レーダーの担当者は、全員、今回の出撃の
直前に乗り込んだ、教育終了直後の人達であり、
技量は不十分でした。

 しかも、シンガポールに着いた時、レーダーの未整備
部分を改造する工事をしなければならないような状態
でした。

 今まで紹介してきた艦の乗員の人達は、レーダーの
整備は欠かせないという思いを切実に持っていましたが、
上層部は、そこまで切実ではなかったといえます。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 台風の恵み [駆逐艦野分]

 1944年8月15日に、榛名を囲んで、3隻の
駆逐艦が佐世保を出撃し、リンガ泊地に向かい
ました。

 この時は、舷側の艦名や煙突の識別表示は
消してあり、見送りに来ていた人には、艦の
識別ができない状態でした。

 沖縄の中城湾で燃料補給後、ベトナムのカラムン湾に
向かいました。この地でも燃料補給をする予定でした。
この湾は、開戦時、野分が立ち寄った場所ですが、
現在の乗員はほとんどそのことを知りませんでした。

 カラムン湾で補給後、湾を出でたところで、荒天により、
監視が行き届かず、敵潜水艦の攻撃を受けました。

 敵潜水艦は、野分めがけて魚雷を撃ったようですが、
艦底を通り抜けていきました。荒天だったため、潜望鏡
による艦種確認ができず、野分が駆逐艦と分からな
かったようです。そのため、戦艦の調停深度で撃った
ため、外れたようです。

 野分は、台風の恵みで難を逃れたといえます。台風の
名前を冠する野分ならではのエピソードといえますが、
佐藤氏は、野分は、優雅な名前とは裏腹に、その生涯は、
台風のように荒々しかったとしています。

 実際、野分が撃沈したのは、台風の通り道に当たる
ところであり、時期も10月末という台風のシーズンと
なります。佐藤氏は、台風の神様が、自分の名前を
冠した駆逐艦を膝元に呼び寄せたのだろうとしています。

(追記)
 日本軍は、フィリピン方面で、台風を利用して、
敵の機動部隊に航空魚雷攻撃をかけるための
航空部隊を編成しました。

 この部隊は、「T攻撃部隊」と呼ばれました。
Tは、英吾のタイフーンからとったそうです。
佐藤氏は、野分攻撃隊では様にならない
だろうとしています。

 しかし、この攻撃隊も、搭乗員の技量不足を
計算に入れずに立てた無謀なものでしかなく、
敵に完膚なきまでに、叩き潰されました。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分 最後の出撃 [駆逐艦野分]

 野分は、8月3日、捷号作戦に参加するため、横須賀を
出港し、佐世保に向かいました。

 この頃になると、出港のたびにこれが最後と覚悟していま
したが、今回は、その心配が的中することになります。

 野分は、今回、油送船を護衛しながら、佐世保に向かって
いますが、途中の遠州灘で、猛烈な低気圧(台風)に遭遇
しました。

 佐藤氏は、航海長として、艦の位置を確認する必要が
ありましたが、長時間陸も見えない状態なので、一瞬
太陽が見えた時に測定することで、位置を割り出し
ました。

 護衛していた油送船は、大型だったこともあり、台風に
もまれることなく、野分をおいて、単独で航海を続けて
しまい、東シナ海に入ったところで、ようやく追い付いた
という状況でした。

 野分にとっては、何のための護衛なのかという思い
でした。


 佐世保につくと、今度は、戦艦榛名をリンガ泊地まで
護衛するように言い渡されました。佐世保で、第四
駆逐隊の野分、山雲、満潮がそろいました。もう
一隻の朝雲は、目的地のリンガ泊地で合流する
ことになりました。

 この頃は、駆逐艦も消耗しており、同じ隊の駆逐艦が
全てそろうことはまれでした。逆に言うと、修羅場をくぐり
抜けた猛者のみが、残っているとも言えます。

(追記)
 艦の位置を測るのは、無線方位測定により、大体の
位置を割り出し、太陽に対して六分儀で高度を測ります。
これが航海長の役割で、これを見て、信号長が、精密
時計で、時刻を測り記録します。

 これらを使って、太陽の角度と方位を確認します。
その後、電信員が、陸の無線電波から、三角測量を
行い、艦の位置を割り出します。

 航海長、通信長、電信長の三位一体の活躍が必要な
作業となります。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

駆逐艦野分アラカルト [駆逐艦野分]

 ここで、佐藤氏は、野分という駆逐艦について
解説していますので紹介します。

 野分は、「秋に吹く強く荒れる風」のことで、
明治の末に台風という気象用語ができるまでは、
台風のことを野分と言っていました。野分は、
かつては、秋の季語として使用されていました。

 駆逐艦の名前は、明治16年に定められており、
天象地象の雲、雨、霜、風、波、潮、月などから
採用されるとしています。

 明治時代に最初に建造された駆逐艦は、風の
名前が使われ、野分も選ばれています。現在紹介
している陽炎型駆逐艦の野分は、二代目となります。

 野分と一緒に第四駆逐隊に配属された嵐は暴風、
舞風はつむじ風、萩風は優しく萩に吹く風と、優雅な
名前が使われています。

 明治になって、秋の暴風に台風の命名がなされた時、
あえて台風ではなく、古い言い方である野分を使用した
のは、優雅さを感じたからだろうとしています。

 しかしながら、佐藤氏は、当初、野分という名前には
違和感を持ったようです。風という字がなく、文学的な
素養がなかったため、野分を優雅な風の名前とは、
受け取れなかったようです。

 実際、佐藤氏より後に配属になった、16歳くらいの
少年兵は、野分が何か分からず、駆逐艦ではなく、
特務艦と勘違いしていたという話があります。

(追記)
 駆逐艦の命名基準は、上記の通りですが、一部で天象
地象ではない名前も使われています。

 佐藤氏は、艦これにも登録されている子ノ日(ねのひ)は、
正月の最初の子(ね)の日ということで、到底、天象地象とは
言えないとしています。

 俳句の心得があった方が、歳時記からとったものだろうと
しています。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。