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二式大艇 最後の任務 [二式大艇]

 PBMの着水光景に見とれていた
佐々木氏を呼びに来た要員から、
「二式大艇を、アメリカまで空輸してくれと
命じられた」ということを言われました。

 佐々木氏は、この用件に驚いたと
しています。

 その後、佐々木氏は、有無を言わさず、
グラマンTBFアベンジャー雷撃機に
乗せられて、見知らぬ飛行場に連れて
行かれました。佐々木氏は、アベンジャー
雷撃機を観察することにしました。

 最初に驚いたのは、その大きさでした。
中間席には、無線機が置いてあり、
後席との間に、狭いながらも通路が
設けられていました。

 後席には、二人分のシートがあり、中間席の
動力銃架と、尾部の下方銃が、武装として
装備されていました。

 佐々木氏は、これだけ大きな機体に、
魚雷を積んで飛んでいたのだから、相当
飛ぶのは遅かっただろうとしています。

 佐々木氏は、ミッドウェー海戦において、
零戦が、アメリカ軍の雷撃機をほとんど
撃墜したという話を思い出しました。

 この機体なら当然だろうと思い、この
機体に乗って出撃した搭乗員はかわい
そうだと感じました。このような感想を
持てるのは、戦争に負けたとはいえ、
気概は持っていたからだといえます。


 民家に一泊した翌日、「話はついたので、
帰ってよい。」と言われ、佐々木氏は、
アベンジャー雷撃機で、横須賀に帰る
ことになりました。

 二式大艇を送り届ける任務は、既に紹介
しています通り、詫間で残務処理をしていた
日辻氏が、苦心惨憺して横浜まで空輸して
います。

 昭和47年、佐々木氏は、久留米市の
市役所に呼ばれ、勲章と勲記を授与
されました。勲記には、勲六等瑞宝章と、
昭和20年12月24日付で授与する旨の
記載がありました。

 佐々木氏にとって、この勲章は、小さくても
青春の一コマを顧みず働いてきたことの
証明だとして、この手記を終わりにして
います。


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二式大艇 終戦後の基地保管業務 [二式大艇]

 終戦後、基地保管要員として、佐々木氏は、
他の水上班要員に、帰郷するように命じました。
すると、本当に佐々木氏一人だけになって
しまいました。

 基地保管の指揮は、副長だった小林大佐が
当たっていました。この方は、海軍戦闘機の
大先輩でした。

 そして、上級幹部も、一人去り、二人去りして、
とうとう佐々木氏が、次席となってしまいました。
基地の全要員も50人ほどになりました。

 ある日、アメリカ海兵隊が上陸して来ました。
次いで、海軍の技術情報部のメンバーが
プロペラを外した在隊機を1機づつ入念に
リストアップしていきました。

 彼らは、よく「マル」といっていたのが聞こえて
きました。後で、これは、OKではなく、「モデル」と
言っていたのが、なまったものであることがわかり、
飛行機の型式を問うているようでした。

 この後、アメリカ海軍のマーチン製飛行艇の
PBMが盛んに木更津の方向に向かって着水
しているのが見えました。

 みな、夜間着水の要領で、着水ていました。
アメリカ軍は、木更津の海は、荒れていると
感じたのだろうとしています。

 ある日、PBMの着水に見とれていた佐々木の
ところに、要員の一人が呼びにきました。

(追記)
 小林大佐は、飛行学生時代、イギリスに
留学していました。その時、搭乗機が火災を
起こし、民家を避けて火をかぶりながら、必死に
郊外まで誘導して、落下傘降下しました。

 この行為は、イギリスでも紹介され、イギリス人に
大和魂があることを示した方でした。


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二式大艇 横空の再編 [二式大艇]

 佐々木氏が、出張している間に、横空の
再編があり、水上機の分隊が、全てひと
まとまりになり、佐々木氏の指揮下に着く
ことになりました。

 これは、規模を縮小して、佐々木氏が
全て面倒見ろということでした。しかも、
佐々木氏のクルーである、電探員や
偵察員は、全て取り上げられていました。

 川西製作所に行き、佐々木氏以外が
帰還することになり、その機が帰還中に
撃墜された時、基地に何の連絡もなかった
のは、撃墜された二式大艇に乗っていたのは
操縦士のみだったからでした。

 二式大艇は、クルーが全員そろって始めて
能力を発揮する機体でした。致し方なかった
とはいえ、前線で苦労してきた人達だけに
残念だったとしています。

 敗戦の直前、審査部は、青森の三沢に移動する
ことになりました。空襲を避けて実験飛行を
安全に行うためでした。この話を聞いた
佐々木氏は、水上班は、横須賀に残ります
ときっぱり宣言しています。

 佐々木氏がこう宣言したのは、実験飛行する
ための施設の関係上そうするしかなかったから
でした。しかし、これが、運命を変えることに
なりました。

 アメリカ軍は、機動部隊を率いて、三沢を
来襲し、大損害を被ることになりました。

 この後、終戦の詔勅が下りました。横空内で
善後策について、協議があり、基地の保管要員と
して100名ほど残るようにということになりました。

 しかし、残るように言われた要員達は、一日でも
早く帰郷したいと考えていることが伝わっていました。
これを察した佐々木氏は、「水上班は俺一人でいい。
皆は帰れ。」と命じました。


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二式大艇 戦地での離着水訓練 [二式大艇]

 戦線が縮小していき、B29が飛来して
くるようになってきた頃、佐々木氏は、
避難基地を調査しておくようにという
命令を受けました。

 佐々木氏は、汽車で石川県の七尾湾に
適地を見つけました。次いで、秋田県の
八郎潟と北海道の洞爺湖に飛んで着水し、
一泊泊まって係留ブイを設置して回りました。

 あるとき、霞ヶ浦に避難するために、佐々木氏は、
戦地で一緒に戦った大尉と一緒に、二機で飛んで
いきました。夕方近くに霞ヶ浦廠に補給のために
着水しました。

 このとき、佐々木氏は、夕闇が迫っている
ということで、慎重に、夜間着水の姿勢をとって
着水しました。一方、もう一機の大尉は、通常
着水要領で降りてきました。

 佐々木氏は、危ないと思ったものの、戦地で
鍛えているだけあって、無事に着水していました。

 アマンダンやダバオで、夜間着水訓練は
ずいぶんやっていました。しかし、この老練な
大尉達には、佐々木氏は一目おいており、
しごくようなことはしなかったとしています。

 一方で、訓練は遠慮なしに行ったとして
います。危ないと感じたものの、見事な
着水をしたのは、このときの訓練に
あるといえます。

(追記)
 この大尉は、後に、佐々木氏と一緒に川西
製作所に行き、用件が残った佐々木氏のみ
残り、他のクルーが帰還するとき、消息不明と
なりました。

 浜松付近で、敵戦闘機にあい、撃墜された
ようでした。連絡などは全くなかったので、
消息不明として処理されました。


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二式大艇 知多半島の水上基地 [二式大艇]

 台湾への飛行において、電探の精度を
上げるためにと、従来のアンテナの下方に、
枠型アンテナを取り付けて、飛ぶことに
なりました。

 実際に試してみると、電探同士が干渉
し合って、でたらめの方向に電波が飛んで
しまい、全く映らないということでした。
佐々木氏は、何事も、やってみないと
わからないものだと感じたとしています。

 この飛行における台湾からの帰り道で、
横須賀は豪雨になっているので、呉に行け
という連絡が来ました。このとき、伊豆大島
付近まで来ていましたが、反転して島影の
ない後方に降下して、雲の下に出ました。

 ここで、佐々木氏は、知多半島にある
水上基地へ行くことを決心しました。雲が
相当に低く、風も強かったとしています。
このような天候でも、無事着水することが、
できました。

 この基地は、新設の基地で、水偵用の
ブイしかありませんでした。二式大艇は、
自前でブイを持っているので、このブイを
降ろして、少しづつ後ずさりしながら、
水偵用のブイに、補強のために係留
させました。

 突然、基地にお邪魔したことは、積んで
いたバナナを渡すことで、一晩お世話になる
ことができました。基地司令官からは、歓迎
パーティまで開いてもらっています。

 このときも、無事に任務を達成しています。

(追記)
 数日後、佐々木氏が、係留し水偵用のブイに
「晴空(二式大艇を元に製造した輸送機)」を
係留したとき、嵐で、機体が岸に打ち上げられて
いたという話を聞きました。

 この話を聞き、佐々木氏は、係留は、サイパンで
7回も上空旋回して見つけたときのように、慎重に
しなければならないと、改めて思ったとしています。


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二式大艇 とんだバナナ騒動 [二式大艇]

 佐々木氏は、横空に勤務している間、台湾に
ちょいちょい出かけていました。

 この頃は、台湾も空襲が激しくなっていましたが、
合間をみて出かけていました。用件は、高雄の
航空廠への緊急調達品の空輸と、生活物資の
内地への空輸でした。

 ある日、東港を出発する際、地上整備員から、
「右外発の全速試運転をしている際に、艇隊が
ねじれ、尾部運搬車が地面に倒れ、そのはずみで、
艇体下部の縦ビレが地面に接触して曲がって
しまった。」という報告がきました。

 佐々木は、あまりゆっくりしているわけには
いかなかったので、離水してみて、だめなら
修理し、翌日出発することにしました。
離水してみると、ヒレが曲がっている影響で、
機首がふられました。

 2度目は、徐々にエンジン出力を上げることで、
直進できました。しかし、なぜか滑走距離が
伸びてしまいました。飛び立つことはできた
ので、横空に向かいました。

 横空上空に着くと、トラックが3台も迎えに
来ました。通常2台なのにと考え、あることに
思い至り、積み荷を格納庫に並べるように
命じました。

 すると、出発前は、バナナ40カゴという
報告を受けていたのに、実際は、83カゴ
積んでいました。

 1カゴ40kgはありましたので、バナナを
3.5tも運んでいたことになり、離水距離が
伸びたのはこのためだとわかりました。

(追記)
 飛行機は、重心位置が狂うと、離水後
失速して、墜落することがありました。
佐々木氏は、陸軍のMC20輸送機が同様の
事故を起こしていることをつけ加えて、全員に
注意を促したとしています。

 とんだバナナ騒動でした。


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二式大艇 陸軍との差 [二式大艇]

 鹿屋にいた時、佐々木氏は、ここにいた
従者から、ある話を聞きました。

 それは、ここには、陸軍の雷撃隊が講習に
受けに来ているということでした。ただ、陸軍の
受講生は皆少佐が来ており、教える海軍の
教官は、佐々木と同期の大尉だったという
ことでした。そのため具合が悪いということ
でした。

 佐々木氏は、この言葉を聞き、言われて
みると、士官室には、陸軍の将校がたくさん
いたし、訓練しているのは、陸軍が飛龍と
呼んでいる機体で、軽快な運動で、雷撃
訓練をしていました。

 この冬に、陸軍に勤務していた佐々木氏の
叔父が、戦病死したので、葬儀に参列して
きました。佐々木氏の叔父は、陸士43期で、
少佐。参列していた叔父の教え子も、51期
(佐々木氏の一つ上)で、陸軍少佐でした。

 陸軍は、教え子の昇進がかなりはやくなって
いるようでした。一方で、特攻で死んでいる海軍
仕官は、佐々木氏の一つ上でも、大尉でした。
人事部は、戦況が逼迫して、処理が間に合わな
かったとでも言うつもりだろうかとしています。

 佐々木氏は、海軍の人事だけはいただけない
としています。

(追記)
 戦後、自衛隊に入隊した佐々木氏は、上記と
同様の事例で、驚いたことがあります。

 佐々木氏の一つ下に入隊した陸軍の仕官が、
全員少佐だったことです。陸軍は、この期の
士官候補生は、3000人いたということで、
海軍の10倍も採用していました。

 それでも、一人の漏れもなく少佐になって
いたことを考えると、陸軍の方が人事は
しっかりしていたといえます。


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二式大艇 鹿屋へ戦況調査に [二式大艇]

 佐々木氏が、横空で教官をしている間に、
台湾沖空戦とレイテ沖海戦が起こりました。

 この時活躍した二式大艇は、日辻氏が率いて
いる詫間基地に所属している部隊が担って
いるので、佐々木氏は良く知らないとして
います。

 佐々木氏が活躍したのは、97大艇数機で、
作戦用の物資を台湾に空輸した時、指揮官
として任務に当たったことのみでした。

 さらに、この任務では、物資の輸送以外に、
鹿屋空に出張して戦況調査に当たることも
命じられました。鹿屋には、「零観(二人乗り
観測機)」が、指宿から迎えに来てくれました。

 鹿屋に来ると、同期の大尉が、「飛行機が
古くなり、魚雷を積んで離陸すると、飛行場の
端に立っている松の木に、ハラをこすって
しまう。

 しかし、航空参謀がいい人なので、あの人が
やれといわれれば、喜んで死ねる。」といって
いました。佐々木氏は、この一言に返す言葉が
ありませんでした。

 深々と頭を下げて、「健闘を祈る」と添えること
だけが、精一杯のできることでした。

(追記)
 上記の、佐々木氏同期の一言は、特攻攻撃の
事を指しています。空母戦力が激減した今日、
最後の切り札となっており、出撃につぐ出撃で、
特攻専用兵器である「桜花」を抱いての出撃も
ありました。

 上記の同期生は、上記の一言を発した
数日後に、帰らぬ人となっているとして
います。


紹介書籍:翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」 巨人飛行艇隊員たちの知られざる戦い
著者:佐々木 孝輔 他


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二式大艇 二式大艇の補備試験 [二式大艇]

 佐々木氏は、教官業務の合間に、川西
製作所に行き、二式大艇の補備試験として、
上昇力試験と、高高度度試験が行いました。

 上昇力試験の際は、気内の通路が
エスカレータのように急角度になって
いました。佐々木は、ふと左の窓を見ると、
零戦にフロートをつけた二式水戦が、
同じように急上昇していました。

 佐々木氏は、いつ追い抜かされるかと
構えていましたが、いつまでも雁行状態で、
抜かされることはありませんでした。

 佐々木氏の操縦する二式大艇は、
零戦と同じ速さで上昇することが
できるということでした。

 この事実を知り、セイロンなどで偵察した時、
同じように急上昇しており、敵の夜戦に食われな
かったのは、この二式大艇の性能によるもので
あることが、実感できました。

 次に、高高度試験を行いました。エンジンに
吸入する空気のスピードを上げ、高高度に
おける出力を増加させるべく、二速に
切り換え、どこまで上昇できるかの
テストでした。

 この時、5500mまで上がったと記憶している
としています。

 アメリカ軍は、B17以降、排気タービンを
使用して、航空性能を良くしていました。
日本軍は、上空を飛ぶアメリカ軍のところまで
届かないということが起こりました。

(追記)
 高高度試験について、佐々木氏は、「飛行艇は、
もともと、海面すれすれを、低空で飛ぶので、高高度
飛行には関心はなかった。」としています。

 この試験は、飛行艇の性能を調べるため
ではなく、酸素マスクなしで5000mを
飛ぶことができるかという、人体実験の
ためだったとしています。


紹介書籍:翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」 巨人飛行艇隊員たちの知られざる戦い
著者:佐々木 孝輔 他

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二式大艇 横空の教官 [二式大艇]

 佐々木氏が、横空の教官として、機関学校出身の
偵察員の実技訓練のために、台湾に行きました。

 この人達は、佐々木氏の1級上に当たる
人達でした。佐々木氏は、機関員出身の
人達まで、偵察員にまわさなければ
ならないほど、非常事態に陥っている
ことを感じたとしています。

 横空の分隊長として、97大艇で対潜水艦の
電探爆撃の実験と、実戦部隊への普及講習を
行っていました。実験は、日本海側の舞鶴
航空隊で行われ、命中率は良好でした。

 電探は、佐々木氏が戦地で使っていたものを
使用しました。超低空で飛行して、敵潜水艦を
探すと、スコープに縦縞模様の測距線が現れ
ました。この線は、潜水艦上空通過直前に
消滅します。

 この間の時間を、秒時計で測り、基点から
何秒後に投下するという主旨のものでした。
この当時は、敵潜水艦による輸送船の沈没が
相次ぎ、飛行機も艦船もこの対策に躍起に
なっていました。

 佐々木氏は、1944年秋~1945年春に
かけて、日辻氏が指揮している詫間や、
対潜哨戒専門の飛行機「東海」が翼を
連ねている佐伯空にも行って、訓練を
しています。

(追記)
 詫間に行った際、同期の大尉から、佐々木氏が、
戦地で活躍していた時、二式大艇のサブパイロットを
していた人が、今はナンバーワンのパイロットだ
と聞かされました。

 佐々木氏は、驚きもしたものの、嬉しさと
安堵感を感じたとしています。このサブパイロット
には、一度も文句を行ったことはなく、以心伝心で、
一体となって二式大艇を動かしてきた人だったと
評しています。


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