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響、復員輸送と引渡し [響]

 復員輸送業務は、1945年10月から、1946年10月まで、
14回続けられています。

 1回目のヤップ島からの輸送では、期限が決められているため、
台風を避けずに航行しながら向かっています。アメリカ軍の上陸用
舟艇が、復員者を連れてきました。

 運ばれた復員者は、ほぼ全員が栄養失調で、担架で運ばれて
くる状態でした。帰りの舟艇に、残留者向けの食料を積み込んで、
3時間で出港という慌ただしいものでした。

 浦賀に帰還すると、復員者の家族や報道陣が殺到し、桟橋に
歓迎の幕が張られ、無事に帰れた喜びに抱きあっていました。
このような輸送を何度か行いました。宮川機関員は、父のことが
気になり、1946年1月に、響から退艦しています。

 宮川機関員は、退艦するとき、4年数ヶ月の生死を共にしたことに、
感謝と静かな余生を送らせてあげたいと願いをこめて別れています。
手記はここで終わっています。

 響は、復員輸送後は、特別保護艦に指定され、1947年7月1日に、
佐世保を出港し、ナホトカでソ連に引き渡されています。
Верный(ヴィェールヌィイ)と名付けられ、後に練習艦として
Декабрист(ヂカブリースト)名付けられて、現在は、海底に
眠っています。

 「駆逐艦 神風 電探戦記」の響は、終わりにいたします。

 次回は、「特型駆逐艦「雷」海戦記」を元に、響と同じ駆逐隊に
属していた雷(いかづち)の紹介をしていきます。

(追記)
 響は、現在海底に眠っている様子が、youtubbeにアップされています。
興味にある方は、確認してみてください。

響、終戦後の混乱 [響]

 終戦の布告から10日後、復員後故郷に帰ることができると
いう通達が出されました。乗組員の3分の1が復員できると
なったものの、半信半疑の状態で、上官は説得するのに
苦労したという話が記載さtれています。

 一方で、不穏な動きもありました。命令を無視して敵地に
突入すべきという相談がなされていました。沖縄特攻で
脱落し、いつか仇を討つと考えていた人も多数いました。
同調者も増えていき、艦長に直談判しています。

 艦長は、涙を流しながら、口をきりました。
「気持ちはわかる。しかし、戦いは終わったのだ。故郷に帰って、
日本を築いてこそ、散っていった戦友に対する償ではないか」

 誰も艦長の言葉に返す言葉がありませんでした。
艦長は、「今日まで響とともに頑張ってくれた。ありがとう。さよなら
とは言いたくない。何年か後に再開したいから」と締めくくりました。

 響は、舞鶴に移動と決まり、翌日に物資を積んで出航し、8月31日に、
舞鶴に入港しています。宮川機関員は、9月1日付けで昇進し、新たな
階級に見合った一時金を手にしています。アメリカ軍からの指示で
このような措置がとられています。

 宮川機関員は、復員し故郷の横浜に帰っています。一面焼け野原
でしたが、父と再会を果たし、喜んでいます。ところが、横浜について
から数日後、「復員を取り消す。復帰せよ」の命令があり、舞鶴に
舞い戻っています。

 ここで、響は外地の残留者を引き上げる輸送任務に就くことに
なりました。宮川機関員のような機関員は、ほとんどが乗り
込んでいます。

(追記)
 艦長の再会したいという言葉は、10年後の1955年8月15日に
実行され、靖国神社で再会しています。この動きは、「ひびき会」へ
と発展し、乗組員の交流が続いていきます。

響、8月15日を迎える [響]

 8月になっても、機雷投下は収まらず、掃海船の被害も
増加していました。響の近くで、機雷が爆発することが
あり、宮川機関員の不安も増加していました。

 8月9日に、原爆が長崎に投下された日に、ソ連が参戦し、
戦闘状態になりました。この情報を受け取り、響内では
日本が無条件降伏するのは時間の問題と噂していま
した。宮川機関員は、無条件降伏=日本消滅と
真面目に考えていたと記録しています。

 8月15日の朝、正午に天皇陛下からお言葉が放送される
ので、全員岸壁に集合するようにという指示が艦長からあり
ました。響内は、不気味な緊張がただより、作業にも身が
入らない状態でした。

 その時、突然対空戦闘配置につけの号令がありました。
宮川期間員が、甲板に出たときは、すでに、機銃を撃ち
まくっていました。海軍最後の発砲が、響が潮から
借りた砲での射撃だと言われており、この時の
砲撃のことを指していると思われます。

 この時、敵機は爆弾などではなくビラをまいて去って
行きました。ビラには、「日本の皆さん。日本政府は、
米国に対し和平を申し入れました。もう戦争は終わり
ました。・・・」と書かれていました。

 11時15分、全員岸壁に整列しました。甲板に設置された
ラジオから、天皇陛下の終戦の布告と無条件降伏が伝え
られ、宮川機関員は、放心状態になり、その場に座り
込んだと記録しています。その後、1週間は何もする
ことがなく、呆然と過ぎていました。

(追記)
 ソ連(ロシア)は、モンゴル帝国の後継国家として成立して
以来、常に世界征服を考えている国といえます。最近の
ウクライナに対する侵略は、そのことを表していると
言えます。

 終戦間際、条約違反の火事場泥棒的な参戦は、許しては
ならない行為であり、欧米やウクライナと協力してロシアを
封じ込めるということも考える時期に来ているのではない
かと思われます。

響、掃海任務につく [響]

 響は、1945年5月中旬に修理を終えましたが、この頃は
戦争は最終の様相を呈していました。響は、第七駆逐隊の
司令乗艦になりました。同じ隊には、駆逐艦潮(うしお)が
いました。

 響は舞鶴に移動し、必要最小限の物品だけ残して、陸上に
疎開していました。6月上旬に、突然警戒警報が発動され、
対空戦闘に突入しました。船は動かさないので、宮川
機関員は仕事はありませんでしたが、待機していました。

 15分くらいの戦闘で、1機撃墜の戦果を挙げています。この
機体に乗っていたパイロットは捕虜となり、尾翼は白山駅前に
展示されました。翌日、市民から感謝として地酒が届けられ
ました。

 この時飛んできた機体はB29で、機雷の敷設のためでした。
響は、この後掃海任務に就くことになります。アメリカ軍が投下
した機雷は、音響式、磁気式、時限式など数種類有りました。
機雷班が機雷を分解し信管を取り外す作業を行っています。

 宮川機関員は、敵の技術を褒めるのもおかしいと思いながら、
その研磨されたボルトやナット、精巧なベアリングを見て技術的
にはアメリカが優っていることを認めざるおえませんでした。

 機雷は、軍艦だけでなく、漁船などにも被害を与えており、
響自信も何度も機雷に接触して破損ということを繰り返して
います。

 掃海作業は、先端に磁石のついたワイヤーロープを持って、4隻
くらいで走り回るという方法で行っていました。舵を誤り、直接接触
したり、時限式や音響式の機雷に吹き飛ばされることが、毎日の
ように起きていました。

 この光景を見ているので、誰も掃海任務は嫌がっており、いつ
自分の番になるかと恐怖を感じながら過ごしていました。同時に、
毎日のように機雷を投下するB29に対する恨みも増えていく
という状態でした。

(追記)
 第七駆逐隊は、艦これでもお馴染みの、朧(おぼろ)、漣(さざなみ)、
潮、曙の4隻で組んでいた艦隊で、後に霞(かすみ)も加わっていますが、
この時は、潮のみが生き残っていました。

 潮も開戦当初から参戦し、珊瑚海海戦やスラバヤ沖海戦、多号作戦などに
従事し、終戦まで生き残っています。響に匹敵する武勲艦といえます。

響、3度目の損傷 [響]

 3月29日の9時に、突如爆発音がして艦が激しく振動
し、宮川機関員は、床に叩きつけられました。左舷の
機関操縦室の窓ガラスがすべて破損し、管から
蒸気が吹き出している状態でした。

 「各缶の弁を閉めて待機」の命令が下されました。蒸気は
止まったものの、原因の調査に手間取っていました。幸い
機関員に損害がなかったので、急ぎ修理を開始しました。

 一緒にいた僚艦は、響を後にして目的地に向かっており、
波にまかせての漂流状態の響は、敵に発見されたら終わり
という状態でした。

 艦内で全て修理するのは不可能と分かり、司令部からは、
呉に回航し修理せよの命令を受け、自力で戻ることが
必要になりました。

 呉に戻るまで、護衛として駆逐艦朝霜が同行することに
なりました。なんとか9ノットまでは出せるようになり、
戻れる目処が立ちました。

 この時に、乗組員の頭に浮かんだ感想は、生き延びた
ことに対する喜びでした。100%戦死の作戦の時は、
自棄的になり、特攻を名誉と喜ぶが、逆転すると
生への執着心が強くなるのだろうと回想しています。

 呉に着いた後は、反転する朝霜に、護衛に対する感謝と
武運を祈って分かれています。響の破損原因は、浮遊
機雷に接触したことでした。

(沖縄特攻作戦の顛末は、“雪風、天一号作戦(大和の沖縄特攻
作戦)に参加“をご参照ください。

(追記)
 駆逐艦朝霜は、艦これ未登録の夕雲型16番艦です。1943年11月に
竣工し、輸送船の護衛や、レイテ沖海戦、ミロンド島沖夜戦などで活躍して
います。

 この作戦では、4月7日の午前6時57分に機械故障で落後
し、修理しながら必死で付いてきましたが、差が開き空襲を
単艦で受け撃沈されています。

響、不気味な出撃 [響]

 1945年3月下旬に、全員居住区へ集合の命令がかかり、
集まっています。そこで、宮川機関員は奇妙な命令を受けて
います。

 「封筒を2枚渡すから、各自の爪と頭髪を、少しずつでいい
から入れて封をし、氏名を書き込んで分隊士まで渡すように」と
いうものです。

 これが、遺髪を入れるものだということは分かったので、これから
重要な作戦かも知れないと想像は出来ました。しかし、作戦に
ついては、一切話がなかったので、不満をぶちまけていました。

 何も聞かされないままに出港し、備後水道を21ノットで航行しま
した。この時点でも、作戦のことは聞かされておらず宮川機関員も、
気持ちが高ぶり寝ることもできないと記録しています。

 夜明けが近い時刻に、全員甲板に集合の命令があり、いよいよ
作戦発表かと期待しました。甲板には艦長がおり、そこで、「沖縄
に向かい、敵機動部隊への水上特攻艦隊を編成し、体当たり戦法
を取る」という訓示がありました。

 この訓示に対し、賛否両論ありさわぎになりました。一方で、宮川
機関員をはじめ乗組員の本心は、作戦の成功を祈っており恐怖感も
なかったようです。その後は、全員配置の警戒態勢がとられ、緊張が
極限まで高まっています。

 響は、僚艦と合流しながら、艦隊の先頭を航海していきました。

(追記)
 遺髪を取るという行為ですが、同じ作戦に参加した雪風
ではやっていないので、艦長の権限でやる・やらないは
決めることはできたようです。

 艦長の考え方によるということですが、大半の艦はやって
いるようですので、雪風が例外だと言えます。

響、馬公での修理 [響]

 響の爆発は宮川機関員は、雷撃によるものだと後日
分かったと記述しています。しかし、最近の研究では、
日本軍が敷設した機雷に接触したのではないかと
言われています。

 出港直後の被害ということを考えると、雷撃よりは
機雷に接触したと考える方が自然です。宮川
機関員達には真実が伏せられていたと
思われます。

 損傷を受けた響は、9月20日に、台湾の馬公まで
タグボート4隻に曳航されて、ドックへ入渠しました。
馬公の工作部は、きわめて小規模な上、駆逐艦が
入居できるドックしかなく、しかもすでに海防艦が
入渠していました。

 宮川機関員は、海防艦に接触させないように入渠
するのに手間取ったと記しています。しかも、宮川
機関員の手記には記載がありませんが、響の
乗組員のほぼ全員が赤痢に罹患し、死者まで
出ています。

 さらに、10月12日と13日に、台湾沖海戦のあおりを
受け、修理中に空襲を受けています。響は、この状況で
反撃し、敵機を撃墜させる戦果を挙げています。

 この後、母港の呉に帰還し、1945年3月まで岸壁に
横付けされ、整備を受けています。

(追記)
 台湾沖海戦は、アメリカの機動部隊が、沖縄、奄美諸島、
台湾を空襲したことに対して、航空隊が迎え撃ったもので、
空母11隻を撃沈するという発表をした海戦です。

 実際は、巡洋艦2隻の撃沈のとどまっており、大誤報
でした。

響、2度目の損傷 [響]

 響は、呉でつかの間の休暇を楽しんだ後は、下関に投錨し
待機となりました。ただし、同じ港に輸送船団が停泊しており、
輸送護衛任務が来ることは想定していました。そして、台湾の
高雄に行くように命じられました。

 今回は、陸軍将兵の輸送護衛で、1週間の船旅でしたが、
襲撃されることなく無事に到着しています。宮川機関員は、
高雄で上陸できるかと楽しみにしていたようですが、すぐに
マニラへの出港となりました。

 1944年9月6日、航行体制に入ったとたん大音響とともに、
輸送船の一隻が沈没しました。出港直後の出来事でした。
輸送船の船員は、出港直後ということもあり、ほとんどが
甲板上にいたので、われ先にと海に飛び込んでいました。

 響は、原因究明も後回しにして、救助活動にあたっています。
救助活動が一段落した直後、大音響とともに宮川機関員は
宙を飛び、床に叩きつけられました。なにが?と思い、甲板に
駆け上がると、「士官室が爆発した。戦闘配置につけ」という
命令が下っています。

 宮川機関員は、救助要因として士官室に向かい、床に空いた
穴から浸水している様子と、救助した輸送船の船員が負傷して
いるのを発見し、こんなことになるとはという思いを抱いています。

 響は、この被害により、この後に行われたレイテ沖海戦には
参加できなくなりました。

(追記)
 響が、レイテ沖海戦に出撃していたら、どの部隊に配属されたか
を想像すると、同じ特型の駆逐艦潮(うしお)や曙が参加していた
西村艦隊に属した可能性が高いと思われます。

 西村艦隊は、後続の第二遊撃隊を除き、駆逐艦時雨以外
全て撃沈されており、参加できなかったのは幸運といえます。

響、対空戦闘を行う [響]

 宮川機関員が機銃に着くと、戦死者を機銃台から降ろし、
機銃台について砲撃しています。宮川機関員は、実戦で
射撃したのは始めてですが、訓練は受けていました。
命中したという記述はないので、当たらなかったと
思われます。

 爆撃機や雷撃機は、爆弾や魚雷を落とすタイミングが
重要なので、当たらなくても侵入コースを外すだけで
効果があります。宮川機関員は交代要因が来る
まで続けています。

 交代が来ると、機銃から離れ、機関室に戻っています。
この時、機関室入口で宮川機関員が同僚と雑談していた
一瞬の間に敵機の攻撃を受け、雑談していた相手が、
倒れるということが起こりました。

 攻撃を受けた同僚を助けるべく、艦内に運んで傷口を塞ぎ
ましたが間に合わず、最後に母を呼んでなくなっています。
攻撃を受けてから、5,6分の出来事でした。

 この日の戦闘で、響は4名の戦死者と6名の重傷者を出して
います。響は、大した損傷もなく敵機1機撃墜の戦果を挙げて
切り抜けています。翌日、亡くなった4人の水葬を行っています。

(この日の戦闘での雪風の活躍は、“雪風、奇策による撃墜”を
ご参照ください)

 響は、「あ号作戦」に参加後、輸送護衛任務につき、7月27日に、
母校の呉に戻っています。

(追記)
 マリアナ沖海戦は、日本軍の航空機の方が航続距離が長いという
ことを利用して、アメリカ軍の飛行機の間合いに来ないうちに、一方的
に攻撃するというアウトレンジ戦法とよばれる攻撃を行っています。

 この結果、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれるほど一方的に撃墜
されており、大失敗と言える作戦でした。しかも、航空機ではなく、
潜水艦の攻撃で、正規空母2隻(翔鶴、大鳳)が撃沈されて
います。

響、「あ号作戦」に参加 [響]

 1944年5月23日に、響はダバオに向け出撃しています。
1944年5月20日に、「あ号作戦(後にマリアナ沖海戦と
言われました)」が発動されたため、響はメインの機動
部隊を待つための出撃です。

 響は、補給部隊に配属され燃料補給のタンカーの周りを
番犬のように走り回っています。同じ補給部隊には、奇跡
の駆逐艦の雪風も加わっており、終戦まで生き残った
駆逐艦同士の唯一の共闘になっています。

 響は、6月20日の空襲時に、対空戦闘を行っています。
 宮川機関員は、空襲警報が発動されたと同時に機関室
に飛び込んでいますが、直後に、響の主砲と機銃が一斉
に火を噴いた轟音を聞いています。気づいたときにはすぐ
そこだったことになります。

 宮川機関員は、戦闘中各室の機関状況を確認すべく
連絡を取り合っていましたが、艦橋から、“3番機銃に
機関科より応援を頼む“の命令が来たので、向かって
います。

 駆逐艦は、艦の構造上、甲板下は区画ごとに区切られて
いるため通路はなく、他の区画に行くには甲板上を走り
抜ける必要があります。敵機の攻撃を見極めて、急ぎ
移動ということになります。

 この後、宮川機関員は、対空戦闘に従事することになります。

(追記)
 友鶴事件の翌年の1935年に、「第四艦隊事件」という
友鶴事件と同じ理由による事故が発生しています。海軍
演習中に、下北半島で臨時編成の第四艦隊が台風に
遭遇し、半数近くの船が損傷を受けました。

 艦これでもお馴染みの初雪は、艦橋前から艦首を
切断し喪失という被害を受けています。重武装の上に
軽量化という無理がたたり、強度不足が露呈しました。

 この後、原因究明が進められ、多くの船が船体強度
補強の改造を受けています。日本は、大戦前にこの
問題を発見したことで、大戦中同様の事故は発生
していませんが、アメリカ軍は大戦中同様の事故を
起こしています。

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