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響、終戦後の混乱 [響]

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 終戦の布告から10日後、復員後故郷に帰ることができると
いう通達が出されました。乗組員の3分の1が復員できると
なったものの、半信半疑の状態で、上官は説得するのに
苦労したという話が記載さtれています。

 一方で、不穏な動きもありました。命令を無視して敵地に
突入すべきという相談がなされていました。沖縄特攻で
脱落し、いつか仇を討つと考えていた人も多数いました。
同調者も増えていき、艦長に直談判しています。

 艦長は、涙を流しながら、口をきりました。
「気持ちはわかる。しかし、戦いは終わったのだ。故郷に帰って、
日本を築いてこそ、散っていった戦友に対する償ではないか」

 誰も艦長の言葉に返す言葉がありませんでした。
艦長は、「今日まで響とともに頑張ってくれた。ありがとう。さよなら
とは言いたくない。何年か後に再開したいから」と締めくくりました。

 響は、舞鶴に移動と決まり、翌日に物資を積んで出航し、8月31日に、
舞鶴に入港しています。宮川機関員は、9月1日付けで昇進し、新たな
階級に見合った一時金を手にしています。アメリカ軍からの指示で
このような措置がとられています。

 宮川機関員は、復員し故郷の横浜に帰っています。一面焼け野原
でしたが、父と再会を果たし、喜んでいます。ところが、横浜について
から数日後、「復員を取り消す。復帰せよ」の命令があり、舞鶴に
舞い戻っています。

 ここで、響は外地の残留者を引き上げる輸送任務に就くことに
なりました。宮川機関員のような機関員は、ほとんどが乗り
込んでいます。

(追記)
 艦長の再会したいという言葉は、10年後の1955年8月15日に
実行され、靖国神社で再会しています。この動きは、「ひびき会」へ
と発展し、乗組員の交流が続いていきます。


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