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源田実参謀 あとがき [源田実航空作戦参謀]

 最後にあとがきを紹介します。源田参謀は、
海軍の太平洋戦争を語る上で、外すことが
できない人物だとしています。

 第一航空甲参謀として真珠湾攻撃から
始まり、終戦までの間に国運を賭す幾多の
大作戦に際し、特異な奇才を揮いました。

 山本長官同様、航空主兵・戦艦無用論の
用兵と奇襲作戦の断行で、勝つ望みがあると
判断していました。

 「始皇帝が阿房宮を作り、日本海軍は
大和を作り、共に笑いを後世に残した。」
と大艦巨砲主義を痛罵しました。

 砲術学校で、「戦艦などスクラップにせよ。」と
学生たちに言い、教頭の黛大佐(以前紹介した
巡洋艦利根の艦長)から、「個人の定説を
断定的に教えるのは良くないから取り消せ。」と
言われても、断ったという逸話があります。

 これは、山本長官と同じで、自分が思い
込むと、他人の意見は愚かと決めつけ、
何一つ聞き入れない独尊排他の
性格が出ています。

 戦後10年以上すぎてから、「戦争の
結果から見れば、明らかに航空手兵が
正しく、戦艦は無用の長物であった。

 他国も誤っていたのだから、日本海軍が
誤っても仕方ないとは言えない。他人が
誤っても、自分は正しくなければならない。

 演習で、明らかに航空優勢を物語って
いながら、大きな戦艦が航空機に負ける
ことを感情的に取りにくかっただけでなく、
都合の悪い方向に考えることを避けた
傾向がある。」としています。

 ここまでの事跡を見れば、「都合の悪い
方向に考えることを避けた傾向がある。」
というのは、源田参謀こそ言えるのでは
ないかという印象を受けます。

 お世辞にも名参謀とは言えず、この人物が
海戦を通じて航空参謀だったことは、
日本海軍にとって不幸だったと
言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 終戦 [源田実航空作戦参謀]

 1945年8月15日、日本は降伏し、
終戦となりました。源田参謀は、長崎県の
大村基地で、終戦を迎えています。

 「降伏などとは、夢にも考えていなかった。
日本民族ある限り、10年でも、20年でも、
たとえそれが50年となっても、100年と
なっても、日本の本土に根を下して、徹底的な
抵抗を続けるのみという考えであった。

 終戦の大詔が下った時の驚きは、全く
例えようもなかった。信ずることさえ
できなかったほどである。」と述べて
います。しかし、これは本音ではなく、
いつもながらのスタンドプレーでした。

 源田参謀は、戦後、航空幕僚長、
タカ派の参議委員議員として活躍し、
1989年8月15日に生涯を閉じて
います。

 (源田参謀は、8月16日が、誕生日で、
命日の翌日に85歳の誕生日になるところ
でした)。 

 特異な帝国海軍がここに消えたと言えます。

(追記)
 スタンドプレーであったとしても、
上記の言葉には、見過ごせない
大きな問題があります。

 戦争を始める時に、最も最初に考えな
ければならないことは、「いかにして
自分たちに有利になるように戦争を
終わらせるか」です。

 戦争は、国家の一大事であり、やる
からには、目標を達成しないという
結果にならないようにすべきであり、
国土が灰燼になるというのは、絶対
避けなければならないと言えます。

 「日本民族ある限り、10年でも、
20年でも、たとえそれが50年と
なっても、100年となっても、
日本の本土に根を下して、徹底的な
抵抗を続けるのみ。」というのは、
日本国そのものが無くなることであり、
軍人がこのような思考をすること
自体問題と言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 343空での活躍 [源田実航空作戦参謀]

 源田参謀は、1945年1月20日、
フィリピン方面にあった343空を、
愛媛県松山基地で編成しなおし、
その司令官に自分自身が、
大佐として就任しました。

 所属の航空隊は、最新鋭の紫電改に
よる戦闘機隊でした。源田参謀は、
「各飛行機の隊長は、それまでの
戦闘経験において、闘魂、識量抜群で
あると認められる人々である。

 また、下にいる搭乗員は、相当
未経験者もいたが、各編隊の核心と
なるような者は、これまた歴戦の
小強者が相当数入っていた。」
と評する精鋭部隊でした。

 343空は、数ある日本軍戦闘機隊の
中でも抜群に強く、その戦果は、赫々
たるものであったと伝えられています。
源田参謀は、5ヶ月の期間に170機
撃墜し、74機の損害を出したとして
います。

 しかし、これまでの通り、源田参謀が
指揮してまともな戦果になった試しはなく、
戦果は証拠もない上に、アメリカの資料にも
そのような大損害は記録されていませんでした。

 航空参謀が、松山基地におもむき、
搭乗員に質問したが、明らかな証拠は
説明できず、「撃墜数は信用できない」と
いう結論になっています。

(追記)
 343空は、終戦7日前の8月8日まで、
激闘を続けています。3月19日の呉方面の
空襲のときも敵艦載機大群と戦っています。

 源田参謀が集めた飛行隊長は、3人
いましたが、全員戦死しています。

 源田参謀は、他部隊から、「いい搭乗員と
いい飛行機を集めるのは自分勝手だ」という
批判を受けています。

 それに見合った戦果をあげたとは
認められず、この批判は正面から
受け止めなければならないもの
だったといえます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 第343海軍航空司令に就任 [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖海戦、及び、レイテ沖海戦に大敗し、
軍令部のおける源田参謀の役割は、
なくなりました。

 「1944年末期、戦争に負けているのは、
海軍が主役の海上戦に負けているからだ。
海上戦に負けているのは、航空戦で圧倒
されているからであり、それは、戦闘機が
制空権を獲得できないからだ。

 要するに戦闘機が負けるから戦争に
負けるのだ。自分は戦闘機隊の出身で、
航空作戦の主務参謀となっている。

 これからは、精鋭無比な戦闘機隊を作り、
見つけた敵を片っ端から、撃ち落とすような
部隊を持ち、敵の進撃を止める。」

 このような考えから、源田参謀は、
第343海軍航空隊司令に就任
することにしました。

 戦闘機無用論を唱えて、攻撃体優先で
戦いを進めた本人が、戦闘機主兵論に
主旨変えしたようでした。

 以前、大西参謀長から聞いた、
「昨日、右と言ったことを、今日左と
いうのも、国のためという一事を
踏み外さなければよい。」を
実践していると言えます。

 しかし、遅すぎますし、国家より、
自分の保身のための主旨変えという
印象を受けます。戦闘機の司令官に
なったところで、どれほどの貢献も
できないと言えます。


 むしろ、特攻隊の責任者として、
指揮官となり、自ら先頭に立って、
敵機動部隊に体当りした方が、
偉大だと言えます。

 それができていない時点で、
ミッドウェーで自らの責任を全うした
山口少将(個人的には、山口少将の
ミッドウェー海戦での敗戦責任は、
飛龍と運命をともにしなければ
ならないほど大きいとは思って
いません)とは、比較に
ならないと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 特攻に関する責任者 [源田実航空作戦参謀]

 源田参謀が、電報を起案したのは、
大西司令官が東京を出発した10月9日
以降なので、大西司令官が飛び立った後、
なにかが起こったことで、電文を起案した
ようです。

 しかも、源田参謀は、大西司令官宛に、
零戦150機の準備の約束もしています。
この通り、源田参謀は、特攻作戦に深く
関わっています。

 それどころか、大西司令官を特攻の
責任者に祭り上げて特攻をやらせ、
自分は、特攻を賛美するものの、
責任は取らないという道を選んだ
ようでした。

 もうひとり、特攻作戦の責任者がいます。
それは、この後使われる各種の特攻兵器を
最初に開発を始めた人物です。

 それは、奇想天外の策によって山本長官に
寵愛を受けた黒島亀人参謀でした。

 黒島参謀は、山本長官の死後、軍令部第二部
(軍備や整備を担当する部門)の部長となり、
部員の浅野中佐に命じて、特攻兵器を考案
させました。1943年7月頃の話です。

 二人乗り豆潜水艇(海竜)、人間魚雷(回天)、
装甲爆破艇(震洋)などが開発されました。少将に
昇進した黒島参謀は、1944年4月に、これらの
特殊兵器のリストを軍令部部長の中沢少将に
提出しています。

 黒島参謀も、源田参謀と同様、若者たちを
兵器に乗せて自殺を強要する戦法を立案して
いながら、自身は全く責任を取らない道を
選んだことになります。

 源田参謀、黒島参謀とも、戦争指導部に
あるまじき非道な人物であり、ミッドウェー
海戦の敗戦責任をとって、源田参謀は赤城と
一緒に戦死すべきでしたし、黒島参謀は、
山本長官と一緒に軍法会議にかけるべき
だったと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 神風特別攻撃隊 [源田実航空作戦参謀]

 関大尉を指揮官とする神風特別攻撃隊の
敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の4隊は、
10月21日~25日にかけて出撃しました。

 10月25日に、レイテ島東方でアメリカ
護衛空母群に体当たりを行い、護衛空母
1隻撃沈、2隻中破という戦果を
出しました。147機突入し、
7機が命中しました。

 これが特別攻撃隊の始まりでした。特攻して
戦死した方々には誠に申し訳ないことながら、
この時、戦果を上げてしまったことが、
この後の特攻作戦につながったと
言えます。

 この特攻隊に源田参謀は以下のように
関わっています。1944年10月3日
(台湾沖航空戦の二日目)に、源田
参謀は、以下の電報を起案しています。

 「神風攻撃隊の発表は全軍の士気昂揚、
並びに、国民戦意の振作に至大の関係
あるところ。

 各隊、攻撃実施の都度、純忠の至誠に
報ひ攻撃隊名(敷島隊、大和隊)をも併せ
適当の時期に発表のことに取計ひ度処。
貴見至急承知致度。」

 この電報は、神風特別攻撃隊が初戦果を
あげた翌日の26日に、軍令部から、
大西一航艦司令長官あてに発信
されました。

(追記)
 昭和30~40年代、源田参謀が参議院議員と
なった時に、学生が時の人を呼び、討論する
という番組に呼ばれています。

 その際、学生から「特攻隊にどう関わったの
ですか。」という質問を受けました。それに
源田参謀は、「軍令部を辞めたあとなので、
特攻隊とは関係ありません。」と答えて
いました。

 軍令部を辞めたのは、1945年1月15日であり、
内容そのものが、ちょっと調べれば分かる嘘を
言っています。しかも、上記の通り、深く
関わっています。

 この番組を見ていたかつての零戦乗りは、
「よくもぬけぬけと、ああいうことが
言えるな」と思ったようです。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 反省しない組織 [源田実航空作戦参謀]

 T部隊を創始した源田参謀は、以下の
ように語っています。

 「軍令部第一課に勤務した2年間に、
わが軍の頽勢を挽回しようと、色々のことを
企画した。実施に移した、「あ号作戦」は、
前述のごとく失敗した。

 T部隊が、実施に入った時、“大成功だ。
これで敵の進撃を食い止めることができた。」
とも考えた程だったが、台湾沖航空戦後も、
進撃に緩みは見えなかった。」としています。

 航空機のみで敵艦隊を撃滅できないことは、
ブーゲンビル航空戦以降のアメリカ機動部隊の
ことを全く研究していなかったと言っているに
等しく、一時でも「大成功」と思ったあたり、
能力に疑問があったと言えます。

 しかも、前回の失敗を全く反省せずに、
同じような作戦を立案してさらなる
失敗を招いているにもかかわらず、
反省が見えません。

 国家の利益のためというのが軍令部
(大本営)の言い分ですが、所属している
個人を守るために、反省してないという
結論になりそうです。

 しかも、この後、立案した大西参謀長
自身が、「統率の外道」という戦法が
実行に移されました。神風特別特攻隊
です。

 編成されたのは、1944年10月20日で、
マニラ北方のマバラカット基地において、
関行男大尉以下25名でした。

 250kg爆弾を抱いた零戦に乗り、
アメリカ空母に体当りせよという
命令でした。

 この戦法が外道であることは当然ながら、
さらなる問題は、立案者が実行しておらず、
前途有望な若者だけを飛び込ませている
ことです。

 佐官以上で特攻したのは、野中五郎少佐
ただ一人でした。立案者の大西参謀長は、
戦後自害しています。

 責任はとったと言えるのは、この二人くらいで、
参謀で特攻した人は一人もいませんでした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 大本営のペテン [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖航空戦の状況は、これまで紹介
しました通り、ほぼゼロに近いと言えます。
にもかかわらず、大本営は、10月19日に、
次のような発表を行いました。

 「戦果は、航空母艦撃沈11隻、戦艦2隻、
巡洋艦3隻。撃墜112機。東方の損害は、
312機。」

 これを聞かされた日本陸海軍将兵、
日本国民は、陸海軍航空部隊の盛況さに
驚嘆し、マリアナ諸島を奪われての
絶望から希望を取り戻しました。

 連合艦隊と軍令部は、全国民をペテンに
かけたと言えます。しかもこのペテンは、
この後の作戦に大きな影響を与えました。

 陸軍の参謀本部は、フィリピン決戦を
ルソン島に限定していましたが、この
戦果を受けて、レイテ島の地上決戦を
行うことに決定しました。この結果、
惨憺たる結果に終わりました。

 栗田中将率いる大和以下の艦隊は、
航空機の護衛もなく、レイテ沖に突入
するという作戦に出撃し、損害が
広がったことで、突入前に反転
しています。

 栗田中将の敵前逃亡は大問題ですが、
根本の問題は、台湾沖航空戦で、747機
あった兵力を300機以下に激減させたこと
でした。これにより、制空権を奪われることに
なりました。

 軍令部と連合艦隊が、能力に疑問があると
思える人物(源田参謀や淵田参謀など)に、
作戦計画作戦や指導を任せ、戦果判断を
間違えた罪は大きいと言えます。

 無能な人物が上層部にいる組織は、将兵が
いかに強力でも戦争には勝てないと言えます。
羊に率いられた100匹のライオン集団より、
ライオンに率いられた羊100匹の集団の方が、
強いという現実を示しています。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 台湾沖航空戦の真の戦果 [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖航空戦の真の戦果は、以下の通りです。

大破したのは、重巡洋艦キャンベラ、軽巡洋艦
ヒューストンで、両方とも魚雷が命中して
いました。他に損傷が、空母フランクリンと
ハンコック、軽巡洋艦レノでした。

 これは、日本軍機の激突と、爆弾命中に
よるものですが、撃沈はしていません。
結局、撃沈した艦はなく、17隻の空母は
全て健在だったと言えます。

 戦果針小棒大になったのは、夜間であった
ことと、練度不十分な搭乗員が、撃墜された
味方機の炎上や水柱、敵の砲火などを撃沈と
見誤ったためのようでした。

 10月12日の航戦状況を、アメリカ側の
報告で見ると、「日本軍の攻撃は何の戦果もなく、
大部分は、戦闘空中哨戒機と、対空砲火に
より撃墜され、アメリカ軍の損傷は、味方の
駆逐艦を誤射して損傷させただけである。」
としています。

 中島中佐の、「戦果はゼロに近い。」が最も
正確な分析だったということです。T攻撃部隊
作戦は、アイデアが奇抜なだけの、合理性の
ない大敗を招く作戦だったということを
証明しました。

(追記)
 ① 夜間であっても、レーダーにより
  位置は知られることになる。
 ② 対空砲火はVT信管付きのため、
  航空機は攻撃する前に撃墜される
  可能性が大きい。
 という2点は、過去の海戦を検証していれば、
分かったことです。

 作戦検討に参加していた人の中に、
源田参謀の案がこれらを考慮していない
ということを正確に判断できる人材が
いなかったということになります。

 正確な分析を指摘していた人たちの
話が全て無視されていることからしても、
この当時の組織の歪さが伺われます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 源田参謀の認識 [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖航空戦において、驚くべき戦果発表が
行われた事に対し、実松大佐や、中島中佐は、
冷ややかに見ていましたが、源田参謀は、
鼻高々だったようでした。

 大本営発表は、連合艦隊からの戦果と
被害報告に基づいたものです。また、
T攻撃部隊だけの戦果でもありません
でした。

 しかし、10月14日までの分は、
T攻撃部隊の戦果報告によるものが
大部分でした。

 そのため、源田参謀はそのまま通し、
航空部隊の手柄を自分の手柄として
誇りたかったようでした。

 本来、源田参謀は、航空の専門家であり、
戦果報告の真偽は、分かるはずでした。

 しかし、珊瑚海海戦の時の25航戦の
針小棒大な戦果報告に始まった、航空
部隊の誇大報告を、ほとんどその通りに
信じていたとしか思えませんでした。

 しかし、発表翌日の16日には、早くも
次のようなことが起こりました。

 台湾から飛び立った、索敵機が、空母2隻、
戦艦2隻他を、台湾南端東南東の海面で発見し、
鹿屋から飛び立った索敵機も、台湾東北東の
海面に、空母7隻を発見したという報告が
ありました。

 翌日の17日には、レイテ湾入り口の
スルアン島に、アメリカ艦隊の攻略部隊が
上陸し、同島をたちまち占領しました。

 これは、レイテ島上陸作戦の前触れであり、
翌18日には、ルソン島、マニラ湾周辺の
飛行場が、機動部隊の猛爆を受けました。

 ここに至って、連合艦隊も大戦果を
バッサリ切り下げ、空母4隻撃破程度と
大修正しました。しかし、これでも判断は、
甘いと言えます。


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著者:生出 寿
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