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巡洋艦摩耶 戦争直後の体験 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 最後に、井上氏の戦争直後の体験を
紹介します。

 井上氏は、戦後、空母鳳翔の航海長として、
ラバウル方面から、表南洋方面の復員輸送に
従事していました。その途中で、ヤルートに
停泊中、偶然アメリカ戦略爆撃機調査団一行と
出会ったことがありました。

 艦長と一緒に、彼らの乗艦を、儀礼的に
訪問しました。そこで覚束ない英語で、話を
していたら、「日本海軍は、どの海戦を最も
よく戦ったと思うか。」と尋ねられました。

 井上氏は、即座に「ガダルカナル海戦には、
日本海軍全力を投入して戦ったので、これが
一番激しい戦いだったと思う。」と返答して
います。

 すると、先方から、「アメリカ海軍は、
ハワイ海戦と、レイテ沖海戦が最も立派だった。」
と言われました。井上氏は、内心ぎくりとしたと
しています。

 井上氏の返答は、日本海軍が最も苦心した
海戦を意味しているのに対し、彼らの質問の
趣意は、兵術的に日本海軍の良かったと
思う海戦にあったからでした。

 後になり、おびただしい戦記物が各国から
出版され、レイテ沖海戦の作戦構想自体は、
極めて立派なものであるということが分かって
きました。

 主力は、フィリピン方面の敵艦隊に対して、
決戦を挑むと共に、機動部隊は、敵艦隊を
フィリピン北東海面を牽制するというもので、
この陽動作戦は効をなしており、作戦構想を
賛嘆させていたと知りました。

 しかしながら、レイテ沖海戦は、作戦自体は
立派であっても率いた司令官が無能のため、
全く意味のない海戦になったといえます。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 笑えない話 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 伊豆大島の見張所からの、
「敵大輸送団見ゆ」と、
大本営、連合艦隊司令部から出された、
「決戦配備につけ」
の指令により、井上氏は、横浜司令部で、
最後の決意を固めていました。

 しかし、その後一向に情報が入りません
でした。約1時間もたったと思われた頃、
大島見張所からの電報で、「さきの船団は、
夜光虫の誤り。」という報告があり、思わず
ホッとして苦笑し、警戒をときました。

 源平合戦の際に、平家の軍勢が、水鳥の
飛び立つ音におびえて、退却したという
話がありましたが、よく似た話であると、
つくづく感じたとしています。

 もっとも、大島付近は、海流の流れが
激しく、夜光虫の繁殖する時期になると、
前記のような笑えない話も起こることは、
しばしばあの付近を航海した井上氏には、
分からないことではないとしています。

 いよいよ追い詰められた観がし始めた頃、
国内の物資は、ますます底をつき、各部隊
とも自給自足の対策に狂奔していました。

 横浜大桟橋の突端にも、横付けする船も
なく、部隊では海水を沸かして塩を作ったり
していました。また、山下公園の芝生は
掘り起こされて、サツマイモの畑と化
していました。

 8月上旬になると、兵隊たちの間にも、
日本が、連合国に対して休戦の申込みを
したという噂が流れ始めました。

 井上氏は、流言に惑わされることの
ないように、連日部下を戒めていました。

 いよいよ8月14日になりました。当日、
朝からラジオを通じて、「明日の12時に
重大な放送があるので、国民は一人
残らずそれを聞くように・・・」という
政府からの伝達が行われました。

 そして翌日の15日の正午、井上氏は、
第22戦隊司令部において、司令官
石崎昇中将以下、他の戦友たちと共に、
いまだかつて経験したことのない大元帥陛下の
御肉声を、ラジオを通して耳にしました。

 ついに骰子は投げられ、万事休すとなり
ました。聞き終わった井上氏は、ただ
呆然として落涙するのみだったと
しています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 本土決戦 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 1945年3月、小磯内閣から、鈴木内閣に
変わり、戦局の収集を図ろうとする意図は、
国民にも見てとれました。

 一方、連合国側は、2月にヤルタに会し、
イタリア脱落後の日独伊の処理方針を会議し、
5月にドイツが降伏すると、7月にはポツダム
宣言を発して、日本に降伏をうながしてきました。

 この頃、どこからともなく、日本が連合国に
対して、降伏の意思表示をしたとか、しない
とかの噂が流れていました。政府及び、
大本営としては、あくまで徹底抗戦を
はかる方針でした。

 来るべき本土決戦に備えて、陸海空の
特攻部隊を持って、敵軍百万を、上陸時の
水際にとらえ、全滅させるための作戦計画を
たてて、国民とともに本土を死守する方針を
決めていたようでした。

 特攻部隊や、特攻兵器の温存には、特別の
施設を作り、毎月のように猛特訓を実施して
いました。もちろん、軍人には、敵に対する
降伏など論外のこととして無視され、軍の
士気は、極めて旺盛でした。

 井上氏らも、横浜基地にあって、抜刀術や
対戦車攻撃訓練などを受けつつ、本土決戦の
成功を固く信じて、毎日を送っていました。

 1945年も盛夏をむかえて、暑い日が
続いていたある夜のこと、伊豆大島の
見張所から、全軍あてに、「敵大輸送団見ゆ」
という緊急電報が入電しました。

 大本営、連合艦隊司令部から、ただちに、
「決戦配備につけ」の指令が飛んできました。
井上氏は、横浜司令部にあって、いよいよ
きたるべきものが到来したという、最後の
決意を固めていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 一矢報いたような一大痛恨事 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 敵の大編隊が、相模湾ぞいの探照灯に
補足されて、その大きな姿を、夜空に
くっきりと映し出しました。間髪を
入れず、わが高角砲が、砲撃を
開始しました。

 その間隙を縫って、夜間戦闘機が近接し、
弾道が閃光で視認できるように作られた
曳痕銃弾を撃ち込みました。

 一連の攻撃が終わると、B29の燃料
タンクの一部と思われる箇所に火がついて、
燃え上がりました。

 火は急速に燃え広がって、B29も火だるまと
なって墜落していきました。この一連の出来事を
見ていた井上氏は、思わず万歳を叫ばずには、
いられませんでした。

 洋上哨戒部隊から、陸上見張所、探照灯、
高角砲台、戦闘機とリレーされていく、
日本軍の対空陣のバトンタッチは、
首都防衛の精強さと、訓練の精到さを
如実に証明してあまりあるものが
ありました。

 1945年初頭は、日本軍の戦力は
ガタ落ちしていましたが、それでも東京の
周辺には、陸海軍の最強部隊が、配備
されていると噂された通り、さすがと
うなずかせるものがありました。

 その夜、敵の攻撃機300機に対し、
撃墜数は、井上氏が確認したものは
26機を数えました。B29の乗員数は、
8名であるので、208名の搭乗員が
戦死したことになります。

 敵ながら大きな犠牲であり、逆に、
日本としては、一矢報いたような
一大痛恨事でした。それでも、
1945年3月に硫黄島守備隊が
全滅しました。

 4月には、沖縄特攻の戦艦大和が撃沈し、
6月21日に、沖縄守備隊が全滅と、前線の
悲報が相次ぐ頃には、内地の主要都市は、
ほとんど灰燼に帰していました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 夜間戦闘機紫電 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 1945年5月のある夜、井上氏が、
勤務している第22戦隊の司令部が
置かれている横浜中央突堤近くで、
日本軍が、アメリカの空襲部隊に
対して攻撃している場面を目撃
しました。

 その日の夜は、静かで寒く晴天でした。
午後8時頃、いつものように哨戒隊から
B29の大編隊が、北方に向かって進行中
であるという緊急信が届きました。その数は
300機でした。

 夜間は空中戦闘ができないので、護衛の
P51戦闘機はついていませんでした。間もなく
ラジオやサイレンで、京浜工業地帯に空襲
警報が発令され、第22戦隊司令部にも、
戦闘配置につけの発令がなされました。

 満を持して敵機の来襲に備え、町のランプは、
ことごとく消され、漆黒の暗夜と化していました。
井上氏は、今夜こそ空襲の状況を見届けてやろうと、
屋上の望楼で、12cm大型双眼鏡にしがみついて、
見張っていました。

 麾下の哨戒部隊の配置地点が分かるので、
爆撃機隊が東京方面に到達する時刻は、
推定できました。

 その時刻になると、伊豆七島や、三浦半島、
さては伊豆半島から東京にかけて配備
されている各見張所が、敵機の通過状況を
報告してきました。

 東京方面への空襲で、敵機の通過する
経路は、相模湾から、平塚付近に侵入し、
北東に針路をとって、東京に向かうのが
定石でした。

 上空には、海軍夜間戦闘機紫電が厚木、
横須賀の基地を中心に、待機していました。
この戦闘機は、B29よりも口径の大きい
機銃を装備しており、夜間の迎撃戦闘用に
制作されていたので、威力は、B29を
ゆうに撃墜できるほどの新鋭機でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 本土爆撃 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 サイパン、グアムの航空基地を整備した
アメリカ戦略空軍は、1944年末から、
長距離重爆撃機B29をもって、大挙して
日本の都市、軍事施設、軍需工場の爆撃を
開始しました。

 この小手調べはもちろん東京で、その後、
地方都市、軍需工場と随時、随所に
しらみつぶしに選定した目標に
壊滅的な打撃を与えていました。

 最初は、夜間空襲が主でしたが、硫黄島が
玉砕して間もない1945年4月からは、
援護戦闘機とともに、堂々と昼間の空襲を
行うようになりました。

 200ないし300機のB29の編隊に、
長距離援護戦闘機P51を40~50機つけ、
一挙に広範な市街地を焼け野原と変えて
いく凄まじさは、国民の士気を打ち砕くこと、
おびただしいものがありました。

 本土防空の任務を担当していた陸海軍の
防空砲台は、死力を尽くして敵に当たりましたが、
そのころ生産力もようやく落ちて言った軍需
産業は、この頽勢を挽回するには、あまりにも
貧弱でした。

 昨日は東京、今日は名古屋、新聞は毎日
被害状況を報道しているものの、戦争指導の
重責をになう政府や、大本営の管制を受けて、
その範囲にも自ら限度があり、実情はほとんど
知らされていませんでした。

 一方、日本本土は、跳梁に任せていたように
見えますが、本土防衛部隊も特筆に値する
戦果を上げていました。

 1945年春、日本の軍需生産は、
意気奄々として、前線にも本土防御にも
充分な兵器を供給する能力はありません
でした。

 わずかに確保された、陸海軍の防空砲台員と
迎撃戦闘機の術力には、驚嘆に値するものが
ありました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 第22戦隊 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 B29が何機、サイパンやグアムから
来ているのか知ることは、国土防衛上
からも大きな問題でしたので、
第22戦隊の漁船集団による
哨戒は、極めて重要な
意味を持っていました。

 小笠原南方海面で見張っていると、
上空を通過するB29の編隊機数と
進行方向は、確実に判定できました。

 そこで、大本営は、空襲を受けるかも
知れない都市の予想と、機数をラジオで
伝え、被害を最小限に食い止めるように、
国民を指導していました。

 それだけに効果は大きく、第22戦隊は、
部の内外から感謝されていました。その
せいで、アメリカの飛行機や潜水艦の
妨害が激しくなり、多くの犠牲者を
出すようになっていました。

 一方で、ただやられているだけではなく、
潜水艦に爆雷攻撃をして撃沈させたり、
B24哨戒機を小さな機銃で撃墜し、
敵搭乗員を捕虜にして、横浜港まで、
連れて帰って来たりもしていました。

 井上氏の任務は、漁船の乗組員に、
天測法を教えて、艦位を計算することを
覚えさせることでした。とはいえ、乗員は
漁師あがりの船員だったので、それほど
やっかいなものでもありませんでした。

 第22戦隊司令部は、横浜港の中央突堤を
間近にひかえたユナイテッドクラブを
徴用して使い、兵舎は、お隣の
イングランド銀行を利用して
いました。

 それでも手狭になったので、反対隣の
イギリス領事館を使うことを考えて、
外務省に交渉したら、当然のことながら、
領事館は、外交特権をおかすものとして、
こっぴどく叱られたこともありました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 B29 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 井上氏は、外出が許され、自宅に戻りましたが、
くつろぐ暇もなく、摩耶の後始末で、横須賀に
行ったり、東京に赴いたりする毎日が続きました。
そして、仕事の合間を縫って、横須賀の
海軍病院で負傷の治療をしていました。

 ある日、突然空襲警報が、横須賀市内に
流れました。井上氏は、その日はちょうど、
海軍病院で治療を受ける日で、横須賀市内に
居合わせていました。早速、病院の空襲壕に
飛び込みました。

 防空壕の中で状況をうかがっていると、
どうも敵機は1機だけで爆撃を加える様子も
ありませんでした。そのうち、空襲警報が
とかれて、地上に出た井上氏は、上空を
ながめました。

 そこには、B29が15000mの高度で、
東京の方に向かっていくのが見えました。
砲台の高角砲は、時折発砲しているものの、
距離が遠く、弾丸が届きそうもありません
でした。忌々しいと思いましたが、
どうしようもありませんでした。

 このB29は、サイパン基地から、日本本土の
爆撃を強行するため、最初に偵察にきたもので
あったことが分かりました。

 ここから、終戦に至る10ヶ月の間、多くの
国民と住居や資源が、痛めつけられたか
分かりませんでした。今思っても、恨み
骨髄に徹する爆撃機ではあるとしています。


 12月に入り、負傷の治りも良くなり、
いつまでも遊んでいられないと考えている
うちに、第22戦隊司令部付に発令
されました。この戦隊は、遠洋漁業船を
160隻ほど保有している哨戒部隊
でした。

 母艦に引き連れられて、交代で小笠原南方
海面に出動し、敵艦隊や、内地空襲部隊の
来攻をいち早く大本営に伝える任務を
持っていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 海兵団宿舎に隔離 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 一夜明ければ、艦隊は、シブヤン海を
突破し、レイテ島目指してサンベルナルジノ
海峡から、太平洋に出ました。

 この日も、早朝から空襲を予期していた
わが艦隊でしたが、どうしたことか、
敵機は全くと言っていいほど、
かかってきませんでした。

 この時期、小沢中将の指揮する北方囮部隊に、
敵の機動部隊がまんまと釣り上げられた時期
でしたが、そんなことを知るよしもなく、
栗田中将の残存部隊は、ひたすら西進
していました。

 おりしも、味方艦隊は、水平線の彼方に
空母を中心とした敵艦隊を発見しました。
砲戦に関する限り絶対の自信を持っていた
日本艦隊は、大和、長門以下、主力艦隊の
大口径主砲をもって、35kmの遠距離から
砲撃しました。

 これにより、敵艦隊を撃沈、または撃破し、
この時とばかりは、負傷の傷みで、駆逐艦の
ベッドに寝ていた井上氏も、快哉を叫ばずに
いられませんでした。


 その後、レイテ沖海戦は終わり、左目と
左顔面を負傷した井上氏は、他の摩耶乗員と
一緒に、巡洋艦利根に乗って、舞鶴に引き揚げ、
神奈川県辻堂の海兵団宿舎に隔離されました。

 身分は横須賀鎮守府付きでした。隔離と
言うと異様な感じを受けますが、フィリピン
作戦の実態や我が艦船の損害などが、
外部に漏れることを防止するためでした。

 井上氏の自宅は、目と鼻の先の逗子に
ありましたが、当然上陸外出は許されず、
悶々の日々をすごしていましたが、ある日、
始めて外出が許可されました。

 しかし、久しぶりに家でくつろぐ間も
ありませんでした。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 武蔵撃沈 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 第一波の攻撃が終わりをつげようとする
11時すぎ、一本の魚雷が武蔵の後部左舷に
命中しました。しかし、10cm以上ある防御
甲板のため、ほとんど被害らしい被害もなく、
艦は戦闘を続行していました。

 こうして、第一波の攻撃は、約40分ほどで
終わりました。それでも艦内には、あちこちに
小被害や犠牲者が出ていました。

 便乗者の井上氏には知る由もありません
でしたが、戦いの現実はいつも厳しいものが
あることは確かでした。

 第一波に続き、第二波、第三波と次々に
来襲する敵の攻撃はついに夕方まで続き、
その最後が大何波であったかも覚えて
いられませんでしたが、午後5時頃には、
武蔵も満身創痍でした。

 致命的な被害を受けて、艦は大きく
右に傾き、航行は不能、砲塔も旋回できず、
上甲板には、戦友の屍や、被弾の痕が
あちこちに見られました。

 井上氏は、後で知ったことですが、
その頃の武蔵は、機関室に浸水し、
魚雷は20数本も命中しており、
沈没寸前の姿であったという
ことです。

 武蔵は、午後8時過ぎ、大爆発とともに、
シブヤン海の夜空をこがして沈没して
いきました。幸か不幸か、摩耶の乗員は、
沈没2時間ほど前に、駆逐艦に移乗して
いたので、難を逃れることができました。

 しかし、摩耶の乗員の中には、武蔵救難の
ために在艦を命じられた応急班員もおり、
この中には、武蔵と運命を共にした乗員も
多数いました。戦後になっても、胸の痛む
悲しみのタネだとしています。

 井上氏は、空襲が終わろうとする最後の
爆弾の破片で、左顔面を負傷し、包帯で
頭をグルグル巻きにされて、駆逐艦に
移乗していました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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