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巡洋艦摩耶 本土爆撃 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

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 サイパン、グアムの航空基地を整備した
アメリカ戦略空軍は、1944年末から、
長距離重爆撃機B29をもって、大挙して
日本の都市、軍事施設、軍需工場の爆撃を
開始しました。

 この小手調べはもちろん東京で、その後、
地方都市、軍需工場と随時、随所に
しらみつぶしに選定した目標に
壊滅的な打撃を与えていました。

 最初は、夜間空襲が主でしたが、硫黄島が
玉砕して間もない1945年4月からは、
援護戦闘機とともに、堂々と昼間の空襲を
行うようになりました。

 200ないし300機のB29の編隊に、
長距離援護戦闘機P51を40~50機つけ、
一挙に広範な市街地を焼け野原と変えて
いく凄まじさは、国民の士気を打ち砕くこと、
おびただしいものがありました。

 本土防空の任務を担当していた陸海軍の
防空砲台は、死力を尽くして敵に当たりましたが、
そのころ生産力もようやく落ちて言った軍需
産業は、この頽勢を挽回するには、あまりにも
貧弱でした。

 昨日は東京、今日は名古屋、新聞は毎日
被害状況を報道しているものの、戦争指導の
重責をになう政府や、大本営の管制を受けて、
その範囲にも自ら限度があり、実情はほとんど
知らされていませんでした。

 一方、日本本土は、跳梁に任せていたように
見えますが、本土防衛部隊も特筆に値する
戦果を上げていました。

 1945年春、日本の軍需生産は、
意気奄々として、前線にも本土防御にも
充分な兵器を供給する能力はありません
でした。

 わずかに確保された、陸海軍の防空砲台員と
迎撃戦闘機の術力には、驚嘆に値するものが
ありました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平


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