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駆逐艦照月 広島原爆から終戦 [駆逐艦照月]

 広島に原爆が投下された日、高戸氏は、敵機1機来襲の
情報を得ていましたが、1機ぐらいなら大したことはない
だろうと考えていました。

 午後になっても広島からの情報が入ってこないことと、
新聞社に問い合わせても音信不通だったことが
気がかりでした。

 そこに、高戸氏が雇っていた嘱託の一人が飛び込んで、
「アトムボンブ(原子爆弾)と言っています」と叫び
ました。この嘱託は、ハワイの二世で、英語が堪能
だったので、短波放送を聞いて情報として提供して
きたものでした。

 高戸氏は、最初はデマと思ったものの、嘱託のタイプを
見て、司令官のところへ飛んで行きました。

 翌日になっても、広島からの連絡はなく、原爆か、高性能
特殊爆弾であろうということになりました。警備部から、
調査団を広島に派遣して、原爆であることを確認しました。
このことを聞いた時、高戸氏は、戦争の最後になったと
確信しました。

 そして、高戸氏の予想通り、玉音放送があるという
ことで、士官は全員集まりました。天皇陛下の声は、
聞き取りにくかったものの、降伏の宣言であった
ことはことは理解できました。

 高戸氏は、声を殺したものの、涙は止めることができず、
机も壁も水の中にいるように感じられました。そして、
今も海中にゆれているであろう照月が、哀れに
思いました。

(追記)
 高戸氏は、戦後、住友に入社し、住友重機械エンバイロ
テック社長と活躍しています。

 1986年(昭和61年)に、高戸氏は、照月の乗員で
生存している人を集めて語り合いたいと考え、入手できた
名簿をもとに参集できないかという案内を出しました。

 最初は4人が集まり、靖国神社に参拝をしました。その後、
則満司令の未亡人や、軍医長の未亡人なども集まり、話に
花を咲かせています。

 最後に、高戸氏は、欲望や権力などが渦巻く人の世では、
叡智と愛と、勇気と平和を守るための行動がなければなら
ないとしています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 小説「徳川家康」 [駆逐艦照月]

 山岡氏は、戦後、多くの小説を書き続けることに
なりますが、中でもの超大作が、18年間も新聞に
連載を続けた「徳川家康」でした。これにより、
山岡氏の名声は上がりました。

 高戸氏は、山岡氏に徳川家康を描いた動機を
聞いたことがありました。その時、山岡氏は、
鹿屋の特攻部隊基地に派遣され、毎日、飛び
立っていく若い特攻隊員を見て、この世の
ものと思われない悲しさを感じたとしています。

 同時に、平和の尊さを思い到ったとしています。
そして、日本で一番長く平和を築いた徳川家康の
一生を描くことで、平和の尊さを訴えたいと
思ったと、高戸氏に語っていました。

 山岡氏が亡くなってから、高戸氏は、山岡氏の家を
訪ねています。高戸氏は、山岡氏の一人娘の稚子さんに、
山岡氏が鹿屋の特攻基地で入手した「神雷記」を見せて
もらいました。

 そこには、特攻隊員の最後の思いが記されていました。
どれも、墨の痕が鮮やかな筆跡で、恐ろしいほどの
迫力で迫り、今更の如く、若くして戦火に散った
人々の死が重いと感じました。

 特攻隊により出撃した飛行機は2406機にのぼり、
3863名の戦死者を出しています。高戸氏は、
これほど痛ましいことがあってよいのかとして
おり、いつまでも忘れないといています。

(追記)
 1969年の年初に、山岡氏は「人に歴史あり」という
番組に出るので、高戸氏にも出てほしいとお願いし、
出演しています。

 この中で、高戸氏は、作家の方に、見てきたことを
すぐに書かないでよいといったのは、嘘を書かれては
困るので、何年後でもいいから、純粋な作家の目で、
本当の日本の戦いを描いてほしいと思ったからだと
話しています。

 山岡氏は、この収録の後、24年ぶりにその約束を
果たすとしており、この後も小説を書き続けていました。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 神雷部隊の若者 [駆逐艦照月]

 神雷部隊がいた野里村は、鹿屋飛行場の広い大地を
西南に外れた谷あいにあり、村民を立ち退かせた上で、
小学校に畳を敷いて隊員の休憩所にしていました。

 山岡氏が着いた時には、校庭に30人足らずの若者が
整列していました。手に地図を持ち、指揮者の言葉に
聞き入っていました。時々笑い声を立てており、
山岡氏は訓練部隊と思っていました。

 ところが、今から24機で出撃するところですと
案内してくれた通信長に言われ、この若者たちは、
数時間後にはことごとく死んでいるという事実に、
体が硬直しました。

 若者の列が飛行場を目指して歩き出した時、一人が
列から外れ、山岡氏の方に駆け寄ってきました。そして、
封筒を渡され、「報道班員。これをお願いします。
あなたが適当と思う方法で、処理してください。
ご苦労様です。さようなら」と言われました。

 これだけ言うと、若者は人なつこい笑いを残して、
みんなの後を追っていきました。山岡氏は、問い
返す暇もなく、封筒をポケットに収めて、飛行場
への山道を登って、帰ることのない出撃者を
見送りました。

 報道班員は、兵隊と故郷をつなぐという隠れた
役割を担っていましたので、渡された封筒は、
遺書か手紙だろうと想像していました。

 山岡氏が、封筒を開封したのは、出撃した若者
たちが無事に突入したという通信が入ってから
でした。中を確認すると、そこには、113円30銭の
お金でした。

 この金額は、この当時の若者(少尉)の1ヵ月分の
俸給に匹敵する額でした。山岡氏は、このお金を
託した若者がだれかを確認するために、各隊を
回って、調べました。

 ある部隊で、彼が移っている写真を見つけ、市島と
いう姓であることを突き止めました。その写真には、
必死部隊という印象はなく、底抜けの明るさが
漂っていました。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 神雷部隊 [駆逐艦照月]

 山岡氏が、移動中の敵機の空襲より恐怖をいだいて
いたのが、これから行く「神雷部隊」そのものでした。

 山岡氏は、これまで陸戦、海戦、空中戦、潜水戦など、
あらゆる戦闘を見てきていました。山岡氏自身よく
助かったと思えるような経験もしているようです。

 しかし、これから行く「神雷部隊」は、最初から死ぬ
ことが決まっている部隊であり、山岡氏もこのような
部隊に従軍したことはありませんでした。

「神雷部隊」は、桜花という1t半もの重量を持つ
爆弾を、敵地まで1式陸攻で運び、敵地上空で切り
離すと、人間が操縦士して敵艦に体当たりする
というものでした。

 「神雷部隊」とは違うものの、ゼロ戦に500kg爆弾を
搭載してそのままぶつかる特攻隊も同じ場所におり、
ここから出撃すると聞かされていたので、尚更、気が
重くなったようでした。

 山岡氏は、これから必死隊に入り、最初に何と挨拶すれば
いいのかという点だけで、締め上げられるような苦しみを
感じたとしています。

 慰めの言葉をかけるわけにもいかず、といって話をしない
わけにもいかないというという状況に、どうすればよいのかと
思ったと評しています。

(追記)
 山岡氏は、最初の特攻である敷島隊員の特攻記事
(1944年10月29日に発表)を読んだ時、呆然となったと
しています。

 その時の特攻隊員である関大尉のマフラーをつけた
きつ然と空をにらんでいる姿は、いかなる仏像より荘厳な
憤怒の像だったとしています。

 清純な若者を、このように怒らせていいのかという思いと、
このような犠牲の陰で生きている自分の生存までが、
いとわしいと感じたとしています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 海軍報道班員山岡荘八 [駆逐艦照月]

 川端氏と一緒に鹿屋に無向かった作家に山岡荘八氏は、
この時の様子を、“神雷部隊「桜花」”として朝日新聞に
書いています。

 この中で、海軍省に呼び出された頃は、沖縄を失うまでは、
国民のほとんどは勝つかもしれないと考えていました。
負けるだろうなどとあっさりあきらめることはできなかった
としています(楽に勝てるとも思ってはいませんでした)。

 高戸氏から呼び出しを受け、鹿屋へ行くように言われたとき、
同行している川端氏が鶴のように痩せていて痛々しい感じが
したとしています。

 高戸氏から、「いよいよ大きく歴史が変わるところです。
とにかく良く見ておいてください」と言われ、厚木の
基地に向かいました。

 この時、山岡氏は、高戸氏の言葉の意味が分かりません
でした。後に、持てる飛行機と、戦艦大和まで投入した
最後の戦いだったと知った時、ようや高戸氏の言葉の
意味が分かったとしています。

 鹿屋に着くと、ここは、朝夕定期的に敵の空襲を受けて
おり、滑走路以外は、穴だらけでした。そして、年老いた
召集兵や予科練の無邪気な子供が、壕堀りをしていました。

 配属は、司令部付か、空襲に対応する雷電部隊、又は、
神雷部隊に行くようにと言われました。山岡氏らは、神雷
部隊がある野里村に行くことにし、ここから4kmの行程の
間を移動していました。

 移動中も、敵機の空襲を知らせるサイレンが鳴り響いて
いました。しかし、山岡氏は、敵機より別のことに恐怖を
抱いていました。

(追記)
 山岡氏は、今回の高戸氏からの命令以前に、報道班員と
して、大陸やタイ、マレーなどに従軍し、数々の記事を
書いています。

 高戸氏に、海軍魂とは何ぞやという質問をしており、
高戸氏は、にわか雇われの私にそんなことが分かる
はずはないと言わせています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 報道班員川端康成 [駆逐艦照月]

 川端氏は、高戸氏の依頼で、鹿屋の特攻隊の基地に
向かいました。1945年5月初旬頃のようです。
そして2週間ほどで帰ってきていました。

 高戸氏は、川端氏がペンをとることはなかったとして
います。しかし、後に、婦人文庫に、生命の樹という
1編を書いていることが分かりました。

 これが、報道班員川端康成の唯一の作品です。これは、
植木という特攻隊員と鹿屋の水交社に務めていた啓子と
いう女性の淡い恋を通して、生と死を語らせた作品
でした。

 戦争が終った最初の春に、植木のことを忘れられない
啓子が死ぬつもりでいた時に、戦争で焼けた木から、
新しい芽が出ているのを発見し、新しい生き方を
見出すという物語です。

 高戸氏は、鹿屋の基地で、特攻隊員の死を見送って
いた川端氏は、鎮魂としてこの話を書いたのだろうと
しています。

 高戸氏は、戦後、川端氏に会い、この作品のことを
聞いてみたいと思っていましたが、叶わずじまいでした。

 川端氏は、この後、1968年にノーベル賞を受賞し、
1972年にガス自殺しています。高戸氏は、伊豆の踊り子
や、雪国などの作品を残した彼の繊細な神経は、生と死を
どのようにとらえていたのだろうかとしています。

(追記)
 生命の樹の中で、「人間はだれだって、自分の命が
自分の物だと証拠立てるには、自殺するしかない」
という会話があります。

 高戸氏は、川端康成の自殺の理由は、自分の命を自分の
ものだと証明したかったのであろうかと評しています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 川端康成に報道班員になるように依頼 [駆逐艦照月]

 高戸氏から新たな報道班員の選出を依頼された嘱託の方は、
高戸氏の命を、「現在は、丹羽氏のような中堅花形作家が多い。
しかし、高戸氏は、中堅では心元ないので、もっと上の一流
作家を報道班員に任命し派遣したいと考えていたようだ」
としています。

 あからさまにはいえないので、遠まわしに言ったと解釈して
おり、高戸氏のこの後の行動を見ると、この解釈で正しいと
いえます。

 高戸氏の承認を得て、当時の文壇の大御所、志賀直哉氏の
お宅に趣き、高戸氏の意向を伝えると、体力的に無理という
という返事でした。他に協力できることはするという社交辞令
でない言葉をもらえたので、他に誰がいいか尋ねました。

 正しく書いてくれるのは、川端康成さんならいいだろうと
言われました。鎌倉にあった川端氏のお宅に趣くと、自ら
ノミとツチで、庭に防空壕を掘っていました。

 自分で防空壕を掘れるだけの体力があるなら問題ないと
判断できたので、報道班員の依頼をしました。川端氏からは、
「場合によっては原稿を書かなくてもいいんですね」と念を
おされたものの、承諾をもらえました。

(追記)
 高戸氏は、川端康成ら何人かの一流作家を集めて、
報道班員としての役割を説明した後、特攻隊の基地が
ある鹿屋に赴くよう要請しています。

 この時、高戸氏は、今すぐでなくてもいいので、
30年後でも50年後でも、この戦いの実体を、
若い人々の戦いを書いていただきたい。
と依頼してします。

 この言葉に対し、川端康成がどう感じたのかは不明ですが、
一緒に呼ばれていた作家の一人の山岡荘八氏は感動し、
朝日新聞に、このことを書いています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 海軍報道班員 [駆逐艦照月]

 海軍報道班員の一人、丹羽文雄(にわふみお)氏とは、
高戸氏も深くかかわっていました。丹羽氏は、第一次
ソロモン海戦の際に、巡洋艦に乗り込み実戦を
体験して、「海戦」を書いています。

 高戸氏と丹羽氏が清水に赴いた時、宿の女中さんが、
丹羽氏を見て、どこかで見覚えがあると言ってきたので、
小説家の丹羽氏だと伝えると、「ああ、あのタンバさん
ですか」と言い直ししたのを聞いて、高戸氏はおかしく
なりました。

 1945年2月、戦局は厳しくなってきたので、高戸氏は、
この状況を正確に報道しようと考え、新しい海軍報道班員を
人選することにしました。この時、高戸氏の下で働いていた
嘱託の一人が、高戸氏の命は以下のようなもであったと記録
しています。

 「特攻作戦は、我国の歴史を見ても未曾有の大作戦
なので、日本の心を正確に誤りなく次世代に語り継がな
ければならない。そのための人材を選出し、報道班員に
任命し、フィリピンの現地に派遣したいので、手配する
ように」

(追記)
 高戸氏は、丹羽氏と一緒に、横須賀の海軍機雷学校を
訪問しています。この学校の教頭をしていたのが、
照月で一緒に戦った則満司令でした。

 お目にかかり、夜にはすき焼きをごちそうになって、
昔の話に花を咲かせていました。

 高戸氏は、これがいつの時期だったのか思い出せず、
終戦後40年以上たってから丹羽氏に確認したことが
ありますが、記憶にないと言われています。

 諦めきれなかった高戸氏は、丹羽氏とお会いしたい旨の
手紙を書きましたが、手紙を書いた頃は、丹羽氏は、顔の
識別もできないほどの状態になっていたため、あきらめた
としています。丹羽氏とは、終戦後も付き合いがあった
ことを示します。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 大阪警備府での仕事 [駆逐艦照月]

 大阪に赴任することになった高戸氏は、宿舎を探す
ことから始めました。偶然にも大臣官房調査課の
主計中尉から、実家に年老いた両親しかおらず
心配なので泊めてくれるという話が来ました。

 気は引けたものの、当てもなかったのでお世話に
なることにしました。向かってみると、石垣に
築きあげられた立派な邸宅でした。

 ご主人は医者をしており、温厚な方でした。奥さまも、
聡明さにあふれた方で、二人から温かく迎えられました。
高戸氏は、この邸宅から大阪の警備府に通うことになり
ました。

 警部府で、高戸氏は政策参謀付となり、大本営海軍
報道部から来たということで、報道関係の仕事を命じ
られました。

 高戸氏は、新聞記者を集めて、戦局の発表をしたり、
解説をするといった仕事をこなしていきました。

 高戸氏は、部下がいないことで、困ることになり、
誰かいないかと士官に頼むと、防空壕堀をしている
二等兵に、毎日新聞の支局長をしていた者がいる
という話をしてくれました。

 会ってみると37歳の男でした(高戸氏はこの当時
30歳前後です)。

 高戸氏は早速会い、「娑婆でいえば、君は私より相当
先輩だが、私は大尉で君は二等兵である。私の命に従う
のが屈辱でないなら、私のところに来ないか」と誘い、
新聞関係の仕事であることを伝えました。

 これを聞いた二等兵は喜んでやりますと返事し、高戸氏
のもとで仕事をすることになりました。

(追記)
 雇った二等兵は、規定の時間に戻らないといった軍紀違反を
するような人で、軍人としてはできは良くないと高戸氏は評して
いました。

 しかし、高戸氏の仕事である新聞記者を集めるという点では、
新聞記者らの大先輩ということもあり、話がよく通り、大いに
役立ったしています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 大阪へ行く [駆逐艦照月]

 1944年に入り、マーシャル群島を失い、マリアナ沖
海戦で敗北しました。

 マリアナ沖海戦の時、海軍省では、灯火管制が敷かれ
ていたので、高戸氏は、ロウソクの炎の前で、戦果を待ち
続けていました。そこに、敗北の知らせが来たので、声も
なくロウソクの炎を消していまいた。

 サイパン島の玉砕が伝えられた時、東條内閣は総辞職し、
小磯・米内内閣が誕生しました。米内海相の後釜になった、
井上成美大将は、密かに高木惣吉少将に終戦工作の密命を
出していました。

 10月25日に、レイテ沖海戦に敗れ、11月になると
東京空襲が始まりました。この頃になると、本土決戦が
現実味を帯びてきました。

 これを受けて、地方に総監府が作られることになり、
海軍もこの方針を受けて、機関を作ることになり
ました。

 この機関には、二年現役士官が配属されることになり、
高戸氏は、大阪へ行くことになりました。高戸氏の
家族は、この頃には、信州に疎開させていたので、
大阪には単身赴任ということになりました。

(追記)
 高戸氏ら二年現役士官の人たちは、このままでは国家が
ダメになるということで、国家を救うには東條内閣を倒す
しかないという謀議をしていました。行動を起こす前に、
上記の通り、各地に散ることになりました。

 この頃には、軍によって抑圧されていた思想家の人達は、
このままでは、日本民族が滅ぶとしており、終戦に持ち
込まなければならないということを話していました。

 高戸氏は、仕事がらこのような主張も聞いており、共感
していたようです。実態を知っていた人達は、軍も恐れ
なくなっており、かつて右翼に困っていると言っていた
姿はなく、知識人の真骨頂が現れていました。


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