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日本への帰還 [天津風]

 アメリカ軍の接収隊が立ち去ると、早速不穏な動きが
出てきました。夕方になると、島民たちが、青龍刀を
持って、略奪を開始しました。森田指揮官は、ただち
に武装し、対応しました。武装した姿を見て、島民
たちは、蜘蛛の子散らすように四散して行きました。

 海賊の棟梁は、武器は全て接収したことになっているので、
頂けるチャンスと思いますという申し出をしてきました。親交を
結んでいる関係なので要望を受け入れ、ある程度引き渡し
ました。その際、極秘にすることと、日本軍に向けて発砲
しないことを約束させました。

 最悪の事態は想定する必要があるので、弾薬は最小限と
しました。なお、この約束は、厳重に守られました。

 アメリカ軍の接収隊が来てから1週間後、日本海軍所有の
安宅(あたか)で、接収隊がやってきました。摂取隊の隊長
から、アメリカ軍に武器はすべて破壊されたと聞いていたが、
相当数残っており、我々のために命をかけて守ってくれた
ことに感激するという言葉をもらいました。

 森田指揮官は、この誤解をありがたく使わせてもらうことに
しました。接収隊長から要望はないかと問われ、安全の
確保と隊員全員をまとまって日本に帰れるようにして
欲しいこと、生鮮食料をお願いしました。

 この要望は受け入れられ、1946年3月28日に、森田指揮官は
博多に到着し、海軍生活の幕を閉じました。

(追記)
 森田指揮官は、再武装して島民の略奪に対応したことを50年後も
忘れられない光景であるとしています。平和を守るためには、非武装
中立でなければならないと言っている政党がいますが、この光景を
見てなんとおっしゃるのだろうかと記しています。

 歴史上、被害より占領したほうが得になると思われた時に侵略は
発生しており、武装して来るならこいと構えている国には、なかなか
攻撃しないものです。国家間同士で、平和を維持するなら、占領を
諦めさせるだけの武装をせよは現在でも通じる教訓と言えます。

武装解除 [天津風]

 武器を分けて欲しいという要望に対し、リストを司令部に
提出しており、なんとかしたいがもう少し時機を待って
欲しいという返答をしています。地元の有力者を
なんとしても味方にしておく必要があったので、
含みを持たせたということです。

 武装解除後、誰が自分たちの安全を確保してくれるのかと
いう問題がありました。これは死活問題であり、おろそかには
できませんでした。蒋介石軍も共産党軍も、島民たちも武装
解除後、どう出てくるか判然としませんでした。

 森田指揮官の結論は、自分の身は自分で守るでした。各小隊に
命じ、武器の1/3を見つからないところに隠すことにしました。深夜
にこっそり実行し、数日で終了させ、兵器帳簿を書き変えました。

 1945年10月17日午前9時、星条旗を掲げた駆逐艦らしき船が
4隻、南方より近づいてくるという報告がありました。陸戦隊が
降りてきて、マッカーサーのサインのある降伏勧告書を示し、
兵器を撤収するという高圧的な命令をしてきました。

 異議を申し立てたものの、取り付くすべもない状態なので、要求を
受け入れました。アメリカ軍は、日本軍の武器が、紹介石を通して
共産党に渡るのを防ぐため、横取り接収をしていました。

 武器を隠していたら、指揮官を殺すという脅しに対し、見ての通りの
岩山で隠す場所はないとシラを切りました。

(追記)
 上記の森田指揮官の対応は、賞賛に値するものだと言えます。戦闘が
完了したら、軍隊は平時の任務をすることになります。第一の任務は治安
維持です。

 実際、ソ連軍が侵攻してきた満州国では、陸軍が終戦時武装解除したため
住民がソ連兵に襲われ、軍人もシベリアに送られるという状態に陥っています。
これらは、明確なポツダム宣言違反ですが、武装していなければソ連のような
ならず者には通用しないということです。

終戦を迎えて [天津風]

 1945年8月15日、聖断による終戦となりましたが、
森田指揮官は、情報が断片的(原爆投下の事実も
知りませんでした)で終戦についても半信半疑でした。

 15日の午後、上海の司令部から「各隊ただちに戦闘
行為を中止せよ」の指令を受けて、初めて終戦を確認
しました。

 ここで、森田指揮官は、アメリカ軍上陸予想地点の
海面めがけて、実弾100発の射撃を命じています。
飛行機が来ても、やり過ごせと命じていたことに対する
鬱憤ばらしと同時に、島民に日本軍が健在であることを
誇示するためでした。

 ここからの問題は、目標を明示して、規律を維持する
ことでした。そこで、森田指揮官は、日本の復興のための
準備として、隊員に農工商のいずれかを希望させて、技能
訓練を開始しました。幸い、泗礁山部隊は、種々の特殊
技能者がいたので、この人達に先生をお願いしました。

 受講生も、日本に帰ったら必要になるということで、勉強
にも熱が入っていました。隊員たちの士気については問題
ないと見て、森田指揮官の最重要課題が、日本へ無事に
復員させることになりました。

 9月に入り、上海の司令部から、泗礁山部隊の武装解除は、
蒋介石軍が当たることになったという電報が入りました。この
情報を聞いた手を組んでいた海賊の棟梁が、日本軍が武装
解除される前に、武器を少し分けて欲しいという要望をして
きました。

(追記)
 天津風の戦歴から離れるて泗礁山部隊のことを紹介しているのは、
森田指揮官の終戦後の対応が素晴らしかったからです。終戦で、
目的を失った軍人に、なにをさせるかと考え、復員してから役立つ
技能を身につけさせるというのは、素晴らしい対応です。

 なお、森田指揮官は、25才(ここまでの戦歴を見てもそうは思えない
ほどですが)にして、高い徳を備えているといえます。

泗礁(ししょう)山部隊の指揮官を拝命 [天津風]

 森田艦長は、葬儀が終わって3日後の1945年4月17日に、
支那方面艦隊司令部に呼ばれ、泗礁(ししょう)山部隊の
指揮官を拝命しました。ここで終戦から武装解除を経て、
1946年3月28日に博多港に着くまで任務について
います。天津風の活躍からは外れますが紹介いたします。

 この山は、揚子江の河口に近い島で、島民のほとんどは漁業を
営んでおり、樹木がない岩山でした。既に着任していた部隊の
手で、送水と貯水池を作っており、水については不自由なく
過ごすことができていました。

 森田指揮官が着任した時、昼食にてんぷらがでてきました。しかし、
黒いものが混在しており、これは何かと主計科に尋ねたら「はえ」だと
いうことでした。料理中に入ってきて取りきれないし、このへんでは、
「はえ」が集るのは美味しい証拠だということで、避けて食べてくだ
さいと言われました。さすがに森田指揮官も呆れていました。

 森田指揮官は、この島を治めている海賊(海賊といっても、船を襲撃
する人達ではなく、治外法権的に振舞う漁業集団)と良好な関係を
築くために、丸腰で会いに行ったり、アメリカ軍が上陸作戦を企てた
時に備えて訓練に明け暮れていました。

 森田指揮官が着任してから、アメリカ軍の飛行機が上空を通過した
ことが何回かありましたが、攻撃されるまでは手を出すなと命じており、
終戦まで攻撃を食うことなく過ごしています。

(追記)
 アメリカ軍の上陸阻止のための主力兵器が、震洋という
特攻兵器でした。特攻兵器を発案し、それを命じた人達は
絶対に許せないものがあります。

 軍人が、1億総玉砕(日本国民は全員死ねと同義)という
言葉を発していた時点で、国を守るという意識はなく、狂人
としか言いようがありません。

天津風、生き残りの要因 [天津風]

 森田艦長は、激戦で天津風が撃沈せずに生き残ったのは
なぜかという質問を、多くの方から受けており、それに答えて
いますので紹介します。

(1)適切な指揮
 安心してついて来いという宣言と、強くなければ生き
残れないという信念のもと訓練を課したことで、十分な
練度を得られました。

(2)適切な操艦
 駆逐艦とは言えないほど戦力が劣化していることを
認識し、本来の護衛艦の行動である我が身を捨てても
船団を守るという行動は、取れませんでした。

 雲の合間から砲撃という戦法は、健全な駆逐艦なら取らない
ものでした。天津風は、護衛の任務は課されていなかったので、
このような戦法を取れました。

 戦後のアメリカ軍の記録では、天津風の激しい対空射撃に
驚き、隊列を離れた飛行機があったことが記録されています。

(3)被弾時の適切な応急処置と天津風の強靭さ
 大破しながら厦門まで自力航行できたのは、適切な応急の
おかげでした。同時に、3発もの爆弾を食らいながら、船体が
切断することも、大きく傾くこともなかったのは、陽炎型
駆逐艦の造船技術が優れていたことを表しています。

 最後に、「天は自らを助くるものを助く」ということわざを引用し、
安易な妥協は禁物で、納得のいくまで人事を尽くせという
態度が、天から手を差し伸べてもらうことができたと思われ
ますと記録しています。

(追記)
 森田艦長は、上記の他に、私も気にしている運という要素も
記述しています。天津風は、数々の強運に助けられて生き
残っています。

 森田艦長は、同じ時期に建造された初風、時津風が沈没し、
天津風が沈没しなかったのは、艦にも星占いのような、完成
時期による運勢が作用しているためではないかと指摘して
います。

 軍隊は、運・不運が自分の命を左右するので、人一倍感じ
やすいといえます。

天津風の最期 [天津風]

 艦の放棄を決意したら、一刻も早く退避する必要が
生じました。ここもいつ空襲されるかしれないので、
乗員と使用できる機銃、弾薬、荷物は、厦門の
司令部に移すことにしました。

 4月8日の午前に、森田艦長は警備艇に便乗して、
廈門司令部で上陸の交渉をし、午後に天津風に
戻って、作業を開始しました。根拠地隊の協力も
得て、4月9日一杯までかかりながら、搬出を
終えることができました。

 荷揚げが済むと、艦内の要所8箇所に爆雷を
セットし、4月10日の日没時に、軍艦旗を降下し、
爆破、天津風の武勲をたたえて別れの敬礼を捧げ
ました。

 生存者は皆、着の身着のままで上陸しましたが、
根拠地から宿舎や毛布衣類の支給があり、入浴と
食事もすることができました。

 根拠地も、天津風の機銃で戦力強化ができ、運んで
きた荷物に入っていたシンガポールでつんだ砂糖7俵が、
隊員の士気向上に役立ちました。

 休んだあと、最後の大仕事である、戦没者の葬儀と叙勲
申請を行いました。4月14日午後2時から根拠地の配慮も
あって、司令部集会場で行われました。天津風の軍艦旗の下、
戦士した36柱と便乗者3柱の遺骨と位牌を置き、供物、供花も
手厚く準備されました。

 シンガポールから一緒に行動していた海防艦は、全員死亡して
いるため、遺骨がない状態でした。天津風のみ、このような葬儀を
行えることをまれにみる幸運と森田艦長は評しています。

(追記)
 天津風乗員の一人がこの葬儀の時に考えていたことを手記と残して
います。その中には、戦争が3年も継続され、国民が恐怖と不安と
失望に置かれている中で、なおも犠牲を積み重ねようとする根拠は
何かと記されており、責任を取らない上層部に対する疑問をぶつけ
ています。

 これについて、森田艦長も、作戦指導部は戦争目的を逸脱した、
狂気の沙汰という指摘をしています。

天津風、岩礁に坐礁 [天津風]

 天津風は、4月6日午後7時30分に厦門に到着しました。
幸いここまで攻撃を受けることはありませんでした。辺りは
暗くなっており、このまま進むと機雷に接触する危険が
あるので、発光信号で見張所を呼びましたが応答が
ありませんでした。

 何十回か行いようやくしばらく待ての回答がありました。
機械を止めて待っているとしばらくどころか10分は待た
されることになり、その間、陸地の方へ漂流することに
なりました。待たされた返答は、貴艦はすでに機雷
敷設地域を通り過ぎているとのことでした。

 機関科の乗員が、漂流中、艦底でゴトゴトという音を聞いた
という発言をしており、陸の方へ流されているうちに機雷を
船底で抑えながら通過したようでした。これを聴いて、
森田艦長は冷や汗を流すことになりました。

 機雷は運良く抜けたものの、各部が焼き付きを起こし、
機械が使えなくなりました。錨を下ろして、漂流を防ぐ
ものの、錨が船を繋ぎ止める力が不足していたため、
留めることができず午後8時20分に岩礁に坐礁しま
した。

 引き潮で乗り上げ、天津風は傾くことなく岩礁に座った
感じだったので、満ち潮を待って離礁しようと計画し、
根拠地に曳航を依頼しました。

(追記)
 機械が焼き付きを起こしたのは、返答を待っている間に、
機関を停止させたためのようです。潤滑油に混入した
海水が、各部の焼き付きを引き起こし、機械が停止
してしまいました。

 機械だけは動かしていたら、焼き付きはもう少し先になり、
廈門の港まで自力で行くことはできたと思われます。

天津風、艦の復旧作業 [天津風]

 敵機は去ったものの、このままの状態で漂流すれば、
明日には止めを刺されることになります。機関を修復
させて、動くようにするのが先決でした。さらに火災が
消えず、下部にある火薬庫に引火する危険がありま
した。

 大砲は動かないので、注水したいものの、ポンプが
壊れており、バケツリレーで注水するしかない状態
でした。火災が激しく、なかなか近づけないところで、
海が荒れて、被弾箇所から大量の海水が流れ込み、
火災が下火になってきました。

 天の助けでしたが、潤滑油に海水が入ってしまい、
フル稼働させることはできなくなりました。修復した
右舷機関を、潤滑油に海水混入のまま動かし、
しばらく様子を見ました。すると、天津風は
動き出し艦内から歓声があがりました。

 動き始めたもの、浸水しており速度は出ません
でした。10分ほどして、左舷の機関も修復した
という報告があり、30分後には、6ノット出す
ことが可能になりました。

 舵は、機械では動かせない状態でしたが、人力
操舵でなんとか動かせるようになりました。

 ここから、次の目的地の廈門まで30海里(1ノットで30時間
かかる距離)あるので、今の天津風では、明るいうちに港外に
つくことは不可能でした。増速すると、海水混じりの潤滑油
では、焼き付きが起こる可能性があるので、無理は禁物でした。

(追記)
 1海里は約1.8kmで、1ノットは、1時間で1海里進む速度と
定義されています。

 日本海軍では、ノットを“節”という漢字で表記しています。
微速:8節
原速:12節
強速:18節
航続距離は最も経済的な速度で計測し、通常、原速~強速の間です。

 戦闘時の速度は、
第一戦速:22節
第二戦速:24節
第三戦速:28節
となります。

天津風、敵機の攻撃を受ける [天津風]

 敵機をやり過ごしてから十数分後、次の編隊が近づいて
きました。今回は、発見されており、各員全力で戦えの艦内
放送をしました。通常の方法では、敵機に主砲を当てることは
無理なので、1kmに照準を固定し、敵の編隊前方に弾幕を
作る作戦をとることにしました。

 最大戦速(今の天津風は20ノット)で、回避しながら主砲、
機銃は全力で撃ちまくりました。天津風には、香港で海防艦
から譲ってもらった機銃を合わせて、25mmが11基ありました。
これは、襲ってくるB25が装備している機銃とほぼ同数でした。

 天津風は、第一波の爆弾攻撃を回避、逆に敵機を1機撃墜
しました。第二波の爆弾攻撃もかわしましたが、機銃掃射で、
死傷者が続出しました。第三波の爆弾はかわしきれず、
1発命中。第四波も爆弾を2発くらい、機関故障、火災
発生、左舷に5度傾く被害を受けました。

 そのかわり、第三波の爆弾を命中させた機体を撃墜させました。
爆弾が3発も命中しているので、この状態でさらに爆弾を受ければ
万事休すなので、森田艦長は、すす煙幕の展開とウエス(機関手入れ
用の油をふくんだ布)に火を点ける命令をしています。

 瞬時に真っ黒な煙が上がり、艦は見た目は断末魔の状態に見える
ようにすることに成功しました。様子を見ていた敵軍機も、おかしいと
気づき再度攻撃を仕掛けてきましたが、この時は、機銃員も準備が
でき、逆に応戦して撃墜させ、攻撃はすべて回避しました。

(追記)
 この戦闘が終わる頃、零戦が飛来してきました。森田艦長は、もう少し
早く来てくれと、悔やみましたが、爆弾を持っていない敵軍機は、零戦
を見て機銃掃射を諦めて、帰還しています。

 天津風は、250kg爆弾を3発くらい大破でしたが、沈むことはなく、
強靭な船体に、森田艦長も驚いていました。

天津風、敵機をやり過ごす [天津風]

 先に進んだ海防艦を追いかけましたが、進路上には艦影を
見つけることはできませんでした。古来より、分散は各個撃破
の対象となるので、極めて不利でした。そこで、無線で、速力を
落とし、合同できるように配慮戴きたいという旨の要望をしました。

 しかし、海防艦からは、合同を急がれたいの返事が来ただけで、
速力を落とす様子がありませんでした。夜になり、波が高くなって
くると、船体が軋み出し応急の艦首が持ちこたえるか心配になって
きました。

 4月6日午前1時、心配の通り、仮設の艦橋最下部の囲い鉄板が
波に流され、休憩室が使用不能となりました。さらに電信機が故障し、
僚艦と通信をすることが不可能となりました。午前7時に、雲の上から
レーダー爆撃を受けるものの、被害はありませんでした。

 午前11時50分に、見張りから、「敵編隊が、まっすぐ向かってくる。
距離10km」という伝令があり、対空戦闘用意の号令はかけたものの、
敵の動静を見守ることにしました。このとき、アメリカ軍の航空機は、
天津風を発見できなかったため、そのまま通り過ぎて行きました。

 しばらくすると、進路上に茶色の煙が数条上がっているのを認め
ました。海防艦の方向なので、胸騒ぎがしてきました。この煙は、
” 天津風、敵機を撃墜“で紹介した海防艦への無慈悲な攻撃の
ためでした。このとき、海防艦は2隻とも撃沈しており、乗員は
全員死亡しています。

(追記)
 天津風は、この時12,7cm主砲を4門装備していましたが、
方位盤がなく一斉射撃はできませんでした。

 方位盤は、大型の望遠鏡で的を狙うと、各砲の指示盤が動き、
主砲を動かしてこの支持盤に合わせると、方向と仰角が調定
される仕組みになっています。

 この方位盤がないため、各主砲の標準機で調整するしかなく、
速力の速い飛行機では、射撃の機会を逃すことになりました。

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