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天津風、香港を出港 [天津風]

 4月4日も、空襲を受けることになりました。ただ、
爆撃目標が明確でなく、市街地に爆撃している
ような感じでした。この時、天津風は埠頭に
横づけして、黒い煙幕を張っていた効果が
あったのか、爆撃されずに済みました。

 連日空襲を受けるような港にとどまることはできないので、
4月4日の午後5時30分に、香港を出港しました。海防艦
2隻、駆潜艇2隻、天津風、輸送船2隻の8隻の陣容でした。
行き先は、九州の門司でした。第二哨戒配備で大陸沿岸
に沿って進んで行きました。

 4月5日の午前3時、商船の1隻が遅れ始め、本体と距離が
空いてきたので、その中間に天津風が入ることにしました。
その直後、夜間爆撃をくらい、商船が火災に飲まれました。
駆潜艇の一隻が乗員を救助し、香港に引き返しました。

 午後3時に再度空襲を受け、もう一隻の商戦も沈没し、残った
駆潜艇と天津風が救助を行いました。この商船には、香港の
派遣隊員が便乗しており、かなり危険な船旅となっていま
した。天津風と駆潜艇で、半数の乗員を救助し、駆潜艇は
香港に引き返し、天津風は本体に合流を急ぎました。

 香港に戻った2隻の駆潜艇は、香港に救助者を陸揚げし、
終戦まで香港で過ごすことになりました。

(追記)
 天津風と駆潜艇が救助作業をしている時、他の海防艦は、
救助をまかせて、さっさと遠ざかっていました。天津風と
一緒にいると狙われると判断したようでした。

 対空・対潜の警戒をしながら救助するのは困難と言えます。
天津風も、救助を途中で断念しています。

天津風、香港で空襲を受ける [天津風]

 香港は、空襲に晒されていましたが、空襲警報が解除
されると、香港から内地へ帰還する船を護衛するための
会議が開かれました。

 会議のメンバーは、ここまで来た海防艦、駆潜艇、天津風の
各艦長と、護衛する輸送船2隻の船長でした。シンガポールを
出港して以来、初めて顔を突き合わせたので、互いの健闘を
祝すると同時に、これからの武運を祈っていました。

 天津風が、香港に入港していた4月2日~4月4日にかけて、
アメリカ軍の50機を越える爆撃機が大規模な爆撃を繰り返して
いました。4月2日は、会議の後は空襲がなく休息することが
できました。

 4月3日の午前は、神武天皇祭には、軍艦旗掲揚に引き続き、
遥拝式(ようはいしき)を行いました。11時30分に、空襲警報が
あり、天津風は微速で移動しました。こちらに爆撃機が向かって
くるのが見え、増速して回避し、爆弾を逃れました。

 一方で天津風の前方を走っていた海防艦の1隻は爆弾を受け、
着底しました。昨日の会議で、沈没した海防艦の艦長と「あと一息
だ。頑張ろう」と言い合っていたことが忘れられませんでした。この後
空襲はなく、一晩安心して眠りにつきました。

 翌日の4月4日。この日は、香港を出港する予定の日でした。

(追記)
 着底した海防艦は、択捉型と呼ばれ、海防艦としては、最も強力な艦
でした。他の海防艦は、海防艦一号など番号しかないところに、満珠と
いう艦名がありました。

 天津風は出港前に、満珠から、25mm単装機銃2基と13mm単装
機銃1基を譲渡してもらい、天津風に装備しています。

天津風、香港に到着 [天津風]

 海南島の港では、投錨前だったこともあり、海防艦の
1隻が小破しただけで済みました。この港の大砲は、木製
の偽装砲しかなく安全な港とは言えないことから、小破した
海防艦を残して、到着した日の15時には出港することにしました。

 速力14ノットで北上を続けると、日付が変わった4月1日
午前3時に、爆撃を受けることになりました。この後、何度か
爆撃を受けるものの、敵影は見えないレーダー爆撃のようで、
処置なしの状態でした。

 しかも、天津風が一番大きいためか、爆撃を天津風1隻で
引き受けているような感じでした。他の艦は爆撃を受けて
おらず、重要な艦とみなされているようでした。煤煙幕を
張るなどしてやり過ごしながら北上しました。

 船団の司令官から、夜間に香港に入るのは危険だという
判断があり、時間調整のため仮泊しました。香港の港も、
潜水艦や飛行機によって機雷を巻かれている恐れが
あるため、航行には慎重にならざるおえませんでした。

 4月2日に、漁船の間を縫って香港に近づき、安全の
ため大きく迂回して港に侵入しました。午前9時30分に
香港に到着しました。10時に、香港対岸の
九龍(クーロン)近くに係留しました。

(追記)
 香港は、東洋の真珠とよばれるほど綺麗な港でしたが、
この当時は殺伐としていました。港内には沈没した船の
残骸があり、陸上も人が住んでいる気配を感じさせない
死の街でした。

 香港は、開戦直後に日本軍が占領しましたが、1944年
10月からアメリカ軍が攻撃を加えており、甚大な被害を
被っていました。

天津風、戦死者を出す [天津風]

 3月30日の朝に、爆撃機からの爆弾が数発、天津風に
投下されました。上空からのレーダーによる投下ですので、
手の出しようもなく、命中しなかったのが幸いと言えました。

 午前7時に、海南島が見えてきました。この島にある港に、
早くたどり着きたいと念願しました。午前10時に、港にたどり
着き、各自投錨せよの命令が来ました。

 森田艦長は、敵機の攻撃方法は、最初がスキップボミングに
よる舷側に対する攻撃、2回目が、舷側を直接狙う爆撃、3回目が
艦の構造物を狙う機銃攻撃となっていることを考え、最初のスキップ
ボミングをかわすために、陸に近づいて停泊しました。

 予想通り、敵機は、港の背後にある低い山地の稜線スレスレに
現れ、第一弾は、天津風を飛び越えて海中に落下しました。2弾目も
艦から離れた位置だったので、事なきを得ていましたが、機銃掃射で、
2名の戦死者を出しました。

 森田艦長が天津風に就任してから、初めての戦死者を出す
ことになりました。敵機は、1機撃墜し、港外に墜落しました。
爆撃機に乗り込んでいる人数は数人に対し、海防艦は、
180名が乗り込んでいるので、飛行機を相手の戦闘は
全く割があいませんでした。

(追記)
 このとき攻撃している爆撃機はB25で、中型爆撃機と言われて
います。機首に、20mm機銃を6~8門、機尾に20mm砲塔を
各1基装備しています。主の武器である250kg爆弾を、スキップ
ボミングしてくるので、小型艦には脅威でした。

 こうして見ると、海防艦以上の攻撃力があり、6名で動かせる
事を考えると、無視できない存在でした。

天津風、敵機を撃墜 [天津風]

 3月29日21時に、敵機は吊光弾を右舷側に撃ち込み、
左舷側から空襲してきました。こちらから反撃できないと
見ているのか、低空で接近してきました。森田艦長が
撃ち方始めの号令をかけましたが、一向に発射する
気配がありませんでした。

 機銃までの距離は近く、聞こえていないとも思えないので、
どうしたのかと問うと、「引きつけてから撃ちます。今撃ったら
逃げられます。」という返答があり、500mまで接近した時に、
猛射を浴びせました。

 弾は吸い込まれるように敵機に命中し、火炎を上げて墜落
しました。しばらくすると搭乗員が海に脱出し、片目を開けな
がら、こちらを伺いながら死んだふりをしていました。「艦長、
爆雷を入れましょう」という水雷長の意見具申がありました。

 森田艦長は、味方の仇を討とうという思いと、見逃してやろうと
いう武士道の心に悩みながら、見逃すことにしました。この戦闘で、
海防艦が1隻撃沈されました。

 3月29日だけで、3隻の海防艦が撃沈され、その艦にいた乗員は
全員死亡という惨状でした。ここまでで、生き残っているのは、
海防艦4隻、駆潜艇2隻、天津風の7隻となっていました。

(追記)
 4月6日の昼に、天津風と一緒に行動している海防艦1号が、
爆撃機25機と交戦し沈没しました。このとき、生存者は、海に
飛び込んだり、浮いている部分にしがみついていましたが、
これらに対し、機銃掃射し全員死亡させたという事実があります。

 戦後、森田艦長はこのことを知り、見逃したという決断が正し
かったのかと、迷うことになったと記述しています。

天津風、魚雷攻撃を受ける [天津風]

 爆撃機の攻撃に対し、天津風は前方のスコールを利用して、
対空戦闘を行うことにしました。主砲と機銃を放ちながら
スコールに身を隠し、爆音で敵機の態勢を判断し、
スコールから半身を出して猛射するという方法で、
20分ほど戦闘を行いました。

 この戦闘で、敵機を2機損傷させましたが、最後の輸送船を
撃沈され、輸送船をすべて失うことになりました。これが、
事実上シンガポールルートからの輸送放棄となり、南方
資源の輸送は絶えることになりました。

 護衛艦9隻は、輸送船がなくなったことで身軽になりました。
とはいえ、集団戦闘が可能なほど訓練は積んでおらず、
各艦が最大の戦力を発揮するほかないのが実情でした。
13時に再び空襲を受け海防艦1隻が撃沈されました。

 日没30分前、潜水艦が浮上しているのを発見しました。
その後潜行しましたが、これはわざとやったものでした。
舐めた真似をと思いながらも、反撃も回避もできない
状態だったので、強行突破することにしました。

 すると、天津風の前方を、数本の魚雷が通過しました。明らかに
天津風を狙ったものでした。その後も、何度か魚雷攻撃を受け
ましたが、すべて艦前方をすり抜けました。

 天津風は、仮の艦首により、15ノットの速度でも、30ノットと同等の
波を上げており、潜水艦が速度を見誤り、前方を抜けたようでした。
仮の艦首が、思わぬご利益になりました。

(追記)
 北号作戦が成功したのは、司令官の松田少将の指揮が適切だったという
ことが挙げられます。松田少将は、” 潮、第四航空隊の前衛駆逐隊に就く“
でも紹介していますが、レイテ沖海戦で空襲を全弾回避する離れ業を
演じています。

 北号作戦で運んだガソリンは、大和の沖縄特攻時に使用されています。
北号作戦に参加した駆逐艦、霞、朝霜、初霜は、大和の護衛として参加し、
初霜以外はすべて撃沈しています。

天津風、北上を続ける [天津風]

 3月28日の午後12時20分バレラ岬に差し掛かった
ところで、雷跡2本を発見しました。天津風は、サイレン
を鳴らして知らせましたが、魚雷に気づいたときには
回避する余裕もなく、輸送船に2本とも命中し、船尾が
切断しました。

 今までの速度を利用して陸に乗り上げさせ、乗員は
海防艦に救助させました。護衛を抜いて、輸送船を攻撃
という、舐めた真似をされたと感じた森田艦長は、反撃を
決意しました。雷撃地点に爆雷を10個落とし、重油の流出を
認めましたが、撃沈したかは不明でした。

 夜間に入り、航路を変更し敵の目をくらませようとしましたが、
哨戒機はレーダーを持っているようで、上空に爆音が聞こえて
いました。この調子ではどんな航路を通っても発見されると覚悟
を決め、北上を続けました。

 3月29日7時10分、あたりが明るくなりホッとしたところで、突然
海防艦の一隻が轟音とともに火柱を上げ、海中に没しました。文字
通りの轟沈でした。潜水艦の雷撃で、火薬庫に命中したものと思われ
ます。

 昨日、輸送船の乗員を助けた海防艦で、救助した乗員も含め
全員戦死でした。この後、天津風は、第一哨戒配備にして、北上
を続けました。11時30分、爆撃機が12機が、三機編隊に分れて
襲いかかってきました。

(追記)
 北号作戦では、航空戦艦伊勢と日向の航空機格納庫を利用
して、物資の輸送を行いました。必ず任務を完遂するという事
から、「完部隊」と名づけ、ガソリンや生ゴムなどを積んで、
2月10日にシンガポールを出港しました。

 潜水艦は、大淀の水偵で制圧し、100機もの空襲に襲われた
ときは、スコールに身を隠すなどしてやり過ごすました。この
方法で、被害を出さずに、日本まで物資を輸送しています。

天津風、攻撃機の空襲を受ける [天津風]

 哨戒機がついてきていたので、朝から第一哨戒のまま
続けていました。午後3時に、カムラン湾口を通過しました。
この湾は、日露戦争時バルチック艦隊が最後に寄港した場所
で、この時は日本が占領しているものの、制空権がないので危険
な場所でした。

 午後8時にナトラン湾内で仮泊することにし、ここで、第三
哨戒に切り替え、極力睡眠をとらせることにしました。ここで、
漁船が、新鮮な魚を分けてくれたこともあり、久しぶりの刺身
で生き返る思いでした。

 3月28日に8時に出港し、海防艦と駆潜艇がそれぞれ1隻づつ
加わり、護衛が10隻となりました。北上を初めて間もなくの10時
30分すぎに、攻撃機の空襲を受けることになりました。

 各艦の砲撃の合間を抜けて輸送船を攻撃され、20分で
沈没しました。駆潜艇が救助に当たりました。さらに、海防艦が、
潜望鏡を発見し、爆雷を展開しました。海防艦は、潜水艦を撃沈
したと報告しています。(戦後の資料で、沈没はしておらず被害を
受け基地で修理となっています)。

 さらに北上を続け、さらなる難所(潜水艦が必ずいる場所)に差し
掛かりました。とはいえ、今の装備では、探知能力が不十分で、
潜水艦を発見することはできませんでした。

(追記)
 1ヶ月ほど前の2月10日に、天津風が進んでいる航路とほぼ同じ
ルートを通って、輸送を実施した艦が存在します。実施したのは、
航空戦艦の伊勢と日向、巡洋艦大淀、駆逐艦の霞と初霜、朝霜
です。

 霞は、既にご紹介しているとおり、森田艦長が天津風に着任する前に
乗っていた艦で、森田艦長が退艦後、この輸送で本土に向けて出発
したということです。この輸送は北号作戦と呼ばれています。

天津風、カモー岬を出港 [天津風]

 3月25日午前6時に、カモー岬を出港しました。ここから
サイゴンまではメコン河の河口になるので、海岸は平坦で
浅く、潜水艦の心配はいりませんでした。10時にサイゴン
に差し掛かり、ここで、輸送船3隻は、予定通り別れ、
商船が3隻となりました。

 サイゴンのサンジャック港から、駆潜艇(潜水艦を駆逐することを
主の任務にする小型艇)が護衛に加わり、8隻で護衛することに
なりました。

 船団は、浅い海から、切り立った崖により深水が60mにもなる
海面に進みました。潜水艦の絶好の作戦海域なので、緊張が
走りました。

 3月27日午前9時、哨戒機を発見し、接触を始めました。威嚇の
ため(癪に障ったという理由もありました)、主砲を発射し追い払い
ました。哨戒機は遠くから監視をし続けていました。

 午前10時頃、崖の下に日本船舶の放棄された残骸が多数見え
ました。輸送船は、襲撃を受け沈没する際は、人命と積荷を守る
ため浅瀬や陸にのしあげようとします。戦死した乗員がいるであろ
う輸送船を見て、これだけの船が沈められていたら、戦争には
勝てないと痛感しました。

 哨戒機は離れずについてきていたので、いつまでもも感傷に
浸っているわけにはいきませんでした。

(追記)
 長期間の航海中は、敵には万全を期しながら、乗員に休養を
与える必要があります。

 艦の哨戒配備は、
 第一:戦闘配備のまま維持。披露が最も蓄積する。
 第二:二直交代。応急射撃、爆雷降下などは当直のみで可能。
    休息は十分にはできない。
 第三:三直交代。当直は警戒見張りのみ。非番は部署を離れて
    睡眠をとれるので、最も長続きする配備。
 の3種類があります。

 艦長は、対応遅れを防ぐため、どの哨戒の時も基本は艦橋にいました。
艦長は健強な体力が必要でした。

天津風、シンガポールを出港 [天津風]

 2014年3月17日に、天津風は、船団に加入して、
内地に向かうように電報が届きました。加入となって
いるところを見ると、天津風は、護衛戦力とみなされ
ていないようでした。

 森田艦長は、天津風は損傷艦であっても駆逐艦
なので、護衛兵力としてくれるように指揮官に依頼
しました。前部がない(前方への攻撃ができない)
天津風が最も適している左最後尾につくことに
しました。

 輸送船は、潜水艦の攻撃を避けるため、陸近くを
航行するため、左側は潜水艦の防御をあまり考え
なくてもよいので、対潜能力がほぼない天津風
が左側に位置しました。

 今回の陣容は、商船が4隻、貨物船が3隻、護衛艦が、
海防艦6隻と天津風の7隻でした。天津風は、希少金属
のチタンやモリブデンを10tと砂糖を7俵積み込み、
輸送することになりました。

 3月19日に、シンガポールを出港した直後、商船の1隻が
触雷し沈没しました。この時沈んだ商船「さわらく丸」は、機動
部隊の攻撃を受けたときに、唯一生き残り、強運船といわれて
いましたが、今回は運が続きませんでした。

 マレー半島陸岸に接近するように航海を続け、3月24日に、
カモー岬まで1日遅れで、到着しました。ここからが魔の海域と
なります。

(追記)
 海防艦は海上護衛を主任務とする艦で、艦隊決戦をメインと
としていた海軍は、建造に消極的でした。

 一緒にいる海防艦は、爆雷の装備と電波探信儀などは天津風
より装備しており、対潜能力は優れているものの、主砲は25口径
なので、50口径の天津風が一番の火力を持っていました。

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